音楽が鳴っているの。音楽、音楽、音楽、音楽。大地、揺れているわ。それとも私が揺れているの。わからないの。前へ踏み出せないの、でも幸せなの。幸せ、でもでも歩くの。歩けば、目の前で揺れるあの幻の、幻の、幻の、幻の手を繋げそうなの。そうなの。そうなの。ああ、見て、青い鳥。
「様」
掴んだ手は幻ではなかった。幻のように白いけれども幻などではなかった。まずこの冷たい熱、それに低く忍ぶ声。江雪左文字。彼だ。時に、私を励ました、甘えたい熱さえ突き放すような冷たさ。
揺れる私を江雪左文字は掴まえた。ああ、良かった、掴まえてもらえたと思ったのに、私の視界の中では江雪左文字さえもが、ぐにゃんぐにゃんと輪郭や表情を変え、揺れていた。
「江雪ですか」
揺れる視界の中、月夜に浮かぶ白銀の長髪、その色彩がかろうじて彼を江雪左文字だと認識させた。
「江雪、江雪」
「はい」
「ねえ江雪、音楽が鳴っているの。音楽。みんなも歌ってる。ああもう、うるさいよね、こんな時間に。あはは」
「……何か口にしましたか」
「何か、何か。口にした、飲んだってこと。うん、うん飲んだ。あの、あ、あのね、寝られますようにって薬を。ほら音楽、鳴ってる、音楽……、見て、鳥が」
見えている景色と、目の前の江雪左文字が混ざりあい、訳が分からない。すがるように彼の手を強く握った。だけどその手の感覚すら、もはや曖昧だった。
「部屋に戻りましょう」
「そうね、部屋。部屋に。戻ろう。戻ろう。戻りたい……江雪、揺れているの。歩けないの。足が、ふにゃふにゃで。ふにゃって、して。江雪、江雪、あなたを頼りに歩いていい? 揺れているの、江雪」
「私がいます」
「うん、そうね、怖い、ねえ、江雪。分からない、すべてが混ざってる、怖い、怖いの、ああもう、分からない。分からないんだってば」
もう、溶けていきそうになっている私の肩を両側から掴んで、江雪が私の形を教えてくれる。
もっと強くしてくれて良い。痕になるくらい、強く。そうじゃないと怖い。そう子供みたいなことを言ったけれども、両肩に添えられる手が力を増すことは無かった。
江雪左文字に背を支えられて部屋に戻る。
彼が布団に寝かせてくれた辺りで、ようやく指先の感覚が戻ってきたのだった。そしてはっきりとさっきまでの自分の状態を自覚する。
私は、幻覚を見ていた。
つ、と目から一筋の水が頬を伝い落ちた。何か感情あってのことではなく、自分の感覚を取り戻したことへの生理的な涙だった。
冷たい枕の上で首を傾けると、薄暗い中に江雪左文字が座り、私を見下ろしている。
「……ごめんなさい」
もっと、かけるべき言葉はたくさんあったが、かろうじて謝罪の言葉が出ただけだった。
「いえ……」
彼は普段と特に変わらない表情だ。暗く、しかし白く、堪え忍ぶような表情に憐れみを含ませ、美しいまつげを伏せる。ただ私の方は、とんでもない失態を彼に見せてしまった。とりかえしのつかない事態に、思考が硬直しかかっている。
「寝られ、ますか」
無理だ、と思った。あの異常な体験で、すっかり体の底から震え上がっている。
「平気」
しかしそう口にしたのは、私の反射神経みたいなものだった。
虚勢を張ったって、江雪左文字はかけらも納得しないだろうということも分かっていた。あんな私の姿を見せてしまったのも、ここまで、連れてきてくれたのも、江雪左文字だ。彼には生々しい私というものが伝わってしまっている。
不幸にも当事者となってしまった彼に、このままでは済まされないだろうと感じ、せめての礼儀として私はぽつりぽつりと話し出す。
「薬が。合わなかったみたい」
「それは……、いつから……?」
「不眠の薬のことなら、今夜から。ちゃんと医師の指示通りの服薬したのだけど」
「……眠りたかったのですね」
「ええ」
「どうして急に薬を?」
「近頃少し、堪えることが多かったから。今までのようにはいかないのが辛くて。せめて、夜は眠りたいと思った」
「………」
「そういう時間がなければ、私はもう、頑張れない気がして」
すでに私の日常と化してるとはいえ、ここ数日、眠れないことは辛かった。静かな夜の中で、思考が渦を巻き、私のわずかに残された前向きな部分を飲み込まれていくのが分かるのだ。そして不安が絶えることなく、翌日へと連なっていく。
そのことは、今は耐えがたく、私は願ったのだ。眠り、つかの間でも休みたい、と。
「でもやめる。こんな風になってしまうのなら」
「………」
「怖かったもの。とても……」
弱音をそのまま口に出してしまうのは、相手が彼だからだった。江雪左文字の全てを突き放したような態度が、かえって私には丁度良いのだ。
昔からそうだった。甘やかされると、それは私が受けるべき処遇でない気がしてしまい落ち着かない。江雪は違う。彼はいつも遠巻きに事実を穏やかに嘆いている。厳しい世界に生きねばならない私を、現実に向き合わせつつ哀れんでくれる。
現に今も現状を聞くだけだ。私を安易に慰めたりはしない。そこが、好ましいのだ。
「……随分前にもこんなことがあった」
「ええ」
彼の髪が、美しい糸が、畳にまで広がって輝いている。その光景を私は過去にも見たことがある。彼が暗い部屋に訪れて、夜に負けそうな私の話を聞いてくれた時のこと。
「あの時は手を握ってくれた」
逢瀬は一度では無かった。何回かに分けて幾らかのことを、私は江雪左文字に喋った。それはどうやっても捨て去れない、私の問題の断片だ。
私より優秀だった男と自らを比べ、審神者としての評価に苦しんでいること。一人の人間としても、ここにいて良いと思えないことも、幼い頃からその不安に苛まれてきたことも。
審神者としていくら評価を納めれば、どこかで自分を許せるのではないかと期待して邁進したこと。けれどその期待は破れたこと。未だ救いを求めていること。
どうすれば自らの存在を許せるのか、全く、分からなくなってしまったことも。
私の欠陥について、この本丸で一番具体的に知っているのはこの刀であった。
「また、握りましょうか」
白く大きな手が、そっと差し伸べられる。この手があの太刀をしかと握り、振るい、強烈な斬撃を生むのだ。私はその白磁の指先を気まずく見つめた。
「……聞いてくれるだけで良い」
「はい」
「本当に、まいっていて。様々なことが一斉に狂いつつあるから」
「そう……ですか……」
「でも危機感はあったの。前から」
私は、どこかでしくじるのではないか。そういった心配はほとんど最初から存在していた。
元から私は弱い人間だ。何事も成すことができないのでは無いだろうかという気分が、ずっと私を支配してきた。
それでも審神者であることに関してだけは、人並み以上の勉強をした。注いできた時間の長さだけは確かで、その事実だけを自分を立たせる支えにしていたと思う。そしてその牙城がいつか崩れるのでないかという危惧も、随分前からあった。
「最初に危ない、と思ったのは、そうね、加州清光が、ひどい怪我をして帰ってきた時」
まだ、手に取るように思い出せる。彼の上着から、濃い血の匂いがして、加州は痛みに眉を歪めながら、私をすがるように見たのだった。
「本当は以前から苦手だったの。貴方たちの……瀕死の重傷に見える傷を負っても、半日やそこらで平気な顔して私の前に戻るでしょう。そして次こそは主のため、戦果を上げるだなんて言う。何にも無かったみたいに。そういうところ、嫌いだった」
そして早々に戦えるようになってしまう彼らに、動揺を抑えきれない自分が嫌いだった。
手入れを終え、舞い戻った刀たち。彼らに、私は明確な嫌悪を抱いていた。傷が直ることは良いのだ。彼らが苦しみから解放されれば、私の心配もそこでようやく解消される。
だがその何事も無かったかのような姿は、私を揺さぶった。
「加州清光は打刀でしょう。打刀は、基本は頼りにしてるのだけど、過信できないの。危ういから。短刀や脇差たちは打たれ弱いと分かって私も使う。だけど打刀は皆、体躯もしっかりしている、素早さもあり、器用。だからつい頼るのだけど、無理をさせた時に一番結果に出る。負傷という形で」
「………」
「私が、読みを間違えた時に、一番割を食うのが打刀。それでいて傷の直りも良く、資材の負担も少なく、回転が効くのも打刀よ」
人間なら以前と同じ生活を遅れるのかさえも分からない。それほどの傷を負っても、打刀なら半日、脇差や短刀ならもっと早く直してしまう。太刀はまだ時間がかかるぶん、どこかで安心する。彼らの直りを待つ時間は、そのまま私の贖罪の時間となってくれるから。
傷を負った彼らを動かせず待つしか無い時間は、戦況を読み間違えた自分への罰のようにも感じられた。それは私の心を、冷静に引き戻してくれる作用があった。
決定的に噛み合わないのだ。過ぎた荷を負わせてしまったと悔い傷に動揺する自分と、刀剣男士たちが次の戦場へ出ようとする足並みは最初の頃からずれていた。
彼らが早く戦場に戻るほど、私は混乱した。彼らが傷つくことへの恐怖が、根本からぐらついたのだ。
「あまり浸ってるとね、頭が狂いそうになる。貴方たちは、かなり人間に近いのに、共に過ごしているとそう感じることばかりなのに、やはりふとした時に人間という枠を壊すから」
刀装も壊され、手ひどくやられた加州清光を見た時。私は狂いかける自分を隠すので精一杯だった。
自分への失望、ぐらつく価値観、這い寄る病的な思考。そういうものを抑えようと、私はとっさに笑んだのを覚えている。普段、かけらも笑えない人間だというのに、その時は、笑うことで自分を確かに持とうと思ったのだ。
「一番恐ろしかったのは。彼らが傷つくことに慣れていく自分よ。痛みというものが分からなくなっていく。傷の価値が、無いに等しくなっていく……。戦績の評価制度。あれは今では大切な指針よ。あれが無ければ、私はもっと酷い戦いを組ませたと思う……。そういう自分になっていくのを、感じた」
だから、自分の胸を切ったのだ。
ある日鏡の中に見た私の写しは、暗い目をしていた。自分が魔に見入られ、人間でなくなっていくのが感じられ恐ろしかった。
このまま、感覚を失ってはいけないと強く感じた。脆いという特性も、人間の持つ強みなのだ。彼らの体は、人間だ。痛みが分からなくなっていくが、私はここで自分の痛覚を失ってはならない。私はこの本丸で、人間でなくてはならない。そして、名など無い小刀を手にとったのだ。
自分の肌に刃をあてるのは、全身が粟立つほど恐ろしかった。でも私には強い使命感があった。それは恐怖に打ち勝った。
肌は簡単に切れた。最初は血があまりに止まらないので驚いた。剣の鋭さ、そして私の脆さにあわてた。
だけど胸に宿る、しびれるような痛みが、私のひとつの法律となってくれた。傷の痛みをこらえることで、私が人間に戻っていく感覚があった。
あの痛みは、私に必要なものだった。
一期一振に見つかってしまったのは、誤算だった。薬研と共に悲しませてしまったことも。自分を傷つけることが彼らの気持ちを踏みにじるものであったとは、私には思い至らなかったのだ。
彼らの慈しみに困惑し、やめるべきなのか、酷く迷った。彼らの感情を掬いあげるべきなのかもしれないが、今この痛みを失えば私はまた、人非人に落ちぶれるような気がしたのだ。刃が堀川国広に見つからなければ、私は今もあの赤い法律を求めて続けていたのではないかと思う。
結局、堀川国広は彼の優しさから、私の刀を取り上げていってしまった。
だから私は、次に薬に手を伸ばしたのだ。
「私はもう分からない。貴方たちをどう扱うべきか。……貴方たちを、どこかでちゃんと、人間だと思うと狂いはじめるの」
「………」
「私自身は、貴方たちを結局は道具だと思っている」
この言葉に、江雪左文字は大げさに傷ついたりしない。そう分かっているから口にするのだ。私はずるい。
「だけど貴方たちは、自分が人間であると私に知らしめようと振る舞う。情を訴える。その実、人間なんかではありえないことをしておきながら……!」
私に情を、はたまた好意を抱くなんて、その最たるものだ。
喜怒哀楽の感情。それによる身体への作用。
感情に戸惑うことも、自分への理解が及ばず戸惑うことも。それは人間の領分だ。道具のすることじゃない。そう思いながら、彼らの感情は表情は私を動かすのだ。
「私は……、貴方たちを道具として扱いながら、けれどどこかで人間と思おうとしている……。そうよ、だから、苦しいのよ……」
不意に視界に明るくなる感覚に見舞われた。そうか、そうだったのか。私は胸の内で手を打った。
江雪左文字相手に喋ることでおのずと出てきた答え。苦しみの一因はこれだったのだ。刀剣男士という存在が起こす矛盾が、私を苦しめていた。
髪をかいて、顔を上げる。そこにあるのは夜闇と、夜闇に残る僅かな光を集める江雪左文字だ。私が言葉なくたたずんでいると、そっと彼の唇が開いた。
「私たちが……なにものか……。その答えはありません」
「そうね」
人間のふりをし、人間に近づく、人間で無いもの。元をたどれば付喪神としても、一緒にいるとその境界が曖昧になっていくのを誰よりも私が感じていた。
「ですが……、貴方に必要なのは、人間でしょう……」
瞬間、背筋にぞぞと走る悪寒。江雪左文字の何かが変わったのが私には分かった。
「江雪、どうしたの……?」
ただ聞いているだけだった彼が、動こうとしている。その気配に私の背筋が戦慄いた。それこそ彼の刃が首筋に当てられているのか、と思うくらいに神経がざわつく。
「やめて、私に触れないで」
そう口走ったのは単なる勘だった。だが江雪左文字の眼を見れば、予感せずにはいられない。全てを遠くから見つめてくれた瞳が、今は違う色を秘めている。
「それ以上するなら貴方を嫌いになる」
「それも、良いでしょう……」
「もう貴方に、何もしゃべれなくなる……」
「………」
「やだ、いやだ!」
何をいやだとごねているのか、私にも分からなかった。だが彼の手、彼の体が多い被さるように近づいてくると同時、私にとって良き存在だった江雪が離れていく感覚がした。彼を失う、と思った。
「いや……」
江雪左文字が私にもたらしたのは、一回の強い抱擁だった。私は一瞬、彼に戦場で切られる敵になった心地がした。彼の哀れみを全身で受けたも同じだったからだ。骨が軋み、髪をかき乱され、それでも足りないというように引き寄せられると私は不格好な中腰になるしかなかった。
苦しさからつま先が布団の上をもがいても、私に自由はなかった。
私は、江雪左文字には特別、弱い部分を見せていた。それによって彼に、私の秘密のいくらかを背負わせている自覚はあった。だが、私ごときでこの刀の信念に何か影響を及ぼすことも無いと高を括っていたのも事実であった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
気がつけば私は謝罪の言葉を口にしていた。
二つの腕から十分すぎるほど、彼の思いが伝わってくる。私は白みそうになる意識で思った。江雪左文字も人間だった。彼は、私を何とも思わないでくれると信じたのは大変な間違いだったのだ。
もう仲違いになると江雪左文字は十分理解しているらしかった。
それくらい強く私を掻き抱いて、それから離して、去っていった。