私の思考にはそぐわない、あたたかな日だった。手足の先が冷えがちな私だが、いつもの文机の前でじんわりと汗をかいていた。昨夜の薬による幻覚はさっぱり消え去っていた。だが代わりに私の目にふと甦る残像がある。月光に照らされた江雪左文字の幻影だ。
私は最期、彼がどんな目をしていたか見ることはできなかった。私に必要なのは“人間”ではないかと突きつけられ彼は、私を抱きしめてきたのだから顔を見ることもかなわなかったし、離されたら離されたで私は呆然と布団に伏せっていた。そうして彼が出ていくのを見ることはかなわなかった。江雪左文字は最期、どんな目で私を軽蔑していたのだろうか。
目の前の書類に、彼の幻を振り切ろうとしても、やはり夜のことが思い出される。彼と共に、私がたどり着いたひとつの結論も、脳内で渦を巻いた。
刀剣男士を人間扱いすれば私が苦しむ。しかし彼らは人間であるがごとく振る舞い、そして人間扱いを要求する。
私のようなものには人間が必要だと言った江雪左文字だって刀剣男士で、それが彼自身が人間扱いを求めての発言ではなかったと、保証するものなど何も無い。
「………」
もう、何がなんだか分からない。
私は恐らく今までになく難しい顔をしているだろう。だから見かねた太郎太刀が、私の手の中から筆を取り去ったのだ。
「返して」
大太刀の中でもずば抜けたその刀身のせいか、彼は刀剣男士の中でも際だっている。体格においても、顔の作りにおいても。その太郎太刀が心配そうに眉を下げ、筆をさらに私の手が届かないところへ連れて行ってしまう。
「一度、寝られては」
「平気。上の空に見えたかしら。考えごとをしていただけ」
「ですが……」
「返しなさい」
苛立ちを露わに強い口調で言えば、従順に筆が返ってくる。出すぎた真似をしないように一言ぶつけてやろうかと思ったが、筆を返し元の場所に座した太郎太刀の横顔が、萎んだように悲しげだったので、私は口を噤んだのだった。
しかし今日の太郎太刀は、以後も私を苛立たせた。何かにつけ私の後ろをついて歩いくのだ。私が立てば彼も立つ、座れば彼も座る。私が右往左往すれば彼も振り回され右往左往する。部屋を移ろうとすればそのままついてきて、私の様子を心配そうに伺うのだ。
大きな男が、私の影のようにうごめく。
太郎太刀がそこまで心配するほど私はやつれ、顔も青いのかと思い、隙を見て鏡を覗いたが、そこには平時と変わらない私がいた。私がそう健康そうな顔立ちでは無いのは否定しない。しかし目の下が少し暗いのも、ぱっとしない表情も、いつも通りの私ではないか。一気に、太郎太刀への苛立ちが倍増した。
「何なの。そんなに顔色も悪くないじゃない。気が散る」
「しかし……そうでしょうか。今朝の貴方をお見かけした時、今までになく顔が暗かったので」
「考えごとがあって、眠れなかっただけ。平気だと、言っているでしょう」
「………」
「今日の貴方ははお節介が過ぎる。身の程をわきまえて」
しかし彼は押し黙る。化粧のよく似合った瞳を眇めて。
私は怒っているのだ、それを露わにしているのだ。というのに、太郎太刀はまだ謝罪の言葉を口にしない。体格差のせいだろうか、私が怒気を籠めて睨みつけても、太郎太刀はどこか哀れむような視線を降り注す。
「何、私が間違っているというの」
「……勝手ながら申し上げますと。次郎太刀は心から貴女を心配しています」
「………」
「その気持ちを分かってやってください……」
せり上がった怒り。我慢の限界というやつだろう。
ああ、そういう言い方をするんだ、この男は。私の脳内を真っ赤に染めたのは太郎太刀の物言いのせいだった。
この男、弟を、次郎太刀を言い訳にした。
「太郎太刀、そこに座って……いいえ、膝立ちになりなさい」
私はとっくに気づいているのだ。次郎太刀では無い、他でもない貴方自身が私へ疚しい感情を抱いていることを。
及ばぬこと多い私だけれど、全ての感情が欠陥しているわけではないのだ。容量少ない感性ながらも、美しさや聖なるものを感ずることはできるのだ。太郎太刀はその最たるものだろう。初めて出会った時、彼の姿に美しさを見出しこと、覚えている。
言われるがままに膝立ちになった太郎太刀。
ようやく彼の頭に手が届くようになった。私は、まず、黒く美しい髪に指を絡めた。絡めたまま指を引くとやがて長さの足りなくなった黒髪が一筋、また一筋と彼の肩を打った。
「太郎太刀、動いてはだめよ」
彼は馬鹿らしいほど従順だ。ぐっと繋がりやすくなった視線を通じ合わせながら、「私を見ていなさい」とも命じると、隈取りの美しい目がしっかりとこちらを見る。
なんて指通りが良い髪なのだろう。油で解いた女の髪とも、もちろん私の持ち物とも全然違う。この世で、これほど美しい髪は見たことがない。こんな身体の一部からも、彼は神らしさを漂わす刀剣だった。
だからこそ、許せないのだろう。彼が私へ、感情を悟られる恐怖を抱き、あまつさえその理由に弟を出した。他人を言い訳に、自らを隠した。その仕草の人間臭さと言ったら無い。
私を心から心配しているのは、そうして滑稽な姿を晒しているのは、他でもない貴方だ。
私は指に残る、彼の一房の髪を引いた。そのまま、片手を彼のしっかりとした首に絡める。結局私は弱々しい人間で、あとはこちらから近づいていくのみだった。
そして彼の唇へ、理不尽を振りかざした。
「ん、……」
これが口付けか、と思った。私のよりはっきりした太郎太刀の唇のくぼみのおかげで、ふたつが意外にうまくかみ合う。
唇の奥の、粘膜の端を感じながら少し薄く目を開けると、驚ききった太郎太刀と目が合った。私は少し笑ったかもしれない。
私の思考にはそぐわない、あたたかな日だった。けれどようやく私の体温が少しあがり、このあたたかさについていけるようになった感覚があった。
唇を離す機会を逃しに逃して、私たちは随分長く顔をつきあわせていたと思う。髪なら指で絡めていた。しかしそれ以外は私が彼に近づき中途半端に腰を折った状態だったため、体勢が辛くなったところで私はようやく引き上げたのだった。
私を受け入れていた唇を真一文字に結んだ太郎太刀は、命令を守ってか、それとも驚いているのか、目を見開いたまま私を見ている。
「どう? 求めていたものの、感想は?」
優しく言ってやったつもりだったが、返事がこない。共に次郎太刀を裏切った感想が、聞きたかったというのに。
膝立ちで立ち尽くす彼はなんだかかっこわるいが、これは太郎太刀に限った話では無いだろう。
三日月も蜂須賀も、一期一振も、堀川国広も、江雪も、皆々、そうだった。私相手に必死になっている姿は無様だと思うのは私の勘違いじゃないだろう。そしてその原因が私であるというのは、何の罪に対する罰なのだろう。
私が好きなのだと口走るその姿を目にする度、私は悲しくなる。だから誰も、私に恋などしてくれるな。