「少し、放っておいて」
このところ、そう告げる回数がやたら増えたと思う。私のそばに寄り添おうとする刀たち誰構わず、そう言っている気がする。付き添おうとした者を私の気分で退けるのは後ろめたい。刀によっては分かりやすく眉をしかめるのだからなおさらだ。そんな感情の機微が、また私を追い立てるのだ。
無自覚なままであれたなら。今でもそう思う。次々に、主人としての身にあり余る好意を告げられてからというもの、この本丸での日々を振り返ると、彼らが私へ施してくれた何もかもが表情を変えて見せるのだ。
私のいる場所に、私の歩く先に、私がいなくなった跡に。時に優しさ、気遣い、後始末をしてくれた。またある時は、意味不明瞭の言葉を仕草とふれあいをくれた。今までの私なら、不明瞭を不明瞭としてそのまま受け取った。でも今は勘ぐってしまう。あれは、恋慕から来るものだったのだろうか、それとも各々の人の良さに過ぎないのだろうか。それらの真意を疑い始めるときりがない。その上、考えが煮詰まってくれば魔が囁く。全て私の自惚れじゃないかと。
無自覚なままでいられたら良かったと思う。でもそれは、言い換えればこうである。無知なままでいたかった。
何も知らないままであることは愚かだが、知った後の私も、そう変わらず、愚かだ。
私は誰かが開け放した勝手口の隙間から空を見た。それから、ふぅーっと、細く長い息を吐いた。目の前に漂う、考えを鈍らせる薄い膜を遠くへ飛ばすような想いで。
無知ではなくなった私の意識は、蜂須賀虎徹の視線に過敏に反応をしていた。私に植え付けられた新たな感覚は、あの薄紫の視線が頬に当たってるのを感じたと同時に、ぴしゃりと私を叱りつけた。振り返ってはいけない、と。
私が気づいていると、蜂須賀虎徹に感づかせてはいけない。私は意図的に遠くの景色や、彼よりも近くにいる刀剣へ意識を逃がした。
それでも同じ目的を持ち、衣食住を同じくしているのだから、私の逃げにも限界はやってくる。遠くからの視線を投げかけてくるばかりだった蜂須賀虎徹は、ここ最近、直々に私の部屋を訪れる。
畳にホログラムのような虹色が落ちる。太陽を受けて、彼の装甲が生み出した色だ。
「」
彼が私を他の刀剣よりも気軽に呼びつけるのは今に始まったことでは無い。蜂須賀虎徹の気位の高さがそうさせたのだろう。だけど今の私はそれを受け止められない。
なぜこうも親しみという感情に違和感を覚えるようになってしまったのだろう。
私は筆先と紙の隙間を見つめながら迷う。彼の用件を聞くべきだろうか?
彼の考え方や応答の癖。正当という価値に寄せる、いささか重たい信頼。それを考えると、下手に問う方が知りたくないことを知らされる気がするからだ。
「ここ最近、よく来るのね」
「ああ。といろんな話がしたいからな」
「そう」
そう言って彼、蜂須賀虎徹は何か、数式が似合いそうなほどに整った顔に笑みを浮かべた。彼は最近よく笑う。自らを誇って自らのため笑むのでは無く、目の前の物事に対し笑って見せるのだ。元々造形の美しい男だ。そんな彼が生活の中で無邪気に心を動かすのだ。少し変化した蜂須賀虎徹を愛らしいと想いながらも、私は彼と対面する度に石ころを飲んでしまったかのように胃を重たくさせている。
不自然でないよう一呼吸置いてから、私は言いつける。
「丁度良かった、燭台切光忠を呼んできてもらえる。彼に、言って置かなくちゃいけないことがあるの」
「……分かったよ、」
畳に虹色をざわめかせて、蜂須賀虎徹は私の願いを満たすべく退室した。
大丈夫だ。自らにそう言い聞かせる。私は前から、こう、親切心さや人に合わせる心に欠ける人間だった。愛想が無いと何度言われたことか。それが私だ。大丈夫。
しかし意識すると、わからなくなるものだ。いつも通りというものは。以前の私。それは探し出した途端、霧に包まれ消えてしまう。
そうして、私は普段の私を探すことに手いっぱいになった。彼の歩み寄りへ見ないふりをすることが、蜂須賀相手には大変な悪手であったと知るのは、もう取り返しのつかない状況になってからだった。
「、君が好きだ」
彼の想いは薄々分かっていた。けれど息もできないほど私がおののいたのは、彼がそれを口した場に大勢の仲間がいたからだ。
それぞれがそれぞれの場所へと解けて行こうかという、朝食後のことだった。彼の告白は部屋の空気をまっすぐに貫き、私たちを振り向かない者はいなかった。
「蜂須賀、場をわきまえて」
「いいや。君は俺を避けただろう。俺は答えが欲しいんだ」
脈がうるさい。それはときめきからでは無い。視界が狭まる。意識が目の前の蜂須賀虎徹に集中し、それ以外が白けていく感覚があるのに、誰かが片眉をつり上げるのがよく見えた。
こんな状況には付き合ってはいられない。私が退室しようと体を背けようとしたが、蜂須賀が、じっと事を見守る他の刀たちが、そうはさせてくれなかった。
「逃げるのは許さない、俺は何度だって言うよ。が好きだ」
こんなやり方って、無い。一歩間違えば拳を振り上げそうな私へ、蜂須賀は歩み寄り、かしずいた。
「俺の想いに応えてくれ」
恭しく膝を折った蜂須賀虎徹は、真っ直ぐだが、憐れみを誘う目をして、私を見上げた。
「……私は、貴方をそういう目で見られない」
「なぜ?」
「なぜって……。私はそのためにここにいないからよ。必要が無いの」
「俺のこの気持ちもそうだ。何も必要だから生まれたわけじゃない。と共にあることで、自然と生まれたんだ。だから、今は何とも思えなくても良いから、俺を見てくれ」
「できない、私には」
「……、なぜ?」
彼の顔がさらに歪められる。何度問われても、私は頑なになってゆく。何よりもまず、ありえないという気持ちが私を支配していた。
なぜ彼らは、さも当然のように私の好意を問えるのだろうか。
私は、言葉も無く首を横に振った。
「が求めるものを教えて欲しい」
やはり私は首を横に振った。
「……俺は虎徹なのに?」
「それを言ってしまうの?」
「………」
いや、虎徹なのに、と言わせたのは私か。彼の自尊心を傷つけ続けた結果か。
「けれど」
「貴方が虎徹だから。そういう理由で貴方を愛した人は、今までたくさんいたと思う。だけど……、その理由じゃ本当はだめなんでしょう」
「俺が嫌いなのか?」
「嫌いじゃない。好きでもない。でも聞きなさい、蜂須賀。私の気持ちは、貴方の刀としての価値とは無関係よ」
私が好こうが嫌おうが、蜂須賀虎徹の価値は揺らぐことは無い。数式を崩すように歪められた顔に、伝えたいのはそれだった。
ようやく彼は、私の心が動かないのを確かめられたようだった。沈黙が続き、彼ももう何か言いたげな様子でも無い。
落ち込む肩に触れることも、ごめんなさいの言葉すらかけるのが戸惑われるのだから、やはり私は向けられる恋慕を煩わしいとしか感じられないのだった。
「少し、放っておいて」
追ってくるのが誰かも確認せず、またその言葉を使った。
ぴったりと障子を閉めてから、私は文机に突っ伏した。座っていられない辛さが全身にあった。
私は蜂須賀虎徹について、美しいとも愛らしいとも感じる。だが、好きにも、嫌いにもなれないのだ。随分前から、私の心はそんな風には動かないのだ。
でも今は、彼が少し憎い。逃げられない状況で私に答えさせたこともそうだが、皆の前で蜂須賀が抱く感情の形に言及してしまった時、しくじったと思った。私はもう、無知のふりはできない。