すぐには状況は理解できなかった。理解出来ないまま、着物がずっしりと水を吸い込んでいく。膝と手を水底につき、目の前には水面が揺れて呆然とした私の顔を映し出している。手が池底の、どろりとした土を掴んでいた。
私だって理解が追いつかないが、その周りで事を見ていた者、誰もが驚きに固まっていた。
けれど、今起きたことを、事実だけ整理するならば。どれだけ信じられないとしても起こった事を言葉にするならば。
「今、私、落とされた?」
池の中から、池の縁に立つ一期一振を振り返る。
「はい、私が、落としました……」
一期一振はそう言った。彼は言い訳などはしなかった。やはりそうだ。信じるか信じないかはおいておいて、事実を上げるなら、今私は、一期一振に背中を押され水の中へと落ちた。
昨晩は大雨が降った。昼頃からの小雨が夕暮れに本降りになり、陽が落ちると本丸が揺れるような雨風が降り注いだ。震える雨戸、叩きつけるような雨。布団の中で私はますます眠れなかった。
けれど土砂降りは長くは続かないもので、明け方にはまた小雨に戻り、私が出歩く日の出の頃には遠くの空には青色が見えていた。
強い風で、明くる日の本丸は落ち葉だらけだった。恐らく蜻蛉切がかき集め、ひとまず溜めておいたのであろう、落ちてしまった葉があちらこちらで小山を成していた。それでも岩や灯籠のすみに、まだ青々と厚みのある葉っぱがもがれて落ちている。
一晩で乱雑に散らかった庭。強い、嵐の通った跡にまだ私は胸を落ち着けられずにいる。
ふと庭の奥に、昨夜の風のせいで茎が折れた花を見つけた。茎が平たく折れ、くったりと地面に頭がついてしまっている。花びらが残っていないものもあれば、そうでないものもあった。
あのまま枯れるよりは。ダメになったところを切り取り花瓶に差しておいてやればまだしばらくは咲いていられるだろう。そう思い私は鉄ばさみを持って、庭へ出た。
すぐに柔らかく優しい男の声が私を追いかけた。一期一振が、危ないです、と私へ言った。足下が滑りやすくなっています、とも。
そんなのは見れば分かるので、「平気」と伝えた。飛び石がそれぞれ黒く濡れているのは、私も分かっている。彼は私を何だと思っているのだろう。気にせず歩いた。それでも彼はたまらない、という様子で追いかけてきた。
「様、そこの石は見た目に寄らず」
一期一振が焦った口調でそう言った途端だった。わたしはずるりと滑った。石のせいではない、草履の裏に厚い葉の肉がずれた感触があった。
踏み込んだ足が滑って前へと迫り出し、同時に自分が体勢を崩して後ろへ倒れていくのが分かった。立て直すとか、踏ん張るのは到底無理だった。
「様っ」
お尻に痛みが来るかと思いきや、痛みが走ったのは二の腕だった。一期一振の大きな手がくずおれる私を受け止めようと、着物の上から肩を掴んだのだ。それでもまだ私の体は下に落ちていく。彼の手の中で私の体は少し滑り、着物を浮かしてようやく止まった。
「………」
「そこの石は見た目に寄らず、滑りやすいのです」
石じゃなくて葉で滑ったの、と余計な口を叩きそうになった。けれどそれは一期一振の忠告を聞かなかった身勝手な自己への言い訳に過ぎない。
彼がいくら刀派粟田口の長兄として振る舞っていようと、私までそんな子供に戻ってはいけない。そう思い口をつぐんだ。
「だから、お気をつけください」
「ごめんなさい」
「……心の蔵が、止まるかと」
「うん、ごめん……」
「………」
「一期。そろそろ」
謝り反省したのだから、そろそろ私を離し、立たせて欲しい。両方から二の腕を捕まれた私は、端から見れば困りものの猫のようだろう。着物がずれていること、落ちかけた腰が中途半端な高さで浮いたままなことが辛かった。
けれど一期一振は、私の言葉を聞いていないようだった。黙ったまま手の力を緩めない。
不意に、後ろから一期一振が私のことをのぞき込んだ。彼の蒼く細い髪が私の視界に垂れ下がってくるのが見えた。腐っても女性だからだろうか。衣服がずれて、隙間ができた胸元に視線が注がれているのが分かった。襦袢と肌の間に、そのよく潤んで光る山吹色が滑り込んだのが。
と、思えば、私は彼の手から放たれていた。それだけでは無い。明らかに意図的な、横への力に突き飛ばされる。さっきは後ろへ自分の体は崩れていったというのに、今は前のめりになって水面へと飛び込んでいく。
理解ができないまま池の中。一度は頭まで水に浸され、私は水底に手と膝をついていた。
「………」
「………」
言葉が、出なかった。
私の手は池底の、どろりとした土を掴んでいた。昨晩の大雨で池の水が入れ替わったらしい。思ったより水は綺麗だ。そんなことを呆然と考えた。
もう、何を言ったら良いか分からなくて、私は今この身に起こったことをひとつひとつ追いかけるので一杯一杯だ。
「今、私、落とされた?」
まさかあの一期一振からこんな目に合わされるなんて。池の中から、池の縁に立つ一期一振を振り返る。
「はい、私が、落としました……」
一期一振は言い訳などしなかった。
不用意に足場の悪い庭へ出た私を心配したのも、転びそうになった私を心配したのも、私を池の中へ突き飛ばしたのも、どれも彼、一期一振だった。また突き落としておきながらすぐに自分の服が濡れるのもかまわずに一緒に池へと入り、駆け寄ってきたのもまた一期一振なのだから、混乱するばかりだった。
私を抱き止めたのと同じ大きな手が、私を立たせて、顔に跳ねた水を拭ってくれる。顔への戸惑いのない触れ方が、やはり弟たちをかわいがる一期一振そのものであり、ますます混乱が極まった。
いったいこの男はどうしてしまったのだろう。
その一期一振によって私は負ぶわれ池を脱出した。すぐに風呂場で体を暖め、着物を変え、気づけば私は自室に戻っていた。そして一期一振は私の前で土下座をしていた。
「申し訳御座いません」
一期一振が、座る私よりもさらに体の全てを低く低くさせる。
「本当に、お詫びの言葉も御座いません」
「……、待ってて」
一期一振に断りを入れ、私は部屋の外を見回す。やはり彼の弟が何人か、心配そうにこちらを伺っている。厚藤四郎がひとり前に出てきて、私へ聞いた。
「大将、一兄は……」
「とりあえずこれから話を聞く。一期も貴方たちがいると話しにくいこともあると思うから、しばらくは皆、ここへは近づかないように」
「……、分かった」
「待って、厚。……私自身は、あまり怒ってはいないの」
最後に厚を呼び止め、それだけ伝えると、兄を心配する顔が少し和らいだ。
厚藤四郎に伝えた言葉は本当だ。私自身は怒ってはいない。池の水は冷たかったし、泥や藻に汚れた着物の手入れは面倒だ。だがそれよりも勝る気持ちがある。
なぜ、一期一振はこんなことをしたのだろう。
短刀たちを見送ってから私は未だに畳に額をすり付けている一期一振の前へと戻った。
「一期。頭をあげて」
「………」
そう言うが、彼は動こうとしない。
「話がしたいの。貴方は私と話をするのに、畳の表情を伺うの?」
そこまで言えばやっと顔があげられた。暗く、己への混乱と失望が混ざった表情だった。
「良いのですか」
「何のこと」
「先ほどあのような事をしでかした私と、お部屋に二人になるなど、不用心です……」
「それを貴方が言うのね」
「申し訳、御座いません……」
そう言うと、また一期一振はついた指先の間に浅葱色の前髪を擦りつけた。
私はこの彼の律儀さに付き合い、向き合わなければならない。少々疲れを感じながらも「顔を上げなさい」と言う。
「まず、なぜこんなことをしたかが聞きたい。本当に申し訳ないと思うのならば、正直に話すこと」
「正直に、ですか」
「そう。真実でもって私を納得させて。それができないのなら、私は貴方の中に離反の可能性を認めるしかなくなる」
「離反などありえません。私は……」
「でもそれを疑われる行動をしたでしょう。疑いを晴らしたいのなら、正直になること」
「………」
一期一振はかなり思い詰めた表情をしているが、まだ攻められると思った。彼は柔らかく優しい物腰でありながら、しっかりと構えたところのある刀だ。ここで気持ちを明らかにしてもらわねば困る。まだ、攻められる。
「どうせ私への不満が溜まっているのでしょう」
「そ、そんなことは……」
「今更取り繕っても無駄よ」
「不満など、ありません! 私は、私は……!」
「ならばこの際だから言ってみなさい。わだかまりを抱えたままでは戦では使ってやれない」
諦めの表情を浮かべ、うなだれた背筋を急にただすと、もの悲しげに告白を始めた。
「私は……、貴女をお慕いしているのです」
鳥の声、風の音が急に後ろの虚空へ吸い込まれたようだった。音がなくなり、彼の声だけが私の視界をも奪うように切なげに響く。
「様は私の主でありますが、今はもう主としてではなく様という人として貴女を見ています。私のこれは、恋慕です。いつの間にか好きになっていました」
「………」
「この心は遠ざけても遠ざけても私から離れてはくれません。ですから、離反などありえません……」
今日は言葉を失ってばかりいる。でも彼はあまりに真剣な様子でそれを言うのだ。私が好きでした、と。
「私を好きならばなぜ、あんなことを」
「……私は仕える身です。その身分をとくと肝に銘じ、私は貴女を守っていければそれで良いのだと考えておりました。貴女が傷ひとつつくことなく使命を終え、平和な現世に戻ること。それがこうして出会えた人と刀にとって一番であり、私はそのためにこの身を尽くしたいと願い、この本丸で日々を過ごしていました。私は、私なりにこの想いのやり場を見つけ、自分なりに満足しておりました。
けれど、貴女は」
一度彼は言葉を止める。ぶるりと震える息を吐き出した。私は息を飲んだ。まさかここに来て彼が、こんなやり方で怒りを露わにするとは思わなかったからだ。
「私が恋をし、守りたいと願った貴女は、なぜ御自身で御自身を傷つけなさったのですか」
「……何のこと」
「抱き止めた時に見えました。胸元の傷。短い切り傷が、何本も。あれは何を使ったんでしょうな、せいぜい三寸ほどの長さでしょう。貴女が利き手を使い、こう、湯葉でも切るように切ったんでしょう」
言いながら一期一振は自身の鎖骨と胸の間を人差し指で何遍かなぞった。
それはまさに、私が今着物の下に隠し持っている傷。胸元に滑り込んだ彼の視線、あの時彼にはそれが見えていたのだ。
「私も刀ですから、様々なものを切ってきましたから、分かります。何者かに切られたものなのか、御自身で切ったものなのかくらい、分かります……」
再び一期一振は頭を低く低く下げた。
「恐ろしい思いをさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした。本当の事を話して、自分がいかに身勝手か分かり、頭が冷えました」
「………」
「様が自傷なさろうと、それに対し私が何か思って良いわけではない……。私が勝手に想いを寄せているだけなのですから」
一期一振が私を好きだったから。それは端から見ればばかばかしい理由だが、疑問が全て解けたように思えた。
一期一振が私を裏切ったのではない、私が先に、彼を裏切ったのだ。例えそれが、知らずのうちに向けられていた好意だったとしても。
私はすっかり意気消沈していた。先ほどまではなぜ、どうして、と混乱の余り頭に熱が昇っていたというのに。
彼の方も先ほどの怒りはもう見えなくなっていた。今はもう悲しみに暮れた目でどうにかこうにか私を見ている。その表情に浮かぶ失望は、彼のことだから、自分に向けた失望なのだろう。
「無礼を承知でお願い申しあげる。様、もうこのようなことはなさらないでください。貴女を守りたいと願うことで戦えている部分や、ここぞという時踏ん張る理由に貴女様を想う事が、私には多々あるのです」
場の空気は最悪だった。重くのしかかり、私は彼を視界の上方で捕らえるので精一杯だ。それでも一期一振は体に見合った精神の持ち主だ。秘めていた気持ちを吐き出し、どれだけ居づらいとしても、私が「出ていけ」と言うのを待っている。
「……、一期一振」
「はい」
「今までの、貴方から受けた様々なことは、全て、その想いあってのことだったの」
「はい、仰る通りです」
淀みなく一期一振は頷いた。
私は混乱する頭で、今までの彼というものを思い出していた。いつから私をそんな目で見ていたんだろう。いくら思い出してもきっかけも境目も私には見つけられない。幾多の優しさを受けた。私はそれをあまり大切には思わなかった。なぜなら全て、彼のどうしようもない人の良さから来るものだと信じていたからだ。
今日の事だってそうだったはず。私を心配したのも追いかけたのも、受け止めたのも、一緒に池に入って立たせてくれたのも、顔を拭ってくれたのも、負ぶって風呂場へ連れていってくれたのも。彼が元からそういう人物だったからのはずだ。
それなのに、私を好きだというその告白で、彼のという人物像が狂っていく。もう、彼の優しさを平等な目で見られない。
「一期」
「はい」
「………」
「………」
「……それは、ごめんなさい。……」
だから、私が謝罪するのが適当だ。
結局は、池の中へ衝動的に突き落としたのも、彼が彼である故だった。一期一振が人を想える刀だったからだ。
裏切りは私からだった。私は、彼を狂わせているなと思えてならない。
あの池の中の冷たさを思い出す。一期一振とは痛み分けにはなってしまうが、あの冷や水が私への裏切りへの罰だというのなら、明日からもどうにか持ち直せそうな、そんな気がした。