最初、彼女は俺を通り過ぎた。盆の上にそろえたふたつの湯呑み、ふたつの茶菓子はそこからしかと見えていただろうに、彼女の心内に興味が生まれた気配は無かった。
興味無さげに——といっても、主の普段から目の前の何ものにも興味が無さそうに見える、こちらが寂しさを覚えるくらい頭の中のごちゃごちゃに捕らわれすぎているように見えるのだが——それでも一度は目をくれて、俺の後ろを静かに通ろうとした。
「なあ」
そう声もかけたが、主は俺の独り言とでも思ったのか、立ち止まらない。
「主」
「……何?」
「主、主、」
「一度呼べば分かります」
「そうだな。つい、構って欲しい心が強く出てしまった」
「………」
「、ここで休んでいかないか」
主は茶と俺と、それから手で示した俺の横に空いた空間を見つめ、それからまた俺を見た。
「時間をどれくらいとる?」
「見ての通り。茶一杯ぶんだ」
「……一緒にお茶を飲めば良いの?」
「ああ」
眼だけをひたすらに追えば意外に表情ある主である。
彼女は自分が行こうとしていた方角を何回か見やり、それからすでに湯気立つ茶を見やり、とうとう俺の隣に座った。
「ごめんなさい。私を待っていたなんて思わなかった」
小さな手が盆から湯のみを引き上げる。彼女が熱い茶をずず、と空気とともに飲み下す音が聞こえて俺はにんまりとしてしまう。
もちろんあまり悟られないよう、庭に向かってにんまりしたわけだが。
は特に茶の感想を言わなかった。だけど俺にはこの沈黙が楽しい。茶がある空間は、沈黙を許してくれる。
「俺が茶を飲んでいる時はいつでも隣に座ると良い。それに俺が茶を飲んでいない時も、いつもで誘ってくれて良い」
「お茶に?」
「ああ」
「……、どうも」
主はまた、最初自分が向かおうとしていた方向に視線を向けた。仕事が気になるらしい。茶菓子を急いて食べきり、茶もおおかた飲み終えると、そそくさと立った。
「ごちそうさま、鶯丸」
「ああ」
短い逢瀬。俺の茶も、菓子へもうまいの一言も言わなかった。だが俺の隣に確かにあった横顔、丸いつむじ。それは立って並ぶよりずっと近い位置にある。それが俺を妙に喜ばせ、今日一日気分よく縁側にいられる予感があった。
二度目、彼女は僅かに眉をしかめた。俺が良い笑顔で縁側を通りかかった彼女を迎えたというのに、彼女は良い顔をしてくれないのだ。それどころか二つの湯呑みと茶菓子、それに俺を交互に見て、気まずそうな顔をする。
「昨日も飲んだじゃない」
「茶は毎日飲むものだろう」
「………」
小さく息を吐いてから、は俺の隣に座った。
「貴方がお茶好きなのは良いんだけどね」
「好きとは違う。それを越えた何かだな」
「……だからそれは良いんだけどね、毎日お茶のために時間をとるのは私にとっては大変なことなの」
「ああ、そうだな。分かっている」
「………」
「ありがとう、」
彼女の時間をもらっている重要さなら俺も十分承知している。だから素直に礼を伝えた。
なのににとってそれは予想外の出来事らしかった。目を見開いて俺を見る。その時俺は、彼女の目が意外に大きく愛らしいことに気づいた。そして考え込んでいる表情のせいでそれに気づきにくいのだな、ということも。
伏せ目やしかめ面では瞼に隠れて見えないが元々の眼球はしっかりと丸いのだろう。きっと片手で握りしめた時、指がやっとまわるかというくらい、それは丸い。
何度目か分からないくらい待ち伏せを繰り返せば、時には俺を避けた。
俺は縁側を伝って近づいてくる、間違えようのない彼女のかすかな足音を聞いて楽しみにしていたというのに。は、と気づいたように足音が止まるときびすを返していってしまった。
そういう日は俺は嘆息しつつ茶を飲む。彼女が口をつけなかった分ものどに流し込む。
本当に、ごくまれなことだ。
彼女の都合が良い時は、ちゃんと俺のいる縁側を通りかかってくれる。
「なんだ、昨日俺を避けたのに」
「気づいていたの」
率直にそう言うと、彼女も率直に返してくる。
「その前日にずいぶん飲まされたから、匂いという匂いが、つらくて」
言われてみれば先日は次郎太刀に捕まっていた。は常日頃から酒はやらない、煙草もやらない、そういう浮ついたことしている余裕はないとまじめくさって豪語している。
が、最近は次郎太刀に弱い傾向にある。次郎太刀に捕まり、あれよあれよと座らせられ、さかずき一杯で頭が前後に揺れだしたを思い出し、つい笑い出してしまう。
「………」
「ああ、すまない。そうだったのか」
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
今日はここに来てくれたのだから。それに代えられるものは何も無い。
「いつもありがとう」
は湯呑みをもち、茶をすする。その動作もずいぶんなめらかになった。熱い茶を飲むのがうまくなったな。なんだか嬉しい気持ちで俺は横のまるいつむじを見る。かすかに「おいしい」というどこに向けたわけじゃない呟きがみみたぶに触れば、それは極まる。
「ところで鶯丸。今日の内番は?」
「………」
「ごきげんよう」
そう挨拶されたことも、縁側に座る支えのために肩に触れられたのも嬉しい驚きだった。小さな手が浅く俺の肩に埋まり、が腰を下ろすと撫でるように去っていく。
今日のはずいぶんくたびれているようだった。顔色はいつもあまり良くないが、今日は特に髪の艶が欠けている。
その彼女が俺の横にいる。擦り切れた彼女は可哀想だがなんて喜ばしいことだろう。
直に言葉もなくが湯呑みを持つ。傷つき、消耗した様子の彼女にあたたかな陽があたっている。
しばらくしてからぽつりとは語った。
「貴方って恐ろしい」
「……どうしてだ?」
「今日、無意識に予定に組み込んでいたのよ。ここに来ることを」
「………」
「これが終わったら、鶯丸の横に座ろう、って」
充足感が急に自分の胸が内側から膨れあがった。俺はなんとも言い難い感情をの横で噛みしめた。
「そうか」
「何を話すわけでもない。ここで息を吸って、吐くだけなのに」
「。それでいい」
そうなのかもしれない、と目を閉じ呟いた声色は微かだったが、今まで聞いたこと無いほど柔らかだった。
「気分が落ち着く。ここにいるだけなのに」
「そうか……!」
「少しね」
以前と変わらない距離にある横顔が、そう言って目を細めたのに。もう少しで手が届きそうな気がしていた。
待ち伏せは日常茶飯事だ。彼女を待って冷えた茶を飲むのもまあ悪くない。だが俺は一人の縁側で俺は茶を飲み始めた。待ち人は来ないと悟っていたからだ。それでも全てをふたつずつ用意してしまったのは、それが俺の習慣と化していたからだ。
が知らず知らずのうちに俺と茶を飲むことを予定に組み込んでいたと明かしてくれたが、それよりもずっと前から俺は、を待つのが習慣だ。
でもしばらくここには来ないだろう。敗戦色は濃厚だった。
三日月、蜂須賀、他に彼女に迫った刀ども。皆皆揃って、余計なことをしてくれたと思う。強引に迫ってどうにかなるものでもないと、彼女の気質を考えればすぐ分かりそうなものなのに。
人への関心の薄さ。責任に縛られた考え方。何よりも、自身の価値を強く保てない。そういう人間に急な好意をぶつけてどうするつもりだったのだろうか。
本当は、気持ちを打ち明けた刀どもの気持ちが少しは分かる。
予期も予感も何もない無防備な様子を見ていると、湧き出すのだ。彼女に伝えなければならないという衝動が。教え込まなければ、こちらの気持ちも、自身に宿る価値も何もかも。そうでないとは何も気づかないまま死んでゆくのだろうと思わせられるのだ。
だからといって、彼女に気づかせることも、公然で想いを伝えることも、良いやり方では無い。
もうしばらくは彼女はここに来ないだろう。全ての親切と好意を疑って。
本当に、本当に逃げられてしまった。
手懐けようとした猫は、捕まえる気配を見せた瞬間にまた最初の警戒心を取り戻してしまうのだから。
彼女がいるのといないのとでは沈黙の色も違う。ずいぶん以前に遠ざかったいらだちが、俺の背に忍び寄るような心地がした。
俺は自分の茶を飲み干した。それから彼女のための茶は庭に捨てた。
二つの菓子はさすがに捨てられず、口に放り込んだ。だがその後、ふたつの菓子が胃にもたれて、そこで俺は息を吐いた。
こんなことはもうやめよう、と。