本丸の東には眩しいくらいの朝日が当たっている。夜の方が落ち着く僕にはあまりに明るい光は、ぶつかるとくらくらしてくる。鳥の鳴かない、やけに静かな朝だった。だから縁の下からを歩くなにかの音も、はっきりと聞こえた。枯れ葉を踏みつける、四本足。
 ここに入ってこられる主以外の生き物なんてそういない。浦島さんのところの亀吉か、五虎退が連れる虎くらい。
 縁側がまぶしすぎたのもある。僕はするりと縁の下に入り込んだ。

 枯れ葉と、陽の当たらないところなのにかすかに芽生えようとしてる芽。それを白く柔らかな足で踏みつけている五虎退の虎が、金の眼で僕を見ていた。

「おいで」

 そう言っているのに、五虎退の虎は進んでいってしまう。僕は無心になってその虎を追って縁側の下を背を低くして進んだ。

「小狐丸、起きて。……狸寝入りはやめて」
「小狐だけに、ですか」

 ふたりの声が僕の頭の上を揺らして、びくんと肩を揺らしてしまった。僕が虎を追いかけてきた先は、主の部屋の真下だった。
 もっと驚いたのは主の部屋に小狐丸さんがいたこと。小狐丸さんの声の、からっぽさだ。

「顔くらいしかめてください。つまらぬ冗談です。私にはそれすらも望めないことも全て、承知の上ですが。……ぬしさま、ぬしさまの香りがします。何か仰ってください……」

 主と小狐丸さんに何かがあった。言ってることはいつもの調子なのに小狐丸さんの消えそうにか細い声が、そう僕に悟らせる。
 ようやく捕まえた五虎退の虎を僕は抱きしめた。言葉少ない主と、ひょっとしたら泣いているのではないかと思わせる小狐丸さんの様子が、なんだか、恐ろしくて。

「……行きなさい、小狐丸」
「それは、どこへ。溶炉ですか。それとも私を野生にお戻しなさいますか。炉の中をおすすめいたします。ぬしさまの小狐丸はなかなかにしぶとい故、野垂れ死ねとまできちんと仰っていただかないと、またいつ、ぬしさまの目の前に現れるか分かりません」
「何を言っているの」
「優しさは要りませぬ。昨晩私は血迷ってはおりましたが、それでも全てと泣き別れになることも飲み込んだ上で、ぬしさまを……」
「………」
「兎にも角にも。この愚かな私の息の根を、止めてはいただけませんか」

 小狐丸さんが冗談でもなく、しつこく罰を求めなければいけない何かを、しでかしたんだろうとは思う。けれど僕には何があったのか、分からない。

 これ以上、聞いてはいけないのかもしれない。僕は虎をしっかり握りしめたまま、出ていこうかと思ったが、先に主が会話を終わらせた。

「何を言っているの。今日の貴方は内番、手合わせよ」

 ややあって、「承知いたしました」という返し。小狐丸さんの大きな足が畳を、縁側を踏みしめ出ていく音が聞こえた。
 頭上の板が軋み、去っていく。ふたりの会話に、耳の感覚が鋭くなっているようだった。僕の心臓の音がざくざくと、嫌に大きく聞こえた。

 痛い、というかすかな声が聞こえて障子の滑る音がした。

「ねえ」

 息を詰める。見つかったのかと思って虎を強く抱きしめてしまう。けれどその声は僕に宛てたものではなかった。

「誰か。誰か、いる」

 問いかけに、僕は縁の下から頭を出してしまった。見ないふりできなかったのは、そのまま隠れて逃げ出さなかったのは、僕はやはりこのひとの元に馳せ参じた刀だからだ。

 僕は虎を、柔らかな毛並みを逃がしてから、主を見た。
 障子のかすかな隙間の中に、主はいた。乾いた唇。まだ眩しい朝のひかりは、くしゃくしゃになった髪の下にある主の瞳に吸い込まれて、反射をしない。

「小夜、申し訳ないけ、ど、今日は貴方にいろいろ言いつけることになる」
「……、うん。いいよ」

 主の具合は悪いのは明白だった。ところどころかすれる声。主は一寸も無い隙間の中にいるのに、濁る暗い眼が僕には見えた。

「今日、ここには誰も入れないで。気分が良くないの。……、まず部隊表の掲示を直してきてもらえる」
「うん、分かった」

 主に言われた通り、部隊表の木札を高いところにある札は蜻蛉切さんに手伝ってもらって直した。戻ると、部屋の中から聞こえてきたのはすすり泣きだった。
 そっと障子を開け入ると畳の上に、たった一枚を羽織った主がお腹をかかえうずくまっていた。

「大丈夫?」
「平気」
「お腹が痛いの」
「………」
「薬、貰ってくる」
「待って、小夜。薬はいらない。これは、傷みたいなものだから」

 お腹の傷、みたいなもの。はっきりとしない言い方だけれど、僕はその言葉を飲み込んでいた。部屋にかすかな、乾いた血のにおいがしているからだ。

「じゃあ、塗り薬?」
「そこの棚を。薬を入れている缶があるから、開けて、一番奥」

 言われた段を引くと、そこにはぎっしりと白い袋や粉薬を閉じこめた袋、錠剤の詰まった瓶が詰まっていた。一番奥に手をつっこんで、主の目の前に差し出す。言われた通りにしたと思ったけれど、主は首を振る。

「なんていう薬?」
「……、棚ごと持ってきて」

 主は、薬の名前は教えてくれなかった。箪笥から丸ごと引き抜いて主の手の届くところに置く。薬を飲むなら水がいるだろう。そう思って僕は立った。

 水差しを持って戻ると、主は薬を握りしめたまま、力が入らないのかぐったりと寝ていた。
 僕が立ち尽くしていると、うっすらと目を開ける。

「小夜、閉めて」

 眉間にしわが寄っている。僕の後ろにある光が忌々しいというような顔だった。

「ねえ、陽に当たろう」

 僕はそう得意じゃないど、このひとは、この人間は、もう少し明るい場所にいた方が良いと思えた。あたたかい場所にいて欲しい。寒く、凍えないでいてほしい。
 肩を揺すって、このひとの手を握って、上半身が起きあがれるように引っ張って、そして日向の方へとひく。と、ぼたっという音がした。主が声もなく涙を落としたのだ。でも主はその目か溢れるものをいっこうに拭おうとしない。流れるものは流れるまま、もしかしたら自分が泣いているということを分かっていないようにも見えた。

「どうしたの、何があったの」

 そう聞いても主の耳には届いていないみたいで、唯一、「小狐丸に、何かされたの」と聞いた時、小さく首を横に振っただけだった。
 こんな上体の主から離れられるわけがなくて、僕は手を伸ばして障子を閉めると、じっ、とそのひとの横にいた。慰めることを僕は上手にはできない。だからどうしたらいいか戸惑いながら、僕は膝を抱えそこにいた。


 どれくらい経っただろうか。大きく息を吐いて、吸う音。それから主はようやく頬に伝っていた涙を拭った。ほとんどはもう服に畳にしみこんでしまっていたけれど、それでもこのひとの手の甲をぐっしょり濡らすほどだった。

「小夜は、優しいね。心配をかけてごめんなさい」
「ううん」
「本当に、ごめんなさい。こんな、駄目な主でごめんなさい……」

 かすれた声でごめんなさいと繰り返しながら主を見上げると、主は笑っていた。眉を歪めながら鼻をすんと鳴らしながら、それでも目元を緩め笑っていた。目に溜まった水が瞼に押し出されまたぽろぽろっと畳を打った。
 一瞬で何を言ったら分からなくなった。僕は、このひとの笑んだところ、初めて見たかもしれない。障子を通り抜けてきた光が、細められた目の中で揺れていた。

「どうして僕に謝るの。あなたは、駄目じゃないよ……」

 主は口元を緩く結んだまま、首を横に振った。
 どうして謝るのか、どうしてあんなに泣いていたはずなのに今笑んでいるのか。分からないことだらけだけど、今僕の横にいるのは今までで一番優しく暖かい主に思えた。
 泣いたり笑ったりしている、そんな主の横にいるのが僕でいいのか分からない。だけど、このひとの感情の波を近い場所で感じられるのはじんわりと胸が膨らむような嬉しさがあった。

「小夜」

 まだ涙の気配がする声で名前を呼ばれた。何、と返事をする前に主は僕のこめかみに額を擦り寄せてきた。乱れた髪が擦れる感触があった。僕は、這い寄るこのひとの呼吸に飲み込まれていた。

「噛んでみても、いい?」

 言葉を理解する時間も、聞き返す間も無かった。じっとりとした主の手が僕の手を掴んで、口元へ引き寄せられる。左手の小指から中指がなま暖かく湿った口の中に入って、歯が立てられた。指先に、主の舌の感触があった。

「……っ」

 僕に噛みついたまま上目使いで僕を見た主。どんと突き飛ばし、僕は逃げ出した。





 左手に、噛まれた感触はまだ残っている。痛くは無かった。あんなことをされるとは、あのひとがあんなことをするとは思わなかった。驚いて逃げたけど、よく考えれば主は審神者であること以外は力の無いただの人間だ。きっとあのまま手を差し出しても何にも痛いことは無かったと思う。だけど、僕の脳天へ走っていった言葉があった。

 僕に、誰を見てるの。

 さっきまでは横で涙ながらに笑ってたことが、その横に僕がいることが、僕を嬉しくさせていた。だけど主が噛みつく相手は、きっと僕じゃなくても良かった。
 きゅうと胸が狭まる感覚。外の風はなま暖かい。だけど当たって、あのひとの舌に触れたなま暖かさをかき消すのには充分だった。
 部屋の中、うずくまっていた主みたいに、僕もお腹に泣き出すような痛みを覚えた時だった。

「小夜、どうしたんだい。思い詰めた顔をして」

 悠々とした声で話しかけてきたのは歌仙兼定だった。一度は何でもないと言った。けれど、相手が歌仙兼定だったから、少し沈黙が続けば僕は喋りだしていた。

「主に、会ってたんだ。主は、僕ら以外に大事な存在がいるんだね」
「小夜にそう言ったのかい」
「ううん……。だけど、分かるよ」

 ぬるりとした風。歌仙兼定がふう、と力を抜くように息をついた。

「彼女の好きなひとはね、彼女が自分より遙かに優秀だったと崇めた男のことだよ」
「………」
「彼女に仕えていた男だという話だが、精神性としてはその男は先生だったという。年上かな」
「そのひとは、どこにいるの」
「もう亡くなったそうだよ」

 じゃあ彼女が噛みついたのは、もういなくなった先生だったのかな。そうだったのかな。主より年上の男なら、僕は似ても似つかない。やっぱりそこにいるなら誰でも良かった。
 あの部屋に入ってしまってから、お腹を抱えた主を見つけてから、僕のまとわりつく水っぽさがある。それはついに僕の中に入り込んだ。胸の下、そこにじっとりと、もう取り返しのつかない悲しさがすまわっている。