ちょろちょろと池の水が流れていた。おでこを突き出して地図とにらめっこをし、ひとまず日課の任務を達成をすべく方々へ指示を出している私の横に、三日月宗近はそっと座った。何か用件でもあるのかと、横目で見たが彼は何を言うでもするでもなくただ私と同じ空間に座す。機嫌は良いように見えた。頬にほんのり血の色がさしていたからだ。
人が捌けてもなお三日月宗近は座り続ける。静けさ故に彼の長く落ち着いた息使いが直に聞こえてきた。
本丸に箔をつけるための美術品にしては、三日月宗近は私を疲れさせる。こっそりと息を吐いてから、私は彼を見ずに言い放った。
「どうしたの」
「いや。どうもしない」
「……近侍は貴方じゃない。一昨日お願いしたばかりだから、変えるつもりも無い」
線引きのつもりで私はそう言った。今日の近侍は彼ではないのだが、こう近くに侍らえば、彼に職務が写りそうな気がしたのだ。
「分かっている。ここにいたいのだ」
「………」
「清らかな庭だ」
「……ええ、そうね」
彼の言う通り、この部屋から覗く緑の色は見事だったので、同意した。
「……え?」
今しがた、耳にするりと入り込んだその言葉を飲み込めずにいた。そんな私を三日月宗近は責めたりせず、丁寧に言葉を繰り返した。
「主が好きだ」
詩や歌を楽しむような唇の使い方だった。三日月宗近の唇は、それを紡ぐこと自体が喜びであるかのようにふっくらと幸福の血色に染まっていた。
彼が笑むと、長く豊かなまつげが厚い束となり、職人が拵えたひとつの装飾品のようであった。
「好きだ」
「そ、そう。好いてもらえるのは良いことね」
「が好きだ」
「……聞こえています」
「でも理解は、してないだろう?」
「好きという言葉の意味なら、分かっているけれど」
「骨の髄までは伝わっておらん」
三日月宗近が、私を好き? 好意の告白を何度繰り返されても、現実味はいっこうに得られなかった。
この人からの告白を受け入れられなかったのは、その美しさの仕業でもあった。だけど大部分は、この人の掴みづらい性格のせいである。急に横に座り込んだ理由も分からなければ、なぜ、急に好意を伝えてきたのかも不明だ。
「は俺を見くびっているな」
「……、貴方のことならとても頼りにしている」
また、意味が掴みかねることを言われた。私が彼の行動を見誤ることはあれど、見くびったことなど無い。むしろ彼を所有する審神者として、彼に見くびられないよう、畏れを悟られないようにと気を使うことの方が多いくらいだ。
「たかが刀、か」
「……なんのこと?」
「は、俺がよもや恋をするとは思っていないのだろう。だからそんな反応をする」
「え?」
耳を疑う言葉ばかりが続き、私の眉はたいそう歪んでしまっていることだろう。
「あまり無粋なことは言いたくないのだが、よもや刀は恋をするまいと、の考えはそこで固まっているだろう。まるで、存在しないもののように扱う。だから確かめて見たかったのだ。本当に知らないのか、はたまた、見ないふりをしているのか」
恋の存在ならば知っている。番(つがい)になる人間同士を結びつける感情の名だ。
「……、知らないのだな」
無知扱いは不服である。
「私を哀れんでいるの」
「いいや。そうではない。ふむ。では言い換えよう」
良いことを思いついた、とでも言うような声色だった。三日月宗近はその目を一度左上を見やってから、もう一度私を見つめた。
先ほどまでは横に座っていただけだというのに、今はもう私達は向き合っていた。何枚にも重ねた着物から、彼の体躯からいずる重厚感が、のしかかってくるようだった。
「共にいたい」
「……離れたくても離れられない間柄よ」
「共にいるのはだけで十分だ。他には誰もいらない」
私が考えたのは、それでは部隊が編成できなくなるということだった。
「俺は、の望みを全てかなえてやりたい。だがそれでいて、見返りが欲しい。俺が望むかたちで。俺が抱いているのは愛などでは無いからな」
「………」
「そのような想いもあるが、ただ末永く共にいられたら、これほど楽しいことは無いだろう。ずっと、幸せな気持ちでいられそうだ」
三日月宗近と、末永く。それは私には抱きがたい未来像だった。私自身はこの歴史を巡る戦争の終わりが必ずあると信じている。
その戦争が終われば、いや、私が終わりに導けばこの刀剣男士たちとの縁も解けるのだ。その想像の方ならば私は何度も空に浮かべていた。いつかの平和と別れを想像する。戦争の集結を強く思い浮かべながら戦いをくぐり抜ければいつが現実になるだろうという、願掛けのつもりでもあった。
「は俺の主だ。主になってくれたことは嬉しい。だが一方で、俺はの主になりたい」
「………」
「許されるのならが欲しい」
ふと影が迫った。三日月宗近の影だった。彼が腰を浮かし、私へと近づいたのだった。そのままのしかかるように体が傾けられ、彼の髪にうずもれていた髪飾りが滑り落ち、自由を得て艶を見せつけるように揺れた。
視線が急に射抜くような鋭さになり、彼の眼(まなこ)に目が奪われる。視界の極端でずず、と畳を擦った彼の指先が見えた。
すでに私は飲まれていた。彼が作り上げる誘う空気に、這い寄る悪寒に。
自分としては瞬間的な恐怖で後ろへ飛び退いたつもりだった。だけれど実際は恐怖が私を縛り、僅かに身をよじり、後ろに手をついただけだった。それでも三日月宗近は、その反応から全てを悟ったようだった。影が遠のいていく。
「許すのは、俺ではないのだな」
姿勢を直した三日月宗近は笑んでいた。目に悲しさを滲ませていたが、首を傾げる仕草が、私には自分の見目を確信したがゆえのものに見えた。
「一体誰なら許すんだ?」
「誰って……」
「それは三条の者か? それとも、最近の刀か。俺は刀としては言ってしまえばじじいだしな」
「私は別に、三日月だからって……」
まだ私を飲み込む悪寒。三日月宗近が醸し出す色に、一度は背筋がわなないたものの今一番に私の思考を奪うのは、嫌悪感というよりも強い驚きだった。
私は、理解していたはずだ。三日月宗近が人間としてここに姿を現していることを。彼が自己を持っていることも、その自己に則って私と関わってくれていたことも、分かっていた。
彼に感情がある。私は今更その事実に驚いていた。彼が笑う姿、心の波によって、士気が上下することも分かっていた。
まさか本当に私が好きだとでも、言うつもりだろうか。
息吐くごとに体から力が抜けていく。
この人たちも、人を好きになれる。言葉にすれば当たり前なのに、今の今まで、私にとっては当たり前では無かった。
恋。恋ってなんだ。口にすれば易しい、やたら簡単で軽率な二音が頭の中をぐるぐる回っている。
「では俺は、に気に入られるため鍛錬に力を入れるか。しばし媚びを売り、頑張るとしよう」
もう彼は彼に戻っていた。一振りの太刀として頼れる戦力である、独特の笑い声が似合う彼に。三日月宗近が立ち去って、私はもういない、先ほどの彼の姿を思い浮かべた。
意味も無くこの部屋に入り、何の用も無いのに横に座った。
血色良く見えたのは、それが幸せそうに見えたのは、私の気のせいでは無かったのだ。
三日月宗近。彼は、この本丸に恋の存在があるのだと、私に教えた男だった。