思い返すと、ランドセルを何色にしようか迷っていると親に打ち明けた時、あなたは審神者になるんだから小学校には行かなくて良いのよと言われたのは衝撃だった。しかも親は、私が小学生になれないことがまるでポジティブで幸運な出来事であるかのように言うのだ。審神者になれるんだもの小学生なんて目じゃないわ、ランドセルの色について悩みが消えて良かったわね、と言う風に。
 7歳の春先、ランドセルの代わりに私の目の間に並べられたのは五振りの刀だった。

『さあ、。選びなさい』

 お母さんは優しく告げた。

『あなたの初期刀はどれが良いの』

 耳には外で葉が柔らかい風に吹かれ揺れる音があり、私は親の目を伺いながら、おそるおそる刀たちに目を向けたのを覚えている。
 審神者になるということは何度も言い聞かされていた。けれど、実際に付喪神の思いが眠る刀剣と向き合ったのはその時が初めてで、私は何よりも、親に正解だ、よくやったと誉められる答えを探していたように思う。
 私は刀剣ではなく、親の顔色を見ていた。

 自分の好みや、自分にとっての正解じゃなく、両親が喜ぶ刀剣は、どれ?

 その時だった。
 屋敷の外がぴしゃん、と割れた、かのような音が鳴った。突然の雷だった。さっきまでは晴れていたはずなのに、すぐそこに落ちたと思わせる轟音だった。そして雷とほぼ同時にどしゃぶりが屋敷を襲った。まるで空から大量の木の棒を落としたみたいな雨とは思えない質量を持った音が全てを打ち鳴らしていた。

 7歳の私はその雷一発ですっかり驚き怖くなっていたところへ、二発目の雷。

 いや、こわい!

 そう声を上げたと同時に体が勝手に動いて、私は一振りの刀、その鞘を抱きしめていた。
 ただ怖くてどれが誰かなんて分かっていなかった。けれど、気づけば私の手の中に、陸奥守吉行がいた。

『わしゃあ、陸奥守吉行。こげなとこに来たがやき、世界を掴むぜよ』

 彼は私の前に姿を現すなり、一言そう挨拶すると震える私の手を取った。

『おまさん、大丈夫か? 安心せい。ただの雷じゃ』

 彼の方を向くと、彼の向こうに外の景色が見えた。あんなに酷い雷、酷い雨が降ったというのに、外は太陽が覗いていて、空から降る雨粒全てに光を与えていた。
 陸奥守吉行ことむっちゃんは、太陽ときらきらひかる天気雨を背負って、私の前に現れた。


 思い返せば思い返すほど、むっちゃんは私の兄だった。
 7歳で出会った私は、むっちゃんをお兄ちゃん以外の存在に当てはめることができなかった、とも言える。ふたりが心地良い距離感でいて楽しく過ごすためには、私が妹になり、むっちゃんが兄という役割をこなすのが一番楽だったのだ。

 だけどね、むっちゃん。私たち、少なくとも私は兄妹なんかじゃ終われない。





 孤独だと思ってしまうくらい全てが寝静まる早朝に、私は目を覚ました。慣れない時間帯の覚醒にまだ眠気は残っている。が、達成感ににんまりとしてしまう。
 昨夜願った通りの、誰よりも早い起床が、できた。嬉しさに震え上がりながら、部屋から抜け出す。

 歩くひとのいない本丸を一番に歩き、布巾で机を拭いて、仕事を開始する。そして手を動かしながら、誰かが早起きの私を見つけてくれるのを待った。

 少しして、やっと起きてきたむっちゃんの視線を浴びて、わたしはにやつきが止まらない。

「どうしたが、……」

 彼の犬歯がよく見える、むっちゃんのぽかんとした、でも驚いた顔。そんな顔を見せてくれるんじゃないかと思っていた。彼は本当にこういった期待を裏切らない。
 私は彼に得意げに言う。

「いつもの仕事はもう終わらせましたから!」
「お、おお……!」
「ど、どうよ」

 嬉しさが押さえきれない声になってしまっているのに、むっちゃんの目は輝いたまんまわたしを見ている。

「たまげたぜよ……」
「良かった!」

 ガッツポーズで立ち上がる。そのままぴょんぴょんと部屋を飛び回る。私のテンションの高さが彼に少しうつったらしくて、むっちゃんも思わずといった様子で笑っている。

「ほがーに喜ぶことか?」
「嬉しいに決まってるよー! むっちゃんを驚かせたくて早起きしたんだし! どうどう? 私も成長してるんだから」
「そりゃあ見れば分かるけれどなあ」
「見た目もそうだけど、中身だよ、中身。大人になったなあって思いません?」

 私は絶好調だった。願った通りの早起きを決めて、むっちゃんが起きる前にいつもの仕事を自分で終わらせた。それをむっちゃんは驚いて、喜んでくれて、ここまでは全てが思い通りだった。
 なのにむっちゃんは私の言葉に苦笑いを返した。

「大人と言うたちなあ。生まれて10年そこらの娘に言われても」
「それは、そうなんだけど……」

 幼い頃から一緒にいたせいか、私は陸奥守吉行のことを時々付喪神と、人間じゃない存在だと思うことができない。
 ずっと一緒にいたのに、生命の根幹が違うほど遠い存在なわけがない。どうしてもその考えが抜けないのだ。

 急に現実を告げられて、栓の抜けた風船みたいに嬉しかった気持ちが抜けていく。私は脱力してそのまま畳に寝転がった。

? どうした?」
「あーもう、せっかく良い感じだったのに。むっちゃんのばか」

 静まってしまった私の部屋。わたしはふてくされて目を瞑ると、暗闇の中でむっちゃんの吹き出す音が聞こえた。そのままこらえきれないと肩を震わせ、ついに彼らしい「がっはっはっは」という声を上げて笑い出した。

「もう、なにー……?」

 私は落ち込んでいるというのに。うっすらと目を開けると、むっちゃんはやっぱり大きな口を開けて笑っている。

「いや、があんまりにも楽しそうやき」
「楽しかったけど? さっきまではね」
「すまんすまん。けど最近のおんしゃーずっと笑顔やけど、さっきのは一等の笑顔じゃったね」

 ぬか喜びだったけどね。心の中でそう言い返す。直接口に出さなかったのは、むっちゃんが「、楽しそうだ」と言う時の顔が、安堵している様子だったからだ。

「うん、楽しいよ。安心してよ、反抗期は終わりましたから」
「よお考えてること分かったなぁ」
「分かりまーす」
「あの時は審神者はやめるとゆうし、家とは絶縁しなんかも言い出して一体どうなるがかと」

 むっちゃんの言ったことは全て本当のことだ。7歳から審神者として生きて、わたしはある意味順調に思春期と反抗期を迎えた。

「本丸が嫌いだって言ったこともあったよね……」
「ああ。いやはや、家出された日にゃ……。今でも思い出すと肝が冷えるのぅ……」
「ご心配おかけしました……」

 当時はとにかく私の全てが本丸にある、今まで生きてきた意味も私という人間の価値も本丸という空間に閉じこめられ、そしてここで終わってしまう。それ嫌で仕方がなかった。

 私は私だ。私の人生は私のものだという感覚。と同時にぶつかってくるのは現実と無力感。
 とにかく毎日が苛立ちばかりで私はその時一番近くにいることの多かった彼に、たくさんの酷い行い、酷い言葉をぶつけたりもした。
 なのに、むっちゃんは今も私の側にいて、近侍も変わらず続けてくれている。

「随分遠くまで来ちゃったなぁって気もするけど、今が楽しいのはむっちゃんのおかげだよ」
「そんなら良かったぜよ」

 結局私は、審神者であるという私の運命を変えることはできなかった。それをあまり悲しいことと思わずに済むのはやっぱり、彼がいてくれたからなのだ。

「いっぱい迷惑かけてごめんね。本当に、ごめん」
「いや。感情をぶつけてくれたことが嬉しかったぜよ
。おんしが一人で全てを抱え込んで、何も言われんよりずっと良い。ありゃあがわしを頼りにしてた証拠やきな」
「さすがのむっちゃんだね……、言うことが大きい」
「んふふ、誉められると照れるのぅ」

 照れながらも、分かりやすく幸せそうに顔を緩ませる彼に私も気が緩む。陸奥守吉行は、こういうところがいつまで経っても可愛い兄貴分である。

「むっちゃんは、今って、楽しい? 戦いは大変だと思うけど、楽しいこともちゃんと存在してる?」
「楽しくなきゃあにこんな笑いっぱなしにさせられちゃーせん」
「笑いっぱなし?」
「そうじゃ」
「それなら、良かった……」

 彼が楽しいと言ってくれるだけで、なんだか全ての物事が良かったかのように思えてくるから不思議だ。それこそ7歳の私を二発で泣かせるくらい恐ろしかった雷だって、必然だと思える。五振りの刀から陸奥守吉行を手に取る。そんな運命を形づくった必然の雷だった、と。

「ふあぁ……。安心したら眠くなってきた……」
「早起きしたからじゃろうな」
「いやいや。これくらい余裕ですから」
「目が眠いってゆうとるわ」
「そんなこと……、うんやっぱだめかも」

 この眠さは後々の仕事に影響を及ぼす眠さだ。私は早々に白旗を上げて、私は彼の手を引っ張った。陸奥守吉行を枕にするために、だ。

「10分だけ寝る」

 私の横に座らせて、彼の腿に頭を乗っける。男の太ももだから堅いのだけど、不思議な安心感がある。

 こういう甘えたことをしても、むっちゃんは何も言わない。受け入れられているのは嬉しいけれど、少しくらい恥ずかしがってくれても良いのに。
 だけどむっちゃんは、そういった色恋沙汰には何も気づかない。それどころか私が寝ている間に鉄砲の整備でもするのだろう、懐から銃を取り出していじり始めている。
 膝の上から彼をじっと見上げて熱視線を送ったというのに、「10分で良いのか」とか言うのだから、道のりはまだ長いなあと思う。

「むっちゃーん」
「おう、なんじゃ」
「わたし、むっちゃんが好き、大好き」

 唐突にそう告げて、私ってやっぱり性格が悪いんだろうなと思う。むっちゃんに通じないと分かっているから、こんな言葉を口にできるのだ。

「これからも私、ずっとむっちゃんがいてくれるって思って、良いよね?」
「ああ」
「良かった……。もうずっと、いつまで経っても一緒にいよ……」
「望むところじゃ」

 むっちゃんも一緒にいたいと思ってくれてる。それだけで幸せな気持ちになれる。

「嬉しい……。わたし、100年先まで……ううんもっと長生きするね……ふあ……」

 止まらないあくび。本格的に目が開けていられなくなって、瞼を閉じたままそう伝える。
 ああ眠りがやってくる。抵抗しないで眠ってしまおう。体から力が抜けきった瞬間だった。
 むっちゃんが、陸奥守吉行が、つぶやいた。
 太ももの上におられると頭を撫でることしか出来んのう……、と。

 ねえそれってどういう意味?
 興味はあったのだけれど、わたしはもう手遅れだ。慣れないことはするものじゃないなという反省と共に、額にぽかぽかと暖かいものを感じながら夢の中へと旅立つしかないのだった。