指についた自分の血が乾いて、海苔みたいな軽い音を立てる。気分は急降下を続けていた。むしろ気分が良くなる要素なんで無かった。汗も気持ち悪いし、足を動かすごとにぐずつく傷の痛み。服はみっともなく裂けているし、きっと頭もぐしゃぐしゃだろうし。
かろうじて俺を支えていた、戦いの興奮も徐々に冷めていく。
「つーか……。刀装も壊しちゃったよ……」
装備を丸々亡くしてしまったと知っても、顔色を変えないであろうあの人を思うと、また気分が下っていく。ぼやきつつ本丸へ戻る足を止めると、俺がの具合が悪いと思った鳴狐のお供が「加州殿! お気を確かに!」と叱咤した。
俺が加州清光という打刀で、今は歴史修正主義者を相手に戦を繰り返す毎日で。我が身の在るところを思えばそれを口にすることはしないけれど、本当の俺は、怪我をするのがいやだった。小さな傷だっていやだ。拵えのひとつでも欠けたところを見られるのがいやだ。己が傷つくと同時に、俺が愛される理由までが傷つき、価値を失うように思えるから。そう、今の俺は、主の愛する理由の無い俺に思えた。唯一、戦いには負けていないという事実が俺の矜持を保っていた。
帰城すれば、すでに主によって手入れの順番が決定されていた。道中での拾いものである玉鋼を涼しい目で一別し、が読み上げる。一番は軽傷の小夜左文字だ。
「加州は二番の手入れ部屋に」
「はーい……」
「私と一緒に行きましょう」
「——、え」
「良い? 少し話を聞きたいから」
あ、ああ、そういう。話を聞きたい、ね。仕事熱心な人だよ、全く。
「そりゃ、いーけど……」
「じゃあ行きましょう」
玉鋼を資材用の倉に移動すること、その後はこの部屋に戻って待っていて欲しいと近侍に告げて、主は俺を先導しようと前に立った。
手入れ部屋へと続く廊下。風上に立った主から、清潔な布と髪の匂いが俺の元へ流れてくる。逆に俺は血や土や汗やらで、臭っただろうな、と思った。
「話って何? って、今日の戦についてに決まってるよな」
「ううん。戦については大丈夫。見ていたから」
見ていた、というのは言葉の通りだ。主は戦には出ないで本陣で待機しているけれど、戦況については常に見えているらしい。
「え、じゃあもしかして俺のこと?」
何言ってるんだろ。俺の自意識過剰。心の裏でそうつぶやきながら、冗談のつもりで言ったのに、予想に反して主は小さく頷いてくれた。
「怪我以上に、随分落ち込んでいるようだったから」
「そ、そっか……」
俺は主じゃないから、どこまで見えているかは知らない。けれど俺が装備を壊して落ち込んで、とぼとぼ帰ってきたことまで実は見えていたのかもしれないと、今知った。
自意識過剰が過剰じゃなかったことと、かっこわるい姿まで見られていたことを知って、どぎまぎしてしまう。
「ふ、ふーん。そんなこと。まぁ、落ち込んではいたけどさ、しばらくすれば平気だったって」
そう、しばらく時間さえあれば、俺は俺の気持ちを修復できていたと思う。
俺が女々しい気持ちにさいなまれること、自分の価値について簡単に迷路に迷い込んでしまうことは自覚済みの悪い癖だ。なかなか迷いは消せないけれど、そんな自分の性質とつきあってきたのもまた自分なのだからどうにかなるだろうという変な自負があった。むしろ主から手を差しのばされるとは思ってもみなかった。「主ってば、なんか今日は優しーじゃん」。そう言う声が僅かに震えた。
「余計なお節介だったならごめんなさい。貴方が疲れているのは分かってる。気を使わないで楽にして欲しい。面倒だったら返事をしなくても良い」
「返事はする、するよ」
気楽に返事をしなくても良い、と言えてしまう主には未だに俺への正しい認識は無いようだ。
主から話しかけられて、それを無碍にできるほど俺は余裕のある男じゃない。むしろ投げかけられる言葉ひとつひとつへ、いつもわずかながら恐怖を抱いているような男だ。
それを知らないことに、なんとなく、この人の中で存在する俺というものの程度が分かる気がした。
「さぁ、入って」
「………」
「どうしたの?」
手入れ部屋の前につき、主が戸を引いてくれる。だけど俺の足は前へは出なかった。
この部屋を用意し、資材を出して、俺を俺たらしめてくれるのは主であるだ。だけど手入れや修復は主自身が行うわけではない。俺が入ってしまえば自分の部屋に帰ってしまうんだろうなと思うと急に寂しさが募る。
傷だらけな自分はいやなのに、今一瞬だけはこの人が離れていくことへの嫌悪が勝った。
「……全部、治るかなぁ」
「直るよ。とても綺麗に直る。今までだって、そうだった」
主は一歩退いて、立ち尽くす俺を下から上へと眺めた。
そして、笑った。あれ? と思った。次に俺は急に、主と過ごしてきた時間のあれこれを駆け足で振り返った。性急に今までの主とのやりとりと思い返し、その全てをおさらいしてやっぱり、と確信した。やっぱり俺、主の笑った顔を初めて見た。
「何度目かな。君の、ぼろぼろな姿」
笑った形の唇を見たのも、そのまま何か言葉を発するところを見たのも初めてだ。
主のいつもの表情を俺はなんて表したら良いか分からない。快とも不快とも違う。かといって、無表情とも違う。眉を歪めた陰りの表情ばかりを見るけど、困っているようにも見えない。冷たいとも、神経質とも違う。決して笑わないことだけは確かだった。なのになぜ今笑むのだろう。俺の傷を面白がっているわけじゃないと思うけれど、自嘲の笑みと言うには曇り無い顔だった。
やばい、変になりそう。唐突にそんな警告だけが点ったけれど、俺にはどうしようもできなかった。
「何度もこんな風にして、だけど直して、戦わせて」
言いながら主は俺の傷に触った。乾いた血のあとじゃなく、生傷に意図して触れた。神経が逆立つような痛みとともに傷が急に熱くなり、ぞわぞわと悪寒が背筋を走った。
「主、汚いよ……」
「でも、消えるよ。君たちの傷や血は」
指先の血を擦りあわせながら主は言った。
もう場に似合わない笑顔は消えていた。けれど俺の血をいじる様子を見ていると、俺はますます変になりそうだった。すでに俺はさっきと明らかに違う俺になりつつあった。脈が、どくどくを通り越してザクザクと切るように鳴っている。
「全部治る、かな」
今度は、愛される理由を所持する俺に戻るためじゃなく、主の指先を汚した俺の血が消えて欲しいと願い、そう口にしていた。
傷も汚れも全部消えて欲しい。
「直るよ。今までも直ったじゃない」
だから安心して。そう告げて、主はもう一度俺を手入れ部屋へと促した。さっきは離れたくないと思ったが、今は彼女から距離をとりたくて仕方が無い。一度落ち着く時間が欲しかった。去っていく主の顔は見れなかった。
明くる日、「おはよう」と告げた主はやはり笑っていないとだけ言い切れる陰のある彼女だった。「気分は?」と聞かれたので、もうなんとも無いことをアピールした。「それなら良かった」。そう起伏の無い声色で告げて、主は俺に背を向けた。袖の端から出ている手の内へ、そっと視線を走らせると、指先の俺へ触れた証は消えていた。俺の傷が消えたのと同じように、さっぱりと。
俺はあの瞬間——主が俺を見て笑った、この人は壊れものなんだと悟ったあの瞬間——以来、変なままだ。俺の脈は昨日ほどにないにしろ、ざくざくと、何かを切り崩すように鳴っていた。切って、崩し、俺から様々なものを奪っていく。そういう音に聞こえた。