三日月宗近は私に、この本丸に恋心が存在し得ることを教えた。
あれから彼は「に気に入れられるため鍛錬に力を入れるか」という宣言の通り、手合わせやら自主的な稽古やらに随分積極的に行っているらしい。
言葉通りなら三日月宗近のその行為は私に媚びを売っているということになる。あの、最も美しいとも持て囃された刀が、単なる人間の好意を得ることを行動原理としている。
にわかに私はむずがゆくなる。あのように宣言をされてしまったせいだ。彼が行動する理由の中に、私が含まれている。それを意識してしまう。彼の言霊が、私を縛っている。
彼のその感情にまつわる告白が及ぼした影響は、彼の心の内を教えただけにとどまらない。
刀は、それに憑いた付喪神は、人間に恋をすることが可能なのだと教えたこと。それが私の認識をがらりと変えた。
私のことだから、外からは私の様子はほとんど変わっていないように見えたと思う。蜻蛉切に「何やら考え込んでおられますが、心配事がおありですか」と指摘を受けたくらいのものだ。
私の内心は、大きく揺れ動いていた。
ただ、三日月宗近が私を好いているという、それだけの事。それが私の片腕をもぎ取っていったかのような不自由に、私を陥れていた。
「……主君、主君!」
「……、はい」
少し強い口調で私を呼びつけたのは、私の右手に触っていた前田藤四郎だった。
「どうしたの?」
「寝そうになっていたら起こすように仰ったではありませんか」
確かに。そうだった。もはや習慣のようである私の不眠は今日まで続いている。
前田藤四郎は小さな肩を大きく下げて、また小さな口から小さい息を吐いた。
なんだ。その、困ったものを見るような視線は。気まずさを感じて彼の両手に握られていた右手をそっと引くと、抵抗は無く右手は解放された。
ようやく手元に戻ってきた右手。自分の神経を確かめるように握ったり開いたりをすると、じんと手全体に痺れが走る。
前田藤四郎はただ私の手を握っていたわけでは無い。まるで、山桜の木から作った箸の先のような指先で的確にツボを突いてくれていた。
私の右手は彼に丁寧に解され、急な血管の膨張に甘い痺れが走っている。
「左の手を」
「………」
「左の、手を」
手を解させるのは決して私が彼に命令してのことではない。彼が自主的に行ってくれたことなのだ。
少し戸惑っていると、前田藤四郎はすりすりと私の左側に周り、手を取った。
「お加減はいかがですか」
すぐには返事をできなかった。彼の細い指が食い込んだところがやたら痛い。
子供らしからぬ圧が、ツボにかかると太い刺繍針で貫かれたかのような痛みが走る。
「痛いなら痛いという顔をしてください」
「平気」
「耐えないでください!」
押すところは変わらないが、力が随分弱まり、ようやく落ち着いて息を吐ける程度になった。情けないことにやや滲んでしまった視界で、視線をあげると、やはり献身的な様子で私の手に振れる前田藤四郎がちょこんと座っている。
白い肌に膨らむつぼみのように差す赤。それをちらちらと隠す、彼の焦香色の髪。髪と同じ色の丸い瞳が一心に私の指先を見ている。
なんだか、申し訳ない。
「こんなのは、貴方の仕事じゃ無いのよ」
「それでも良いのです。僕は、主君に心地よくなっていただきたいのです」
「そう」
「いつもお疲れさまです」
「………」
「それに、楽しいですよ、僕は」
私の手の何が楽しいというのだろう。何か瘤があるわけでも、おもしろい感触があるわけでもない。私は自分の手を見ていると、愛らしさの欠片も無く、魚の骨を思い出すことすらあるというのに。不思議で仕方がないが、当の前田藤四郎が浮かべるのは確かに楽しそうな笑顔だ。
一層不思議なのは前田藤四郎がやりがいすら感じていそうなところだ。
「主君の手は冷たいです。僕の知らない間に水にでも入ったかと思うくらいです」
「生まれつきよ」
「はい。ですが、こうしていればあったかくなります」
そんなのは前田の手が暖かいからだ。彼の熱が一瞬私に移るからそう感じるのだ。
前田藤四郎の手は熱い。体に見合った心臓がとくとくと早く小さく鳴り、血潮がよく巡っているのだろうと思わせる。
「主君」
「はい」
「末永くお仕えいたします」
その言葉は何度も聞いてきた。根拠のなさを感じながら、前田藤四郎の一途さを知るようで、嫌いな言葉では無かった。
けれど今、三日月宗近の声がよみがえる。私を好きだと言った、のんびりとした声の重い告白。
なぜ前田藤四郎は突然そんなことを言ったのだろう。脈略の無い言葉だからこそ、私をとらえた。違う。そんなわけ無いだろう。前田藤四郎は“純粋”だ。私は眉をしかめた。
「ありがとう。でも、この戦争を思えば私たちの縁は短く終わってくれた方が良いのよね」
「え?」
「そうでしょう?」
脈略のない前田藤四郎の言葉に、こちらかも空気の読めないことを返したのは、彼の言葉の深刻さを打ち破りたかったからだ。
深読みは、単なる深読みだったと。私が自惚れたがための邪推だったと。彼はただ彼の性質のために私にそう伝えてくるだけなのだと、そう確かめたかった。
「成果が出せず、この本丸の存在が長引けば、私はおそらく無能という扱いになるもの」
現時点での私はどちらなのだろう。“上”は小さな期間の提示はするけれど、まだ具体的な終了期間について、目処すら出してくれない。
だから、作戦の実行配分について、その成果の達成について、さほど意識をしたことは無い。だが、作戦を長引かせている愚図だったらどうしようかと思う。
思考が逸れ始めた私を引き戻したのは、前田藤四郎の冷たい声だった。
「どうして、そんなことを仰るのですか」
「……でも、事実と思わない?」
末永く、と彼は言うけれど、それは実際には叶う見込みは、ほとんど無いに等しい。
私はこの戦いを、自分の使命を成し遂げることを節に夢見ている。今私たちが人間の体(てい)で関わり合うことができるのは、大義名分があり、同じ目標のために力を合わせるためだからだ。短い縁で別れるのが、この世のためだろう、そうだろう。
それにもし、この本丸から抜け出せず私の寿命が尽きる時かあるとしても、私は刀という事物からすれば短命な、人間という生き物だ。あっという間に土に還る。ずっと一緒だなんて、あり得ない。瞬く間に死にゆく私に、彼は何を期待しているんだろう。
「だからといって、……」
彼が目をすがめて唇を噛む。
ここまで殊勝に言い訳をしてきたが、私の物言いが、前田藤四郎を傷つけた。その自覚はあった。
彼がなぜ顔を曇らせ言葉を接げなくなるほど傷ついたか、その理由も、分かっている。叶うなら、私の終わって自惚れで終わって欲しかったが、どうやら前田藤四郎も三日月宗近と近い目で私を見ていたらしい。
「……、ありがとう」
そう伝えてやれば、動けなくなっていた前田藤四郎はようやく私の手を離すことができた。私と彼が離れるための契機となるように、脈略の無い言葉を探した。
前田藤四郎の気持ちを試した私にそんな感情を抱く権利は無いかもしれないが、前田藤四郎が哀れに思えた。
「何か、願いはあるかしら。誰と一緒の部隊が良いか、とか、いつまで休みたいだとか」
「……、主君は分からずやです」
立ち上がって私から離れていった前田藤四郎の顔は、悲しみより怒りの色が強かった。それに少し安堵する。
この本丸に恋が存在する。それによる傷も、存在する。
左手がぱたんと床に落ちる。まだ私らしからぬ熱と痛みが宿っている。両方とも、前田藤四郎が私にくれたものだった。
息を吐くと柄にもなく震えた。私は脳内にある部隊表を開いた。この本丸にいる全員を思い浮かび、三日月宗近に続き、前田藤四郎にピッとレ点をつけた。