本日は早朝から雨天だった。しとりしとりと葉の表面を撫でるような雨で、つられるように本丸は夜とは違う休息の表情を見せている。

 自分の気分を害するものさえ無ければ穏やかなものだ、この僕、歌仙兼定という刀剣男士は。そう、美しいもの、面白いもの、奥ゆかしいもの……。総じて良いものに囲まれてさえいれば心穏やかに過ごしていられるのに。そうさせてくれない憎たらしいものがこの世に蔓延っているのも、また事実だ。

 昨日、戦闘で首を跳ねた敵の姿が思い浮かぶ。あの敵の、生きている時は僕を苛つかせる存在でしか無かったが、死んで散りゆく姿ならば砂の粒ほどではあるものの、この僕の心に残るものがあった。そう刀を振るっても、あのような敵から得られるのはもの悲しさという砂の粒。
 僕の主が与えてくれる物に比べれば、正に塵に過ぎない。

 雨雲の中で膨らむ淡い光。その下で見る主は、いつもより青く褪めて見えた。少し、凍えているようにも見えた。


「主。僕はね、主が貴女のような人で良かったと、心の底から思っているんだ」
「……、そう」
「貴女は学がある」
「ずいぶん直接的ね」
「ああ、そうだね」


 直接的な告白は雅とは呼べないかもしれない。だが、言うほど全てをさらけ出している訳では無い。彼女を褒める気持ちなど、僕の腹の、ごく一部分でしか無い。


「なぜかと言えば、主。貴女は今まで一度だって僕の言葉に首を傾げたことは無い。そうだろう?」
「そうだったかしら」
「まあ興味を強く抱いてくれないことが傷だけれどね。雅というものを知らなければ、知ろうともしない、あることにさえ気づけない無粋な連中よりは随分ましさ」
「………」
「その点、僕はこの体に生まれて以来、寂しいとは感じたことが無い。貴女という唯一の存在があってどれだけ救われただろうか。狂おしいばかりだ。ね、
「どうしていきなり名前を呼ぶのよ」


 おや、手厳しい。あっさりと、ため息混じりに返された。
 けれど主ならそう返すのではないかと思っていた。ここまで言ってもおそらく、主は僕を、よく喋る刀だと思うばかりだろう。それでも良い。僕の事物への気づき、驚き、喜び、悲しみを決して否定しないで、是と言う。いつぞや名も無かった僕からしてみれば、大変な幸福であった。
 でも確かに、やや直接的過ぎた。僕は僕の落ち度を、頬をゆるめながらかみしめた。

 にわかに落ち着きを無くしていた僕の気持ちが、ようやく緩やかな波を取り戻した頃に、主を見る。


「今日は、第一部隊は動かさないのかい」
「……天候を見くびりたくは無い。雨はまだしも霧が嫌なの。今日まで上手く、敵を“まんべんなく”叩けている。急ぐべきことも無い」


 淡々と現状を僕に教える声はやはり少し震えている。今日が冷えるのを見越していつもより着込んでいるものの、まだ足りないようだ。着物から出る指先が寒さで赤く凍えていた。僕はその色を、何遍も心の中で噛み砕き楽しみながら、自分の外套を取る。そして彼女の、着過ぎで丸くなった肩にかけてやった。


「……ありがとう」
「これ一枚でずいぶん違うものさ」


 物静かさからか、雪を想起させる彼女に、僕の赤い絢爛な花の絵が備わる。僕はそれで彼女のか細さが少し消えるのではないかと踏んでいたのだが、全くの逆だった。ますます深雪に、首から落ちる椿の花を思い起こさせた。
 雪に横たわる顔色を失った主、開かない眼。いつの間にか僕はどことなく、目の前にいる主が、死んでいる姿を思い描いていた。

 それは僕の中に巣くう後ろ暗いもののせいかもしれない。けれど主が僕を暗い目で見ていた、そのせいもあっただろう。


「……誰を見ているんだい?」


 余裕の無い顔に一瞬胸が詰まるような思いがしたがすぐに思い直した。主が、僕に対し、労りはするもののどこか突き放した情でもって接してくるのを分かっていたからだ。
 井戸の底のような目は僕では無く、僕の向こう側を見ていると僕には思えてならなかった。


「私よりも、遙かに優秀だった人を」


 彼女が問いに答えたことに驚いたが指摘はしなかった。珍しく喋る気になっている主に、そのことを気づかせたくは無かった。


「主より優秀な人……。それは主の先生か何かだろうか」
「違う。先生どころか、私に仕えていた人よ。人生を無駄にした人。けれど私は尊敬していたし、本当に優秀な人だった。私よりも、ずっと」


 僕が黙っていれば、主はまだ言葉を続けてくれた。


「でも、評価される機会に恵まれなかった」
「なぜ?」
「……出自が悪かったの。生まれるという名のくじ引きで、随分な外れを引いた」


 主は、外れだなんて言い方して哀れむのは失礼だけど、と声を潜めた。けれど、その人間の生まれが当たりでは無かったことは否定しなかった。


「足を引っ張るような生まれさえ無ければ。ちゃんと、皆が公平な目であの人を見れば、今頃この本丸で審神者になっていたのは私ではなく彼だった」
「おや。そうかい?」
「歌仙も会えば、私より彼と話すことの方が面白くてたまらないと言うよ」


 そう言いながら、僕とその彼がいつか会う可能性については語らず、は目を伏せた。仕草にまつわる感情を読み取るのは、他よりは極めたと自負している。彼女は、彼女に仕えていたその人間と離れたことを惜しんでいる。


「その男は。まだ生きているのかい」


 急に主が臆病さを見せる。喋りすぎた、と顔に書いてあった。そしてそこまで僕に悟らせるほど言葉を与えたこと、後悔しているようだった。

 一歩彼女へと踏み込んだこと、それによって拒絶されてしまったが、僕に広がるのは感心だった。ああ、なるほどと、どうしようも無く、言葉が出てしまいそうな感嘆。

 僕がこの人に恋した理由は、ここに在ったのだ。
 元から感づいてはいたが、明確な事象となって現れたのを初めて見たと思う。

 僕は常々思っていた。傷を知らない人間になど恋はできないと。
 その人に一生残るような、もしくは人生をかけて解していかなければならないような、この世に生きる痛み。それを知らない、無知な人間を心の底からは好きになれないだろう。そんなひねくれた自分を、僕は理解していた。

 というこの主は学もある。口うるさい人間では無い。見目も良い。
 そして何よりこの人は、しっかりと、傷ついている。僕が僕として戦い始める前、いや、この本丸の主となるその前より、欠損を持っている。

 先ほどの主の表情から察するに、その優秀な御人はもうこの世にはいないのだろう。また、主が愛しくなる。形の無いものを追うほど、途方も無いことは無いのに。
 ここには刀の、主に対する恋があるけれど、人間には人間の恋もある。それを思うとやたらおかしかった。


「貴方は面倒な刀ね。刀だということを忘れそうになる」
「おや。調子を狂わせてしまっただろうか」


 主は青くなりつつある唇を噛む。それを見て、僕はやはり、と思う。
 やはり僕はこの人の元に降りて良かった。主は未だ僕を対等に見たりはしないが、胸の痛みも、生きるが故なのだと僕には思えてならない。やはり僕は、幸せだ。