一番隊の隊長に指名されたなら、その者はの近侍の命をも与えられるという。
 主は朝、俺に会いにきたかと思えば感慨もなさげな顔で「岩融が面倒だったら他の者に頼む」と言った。が、やってみなければ面倒かどうかも分からない。そうして俺は試しに参じて侍ってみればそれはそれはつまらない仕事であった。気づけば俺がいびきを上げているほどに。

 ふと、良い香りが鼻をかすめ目覚めると、が茶をいれているところであった。


「おお、すまなんだ。一声かけてくれれば、俺がいれたものを」
「だって寝てたでしょう」
「それは……、すまん」


 近侍という役は俺に言わせてみればとにかく静かすぎる。はほとんどを自分の手でこなす上に、ほとんど音を立てずに物事をこなす。一向に俺に何か回ってくる気配が無い。

 茶をいれるのを代わるべきかと思ったが、俺にあの、豆のような急須は俺にはのようには扱えまい。


「やはり面倒だった?」
「面倒ではない。だが近侍というのはこれで良いのだろうか」
「別に。岩融の自由で良いのよ」
「そばにいるだけだぞ」
「十分。何かあった時すぐに一番近くに頼れるものがいることが大事。何もないことを喜ぶべきよ」
「何かとは」
「滅多にない出来事のことよ。でも、私も貴方を殺している気がする。……どうぞ」


 そう言うとは俺にこれまたお猪口みたいな湯呑みを押しつけて、会話を切り上げてしまった。俺ではなく、文机に体を向けて、またすぐにでも俺が寝入ってしまいそうな静けさが訪れるのだろう。

 俺はぐるりと目玉をまわして考えた。は、そばにいるだけで良い、と言った。そして俺の自由で良いとも。
 ならば。





 自分でも随分幼稚な感情であると思うが、自分のせいで主が、この小さな人の子が表情を変える。それが剣先が肌をくすぐるように楽しかった。
 困った顔をよくさせていたと思う。もちろん喜ばせたいという心は常にあったが、彼女を喜ばせるというようなことはなかなかに繊細さが求められる。繊細。それは俺とは無縁の言葉であった。薙ぐことにも繊細さは宿るが、それは人の心とはまた一線画すものである。


「待って、待って岩融」


 微かな足音が俺を追ってくる。困惑しながらそれでもやめてと主は言わなんだ。しっかりとついてきている主に俺はがはははと笑う。後ろから、「笑い事じゃないんだけど」というぼやきがまた微かに聞こえる。
 どんな表情でぼやいたのかが気になって後ろを振り向けば、「わあ! 待って、待って」と主が俺を制止する。


「なんだ。待っているではないか」
「そうじゃなくて。机、周りにぶつけないように気をつけて」


 主は、俺を、また俺が片腕で抱えた机を交互に恐々と見てくる。先ほどまで主が書き物をしていた、横に長い文机だ。深く暗い木の色がべっこうのような艶出しに覆われたそれは、重々しく部屋に横たわっていたが、抱えてみれば片手でも軽い軽い。
 なんともないぞ、と指の力だけで支えようと指に力を込めればまた主が「あああ……」とあらぬ声を出す。俺、もしくは文机がこれ以上動かないようにと願うように小さな両手を顔の横あたりで広げた。
 よくよく見ると首筋に小さく汗をかいている。珍しい。汗をかく間も無く冷えていく体の持ち主が汗とは。


「何、心配ない。俺はこういった長物の扱いにおいてはその辺の者には負けん。任せろ、任せろ」
「そうかもしれないけれど……」


 なぜだかわからんが、体の調子がすこぶる良い。俺は小脇に抱えていた文机を、今度は肩に抱えた。拍子に机にひっかかっていた紙や冊子どもがバサバサと落ちる。
 待って、待ってと言いながら主は机から滑り落ちたものどもをひとつひとつ拾い上げて俺を追いかけてくる。

 机を片腕で抱えた俺、それを手の内を文具でいっぱいにしながら追いかける主。
 間にひゅるりと現れたのは今剣であった。


「わあ、いわとおし! あるじさまのつくえをどうするのですか?」
「うむ! 運ぶのだ!」
「そうなんですねー! どこへはこぶのですか」
「……さあ」
「あるじさま、ぼくもてつだいますね!」
「あ、ありがとう……」
「よし! 行こうぞ! ものどもついてこい!!」


 手いっぱいの主から、今剣がいくらかの冊子を引き取る。これで手は足りた。いっそう愉快になて俺は机を空に掲げながら歩いた。「あるじさまのつくえ、たくさんものがのっていますね!」。今剣がけらけらと笑っていた。

 庭に降りる頃、さすがに机上に残った紙などはなかった。今までは主の言う通り、どこぞにぶつけないか気を使わねばならなかったが、外はもう気にするべきものも無い。俺はいっそう気持ちよく机を天に向け歩いた。

 朱色の橋を渡って、俺は良い場所が無いかあたりを見回した。この机の良い置き場所を。
 先ほどは汗をかいていたのだから、涼しげな場所が良い。ふと目に止まったのは木の下であった。少し高くなっており庭が一望できるし、その下の木漏れ日は明るくも風が通る。この机も、俺もすっぽりと入り休めそうである。何よりちらちらと小さな花がついた枝が垂れている。俺はここに主を置きたい。


「わあ、きれいですね!」
「さあ主よ! ここで仕事をすれば良い!」
「………」
「なんだ気にくわんのか」


 ならば場所を移そうと机に片手をかければ、は焦ったように机の上に書物を置いた。


「ここで、大丈夫。だけど……。せめて、ござを敷いて良いかしら」
「がははははは! それは気づかなんだ!」


 確かに俺は地に直接机を置いてしまった。すぐさま今剣と屋敷へ舞い戻り、ござと、座布団をみっつ掴み取った。戻ると、木陰の下、落ち着いた顔で、先ほどは驚きに乱れていた髪を戻した主が待っていた。

 すっかり落ち着きを取り戻した主は、俺がござと座布団を敷いたところに、願った通りににちょこんと座った。ありがとう、と一言礼もくれた。俺は満たされる感覚に酔いながら、またただ主の横に侍った。今剣も足をくつろげ、近くに座った。


 俺が薙刀の体で持って「がはははは!」と笑い声をあげられるようになった時、すでに俺は前の主の手により随分な数の刀を狩った後であった。そうして名を上げた後だったからかもしれないが、俺は存外に喜びを得て日々を過ごしている。
 そして今や二本の足、二本の腕、五本の指と爪、抑えが効かない髪、上肢を支える下肢、下肢を導く上肢。それらをもち得れば、今新たに閉じこめられた器の中で新たな喜びと出会っているのだから、俺はこの世の奥深さに飲み込まれるような気分である。
 人間の体を持ってからこそ薙刀としては存外の喜びを俺は日々得ていた。

 風の音、草どもが擦れる音が加わったものの、すぐに静けさが訪れる。戦場に比べればここには何もなく、俺はまた直に寝てしまいそうだ。心地よさに体を横たえ、寝転がりながら俺が主を見ていると、机に向かった主が振り向き、目があう。ふと目元をゆるめた。


「岩融は外で眠りたかったの?」
「それは違うぞ!」


 俺は明るく風も通る場所に主を置きたかったのだ。彼女の在る場所は、このような場所であってほしいと願ったのだ。開けた景色の美しい場所で生が続いてほしいと。
 会話が途切れるとはもう顔を机に戻してしまった。
 俺はまどろみが訪れるのを感じながら、木陰の下のうなじを見ていた。真白いうなじだ。
 そこに指を伸ばしたのは、俺から言わせてみれば、に誘われているように思えたからだ。無防備に隙を見せているのが、意図的なものなのか、それとも無意識なのか分からないところが、こちらを妖しい気持ちにさせた。

 爪がうなじへと至った。瞬間、主の全てが波打ちざわついたのが分かった。俺に反応している。俺は知らず知らずのうちに笑んでいた。そして指先が着物にかかった時だった。

 肌が肌をはたく音が聞こえ、俺の手がやわい力にそらされる。爪の先にもう主はいなかった。


「やめて!」


 机を奪われてもやめてとは言わなかったというのに、爪先が触れるだけでこれか。俺の手をはねのける際にひっかけたらしい。彼女の手の甲には一本のみみず腫れができていた。

 荒い息。敵意を宿して俺を見上げるが、完全に俺に気圧された弱々しい姿。けれど戦場で散る間際に敵が見せる抵抗とはまた違う様子なのは、そこに恐れではなく軽蔑が宿っているからであろう。
 俺がまじまじと主を見ていると、なぜか主はうなだれて、両の手で顔を隠してこう言った。


「ごめんなさい。最近、自分でも神経質すぎると思うのだけど。だめなの。お願い、こんないたずらはしないで」


 いたずら、か。俺はその言葉に違和感を覚える。が、続けて今剣が「いわとおし、あるじさまにいたずらをしてはだめですよ」と言ったので、俺のしたことはいたずらで片づけられてしまった。

 主はまだ、俺の爪の感触が消えないのか暖かなこの場所で、凍えたような青い顔をしている。俺は今日も、薙刀としては存外の喜びを得て、日々を過ごしている。