鍛刀されて、僕は体を得て、この眼球でしか見られない範囲の視界で、主さんを捕らえたその時から、なんでかな、「この人は好きになっちゃいけないんだろうな」という予感はあった。
本当に、なんでなんだろう。強気な態度とかを、兼さんは「可愛くねぇ」とか言いながらなんだかんだ可愛がりそうだなという感触があったからかもしれない。あまり僕とは気が合わないだろうなと思ったのもあるし、実際さんは女の人なのにしかめっ面ばかりしてるし、淡々とした声色からしばらく笑ったりしてない人なんだろうなというのも伝わってきたし……。
やっぱり「この人は好きになっちゃいけない」とまで思えたのは直感だったとしか、僕には言えない。
でも出会った時から主さんのこと、なんとなく好きだったのも事実だった。
一瞬でも放っておけない、この人のために僕ができることをしたいと思ったら、もうその気持ちに逆らえない。それは僕の悪癖だ。だけど僕には必要なんだと思う。そういう人が。僕が精一杯頑張れる理由となってくれる、兼さんや主さんみたいな人と一緒にいるのが、僕の生きる楽しさに繋がっている。
そして今日。兼さんは他の人たちと部隊を組んで遠征に行ってしまった。
兼さんがいない僕は、すごく暇だ。
「暇だ……」
本当に、やることがなくて、僕は内番用のジャージに着替えて畑に出た。けれど、畑に出ても特にやることもやるべきことも見つからない。僕はぼうっと、遠のいていく薄い雲を見ている。
こうしてぼうっとしているよりは、あちこち歩き回って本丸のことでもなんでも、何かしていた方が僕としては楽だ。だから本当は主さんのところに行って、お手伝いを何か名乗り出ても良い。だけど僕は主さんがいるであろう屋敷の方角を見るだけで、動き出せなかった。
お手伝いはしたい。頼られたり心許してもらえたら、僕としては嬉しい。けど、ここ最近の主さんと対面するのが僕は少し怖い。
「主さん、ピリピリしてるんだもんなぁ……」
「そうかぁ?」
今日、本来の畑当番である同田貫さんが仏頂面でそう言った。
「そうですよ。なんていうか、今までは奔放なところもあったのに、最近頑なっていうか……。今まであんなところ見たこと無かったのにな」
あの人が笑ったりしないのも、しかめ面ばかりしているところも、いつものことだけれど、強いて言うのなら、みんなともっと平然と目を合わせる人だった。最近の主さんは時々、僕らの表情を恐れるような仕草を見せる。
たとえば顔を背け、手元や外の景色に目をやったまま喋ることが増えた。些細な変化かもしれない。だけど僕は主さんの何かが変わりかかっていることに気づいていた。
なぜ皆を、僕たちを恐れているのかは分からない。でも主さんが変わり、本丸に流れる空気も少しずつ色を変えていっている。
放っておけない。一瞬でもそう思ったら、もうその気持ちに逆らえないのは僕の悪癖だ。
「同田貫さん、すみません。僕、戻っても良いですか?」
「おお。手伝ってくれてありがとよ」
「いえいえ。途中なのにすみません」
何もしないよりは、僕のできることをしたい。ジャージのまま、僕は畑を抜け出し、まっすぐに主さんの元へと向かった。
主さんは、いつもの通り、お部屋で机に向かっていた。お庭を通って直接縁側にたどり着くと、部屋の中で、少し怖く見えるくらい集中しきっている顔があった。
「主さん!」
「堀川」
鋭かった目が、僕の足音を聞きつけて丸く瞬いたのを見て、僕は思わず笑顔になってしまう。
「どうして、内番の服を着ているの?」
「兼さんが遠征に言っちゃったから、僕暇で……。今まで畑にいたんです。あっ、何かお手伝いできることありますか?」
「お手伝い? 私の?」
「うん。掃除でも、何でも、やっておくことがあったら任せて!」
「そうね……」
主さんが逡巡してから、立ち上がる。その時はまだ、僕には嬉しい気持ちしか無かった。けれど、主さんが立ち上がる時の仕草に、思わず「あ……」という声が出た。それから僕はゆるゆると口を噤むしか無かった。
かがんだ時の、少し硬そうなお腹。和服じゃなく、洋装をしていたら僕も気づかなかったかもしれないなと思うともの悲しかった。
「待ってね、堀川。たしかここに……」
僕の変質に主さんは気づかない。
嬉しさが、急速に冷えていく。
僕は靴を脱ぎ、縁側から部屋へと上がった。
僕にも手伝える仕事を探して紙類をめくる、白い、白魚のような手。それをどうしたいという気持ちは無かったけれど、僕は気づけばそれを両手で握っていた。
「主さん……」
「どうしたの、堀川」
「服の中のそれ……」
「何の話?」
主さんは、怯えを宿した目で僕を見ている。その瞳を僕は一心に覗き込んだ。なぜ、そんなものを衣服の下に隠しているか、知りたくて。
「その、なんで、小刀なんか持ち歩いているの?」
「………」
「本丸はみんながいて安全だし、隠す必要なんて無いかなって僕は思うんです、よ……」
「………」
「あ、いや、文句は無いんですけど。主さん自身は刃物全般扱えなかったよね? だから、なんでなんだろうって……」
つい握ってしまった手は、気づけばこの人を逃がさない拘束の役割を果たしていた。
そのまま「それ、出してもらって良いですか」と掠れた声で問えば、主さんは自分から胸元に手を入れ、隠し持っていたものを出してくれた。
主さんの手にも似合う短刀よりも小柄な刀。戦うためのものというよりは、工芸品作成などに用いられる類の小刀に近いそれを、僕は眉間にしわ寄せて見下ろしてしまう。だってそれは僕らから見れば、単純に刀として、格下も良いところだったからだ。主さんが扱っていただけあって手入れはされている、けれどこれで何ができるって言うんだろうか。
「……みんなや僕は頼りない?」
主さんは一度目を閉じて、呼吸を整えてから僕の目を見返してきた。
「そんなこと、無い」
「ごめん、やっぱり僕、文句ある」
「え?」
「僕、その……妬いてるんです。その小刀に」
「………」
「主さんが僕たちの誰のものでも無い、なんでもない刀をそうやって肌身離さず持ってるのって、嫌なんです。モノとしても僕の方がずっと優れてるのに……」
こんな奴より僕の方が良いよ。そんなことを言う自分は醜いだろうに口は止まらなかった。
「堀川。このことに別に特に理由は無いの。特別な意味もないから、気にしないで」
主さんの言い訳がまた僕を煽る。特に理由が無いのなら、なおさらだ。おまえじゃなくても良いだろう、と疎ましく思ってしまう。
「主さんが斬りたいものがあったら、僕が何でも斬ってあげるよ。だから、そんなものを頼らないで」
「頼っていないわけじゃないの」
「じゃあもうこれは、いらないよね?」
そう言って小刀を目線で示す。主さんが困り果てたような顔をしている。僕が、周りが上手く見渡せなくなっているせいだ。
「……私がこれを手放せば、堀川は満足するの」
「満足とか、そういうんじゃないよ。でも、持っていて欲しくはないのは事実かな。言いましたよね、僕妬いてるんだって」
この時僕は、暇だったからって主さんに会いにきたことを後悔した。やめておけばよかったと思った。嫉妬を知るくらいなら兼さんのいない暇にただ悶えていればよかった。
でも我慢ならない理由は着実に、僕の中で築きあげられていく。
「ね、主さん。うん、って頷いて。みんなもいるし、僕もいるよ。ずっと主さんの近くに……」
すぐには、素直になってくれなかった。けれど僕が手を離さずに、ずっとその目を見て訴えかければ、観念したように頷いた。
主さんが分かってくれて良かった。僕は安堵して、主さんの手を解放してあげる。そして先ほどまで隠されていたそれを、自分の手元に引き寄せた。主さんは没収されていく小刀を目で追っていたが、僕が「主さん」と一言呼んでやめさせた。
「……どうして気づいたの?」
「ちょっとだけ主さんの動きに違和感があったから」
「それだけ?」
「ほら、時々僕言っているでしょ。闇討ち、暗殺、お手のもの……。お手のものってことは、僕はやり方もよく知ってるんだよね。やっぱり前の主さんの影響もあって、そういう人間をたくさん見てきたし、僕自身、結構感づきやすいっていうか。だから……」
「……私って、分かりやすい?」
「ううん、そんなことはないよ!」
むしろ僕以外に気づきそうなら、言わなかったと思う。誰かが主さんに忠告してくれるなら、僕はその役割をたとえ誰であれ譲っただろう。
誰も気づかないだろう主さんの様子に、僕は気づくことができた。それだけならば、輝かしい誉れであるのに、実際は知りたくないようなことを知ってしまったなと思う。
優越感と失望がごちゃまぜだ。
「堀川、これ」
苦笑いしている僕に、主さんがつきだして来たのは書類の束だった。
「備品とかの一覧だから、これとモノを照らし合わせて、足りなかったり欠損があったら報告して欲しいの」
「え……」
「何か手伝いを探しに来たんでしょう」
「……主さんて、ほんと変わってるなぁ」
さっきまで僕は嫉妬を露わにして重々しい話をしていたはずなのに、急に本題に戻してお仕事を見つけてくれるなんて。この人、実は僕の扱い方をよく分かっているんじゃないかと思った。
「僕のこと怒ってないの?」
「……なんていうか、怒れないの」
主さんは、怒っていないとは言わなかった。
怒ることができない。僕はそれを聞いて、主さんらしいや、と思った。簡単に怒ることができないなんて、滅多に笑うことのできない主さんらしい。
「だって、私のことを思って言ったんでしょ」
「うん……。うん、そうだよ。僕、主さんのこと結構好いてるんだよね。だから……」
書類と小刀を持って、僕は主さんの部屋を後にした。
もう足音も聞こえないくらい遠くへついてから、僕は主さんかた取り上げたそれを改めて眺めた。
これが主さんが持ち歩いていた小刀。あんな冷めた顔して、肌身離さず、こいつを。いつから一緒だったんだろう。また、ばかみたいな嫉妬が顔を見せる。
もう飼ってしまった妬ましさは、僕じゃうまく手放せそうにない。だから自分に正直になって考える。こいつをどう処分してやろうか?
人間の処分の仕方ならこの身の上だから知っている。刀にしてやれることは、いったいなんだろう?
でもこれで主さんは本当に自分の身を守るつもりだったんだろうか。本当に刃が短いし、これで敵に抵抗できただろうか。
僕が手にしたそれは、僕から見れば随分な役立たずに見えた。これで切れるものは、湯葉くらいなものだ。
もしくは主さんほどか弱い人間ならば、あるいは。でも主さんが自分で自分を切るわけないので、また僕は首を傾げてしまう。
やっぱり、暇だからって主さんのところに行かなければ良かった、と後悔が渦巻く。
恋敵のようなものを摘発することに僕は成功したけれど、なんだか損した気分の方が強い。今回のことで、分かってしまったことがたくさんあるからだ。
「言っちゃった……」
誰もいない廊下に僕のため息が響く。
言ってしまった。主さんが、結構好きって。言葉にしたのは初めてだし、こんなに気持ちを強く自覚したのも初めてだった。
なんとなくの好きが、今はひとつのしっかりとした好意に変わっている。
そしてそれによって、僕は嫉妬に考えや行動まで乱されるということも今回のことでよく分かってしまった。
だから、好きになっちゃいけなかったんだ。あの人のこと。
兼さんも同じように主さんを気に入りそうだと思ったことも、この人が滅多に笑わそうなことも、全然関係無い。この人が僕を乱すのをどこかで感づいていたから、思ったんだ。僕はこの人を好きになっちゃいけない。
兼さんは今晩には、遠征から帰ってくるはず。僕は早く兼さんのところに戻りたいと願った。僕の恋心を小さなままで押しとどめてくれる、あの人のかっこよさの横で僕が助手として相棒として、できることを探す。そういう時間を過ごすことで、もう余計なこと、忘れてしまいたい。