本丸の裏側、日当たりの良い空間。台風一過の目眩い青空にはためく、洗濯物。

 女物らしい小さめの足袋と襦袢。白い襦袢をもし俺が羽織ったらどうなるのだろう。気持ちの面では誰にも負けていない自信があるが、やはり被ればすっぽりと包まれてしまうんだろうか。

 不意に「薬研」と春風のように柔らかに呼ばれ、着物の内側に招かれる、そんなあらぬ大将を想像した。俺の頭に大将の小さな顎が乗る。俺はまだ大将に、身長がやや追いつけていない。俺を引き寄せた大将は俺もまとめて、着物の前を閉じ、俺を閉じこめた。そして旋毛に向かって「大好きよ」と囁かれる。俺が着物の内側にいるということは即ち、帯はもう落ちているということだ。


「………」


 妄想をしてしまうことについて、俺は男だから、後ろめたさはない。ただ俺は少し口を引き締める。


「……ん? なんだ、ありゃ……」


 そのはためく襦袢に俺が見つけたものは、薄茶の、斑点状の染みだった。







「大将」


 俺が内番用の白衣を羽織り、がよくいる部屋に向かえばちょうど、いくつかの冊子を抱え、歩き出す大将を見つけた。


「持つ。貸してくれ」


 冊子をその腕から引き抜いて見てみれば、それは歴史に関する書物のようだった。どれも本の“天”にあたる部分に政府公認の印が捺してある。
 そう重いものでもないが、俺がいるのに大将に荷物を持たせたままなのがいやだった。


「ありがとう、薬研」
「これくらい大したことじゃない。書庫に戻せば良いのか?」
「そう」
「付き合うぜ。……その後、ちょっと良いか?」
「どのくらい?」
「そう手間は取らせない」
「大丈夫」


 二人して歩いた縁側は、たっぷりと陽が差し暖かい。俺は現金にも嬉しくなる。肩を並べて歩いていると、鼻に何かの匂いを掠める。大将からのものらしいが、なんだろう。汗の匂いではない。大将が汗をかいているところなんて見たことがない。


「ああこれ。久しぶりに卸したから、少し匂うかも」


 そう言って、大将は腕をあげて袖を振って俺に見せる。言われてみると、見たことのない小紋を着ている。薄く細かい柄が全体に散っている、さりげない模様だ。


「そうか。着物の匂いだったんだな。よく似合ってるぜ」
「そう?」
「ああ」


 ちらりと俺を不思議そうに見てから、反らされ、またちらりと見る。たわいもない話、大将の目配せが、くすぐったい。

 書庫に全ての本を戻し、大将はまたその前後の本を抜き出した。曰く、「歴史の細かい部分はさすがに暗記できないから、本に頼らざるを得ない」だそうだ。
 書庫での用事を終えると、今度は俺の用事だ。後ろ手で扉を閉めている大将に俺はなんともなしに切り出した。


「傷、見るから来てくれよ」
「傷……?」
「襦袢に、染みがついてたぜ。赤茶の奴」


 そう俺が、本丸の裏で見たのは、襦袢についた血の跡だった。かすかなものだ。けれど俺にとっては見逃せない。


「月のものじゃなくて」


 大将は解せないという顔をしてそう言った。
 思わず俺は脱力した。一応俺も男なのに、さらりと月経のことを言われても困る。


「だって、ついてたのここだぜ」


 そういって俺は胸元をつついた。足の間の血が腹周りを汚さず鎖骨の下まで飛ぶなんてありえない。加えて少量の血が、集合して斑点を成していた。
 恐らく虫刺されがかぶれたか、それをひっかいちまったかなんかだとと俺は見当をつけている。もし痒さゆえにかいてしまったなら、俺の大将も子供っぽくて可愛いところあるじゃねえか、なんて俺は暢気に考えていた。


「ひっかいただろ。だめだぜ。そういうのが治りを悪くするんだ」
「気をつける」
「待てよ。痒いなら薬を出す。本職にゃあ負けるが、それくらいなら俺でもなんとか出来る」
「平気」
「そう言われてもな……」


 は少し面倒そうに俺の奥の通り道を伺っていた。けれど俺が一歩も引かずにいれば、観念したかのように小さな息を吐いた。


「そう面倒がらないでくれ。俺は大将が心配なんだ」
「分かった」
「よし。痕を見て良いか? どんな状態かちょっと見せてくれよ」
「ここで、なんて言わないよね?」
「当たり前だろ」


 大将の着物の下の胸元だ。おいそれと、見せびらかすつもりはない。
 俺は今度は大将の部屋へと歩いていった。虫刺されを見せるにしては、暗い顔した大将を連れて。



 傷を見せてもらう時、俺は柄にもなく緊張をしてしまった。
 大将が障子をぴったりと閉めたから、部屋はしんと静まり返っていた。その中で大将が向かい合って座り、着物から片方の肩を引き抜いくもんだから、布擦れの音や「、ん」という少し詰まった呼吸が生々しく聞こえてしまった。
 小袖から襦袢から、白い肩がするりと羽化する。大将は戦場に出ることはしないし、物静かでお転婆をするような性格でもないので、首から肩の肌はきめ細かく、傷ひとつついていなかった。それは思った以上になまめかしい光景で、少し心臓が早くなった。

 だが下心は、すぐに消え去った。


「おいおい……」


 姿を現した大将の胸元の傷は、虫刺されなんかじゃない、もっと深刻なものだったからだ。
 刃物で何回か傷をつけ、そこから爪でひっかいてぼろぼろにした、そんな傷跡だった。

 絶句する俺に、大将は少し後ろめたそうに眉を下げた。


「……知ってるのは薬研だけ? 彼、言い触らしてるの?」
「……あ?」
「誰に、聞いたの?」


 それを聞いて、また俺は内心でぎょっとした。この傷を、誰かしらは知っているというんだからまた言葉を失う。
 ただの膝の擦り傷じゃない、こうして大将から着物をずらして見せない限り気づけないような場所にある傷を、この本丸にいる誰かは知っているのだ。

 そしてこの傷は恐らく、大将が自分で自分を傷つけたもの。利き腕で刃物を持てば、そんな角度の切り傷になるだろう。
 自分で自分を傷つけた。そんな大将の秘密であり、弱々しい部分を、誰かは知っている。

 誰だ。誰が知っているんだ。大将から胸元を見せたのか。それとも誰かが着物をずらして見せたのか。
 俺の中で沸き立つのは、言ってしまえば嫉妬だった。相手は誰かも分からないが、俺たちの中に、大将は特別な存在を作っている。そう思えてならなかった。
 顔が憮然としてしまう。

 俺は自分を落ち着けようと、ひとつ深い呼吸をしてから大将を見上げた。


「大将、これ得物はなんだ。何でやったんだ」
「もうやらないし、やってないから」
「そういう問題じゃない。やってないんだとしてもだ。俺を安心させてくれよ」
「……私の部屋にあった鉄ばさみ。もうここにはない」
「本当か?」
「一昨日、私が転んで池に落ちたの、知ってるでしょう」
「ああ、あれか」
「その時に持ってたのだけど、転んだ拍子にどこか行って、探してない」


 そう言って大将は庭の、池のある方角を少し見た。俺はまだ混乱から立ち直りきっていない。


「薬研、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ」
「酷いものを見せたから」
「……んなこと、なんでしたんだ」
「もう、大丈夫だから」


 それは答えになっていない。
 突き放すような言葉に内心いらつく。その傷を、元々しっていた男は誰なのだろう、どうして俺じゃないのだろうと。あの青空の中で赤茶の染みを見つけなければ、俺は今も大将の苦しみを知らないままだっと思うといっそうはがゆかった。

 大将は肩を仕舞いながら、また申し訳なさそうに言った。


「もしよかったら、一期に伝えて」


 その言葉で、俺の嫉妬していた相手が誰かが分かった。ああ、先にその傷を知った男というのは、俺が嫉妬の炎を燃やした相手いうのはどうやら我らが兄らしい。
 けれどすぐさまその嫉妬の炎は鎮火した。大将の傷を知るその人物は、今お世辞にも大将と良い仲と言えないことを俺は知っているからだ。

 あの兄は、今、随分と落ち込んでいる。
 周りには悟らせないよう普段は明るく振る舞って良い兄でいてくれる。だが、部隊表を見るときだけはすがるような目つきをするのだ。そしてそこに自分の名を見つけた時、分かりやすく安堵する。

 胸元の傷を共有するほどに誰かと出来ているのかと思いきや、全くの反対だったようだ。
 傷を知ったがために、この二人の関係は壊れてしまっている。

 正直な感想は、「まいったな」だった。この人の弱みを知って入り込もうとすれば、俺も今の一兄のようになるだろう。
 遠ざけられ、穏やかに違う方向を見て過ごす。相手が抱く感情の影に怯えながら。


「なんて伝えりゃいい?」
「ごめんなさい、だけどもう、誰にも言わないで、と」
「……分かった」


 俺は苦笑いを返すのでやっとだった。虫さされの薬を渡すつもりが、しっかりとした傷薬を作ることになってしまったな、と。

 俺は次の日、大将に軟膏を届けた。これを塗って様子を見てくれ、とも伝えて。
 それから何日か開けては「傷はどうだ」「経過を見せてくれ」と願ったが、大将は「平気」というばかりで、二度と着物から白い肩を出して、見せてくれたりはしなかった。