オーリーの花の色


 幸せだな、と思う。朝起きて、二人で洗面台の前に並ぶのは。上手く繕うことができない朝のだらしなさが、私としては恥ずかしくて、でもダンデのそういう隙を見られるのは妙に幸せな気分になるのだ。
 子供の頃はこういうこともあった。家が近いから夜遅くまで遊ぶこともあったし、その上で親の同意のもと、相手の家にお泊まりさせてもらうこともたまにはあったのだ。
 あの頃の楽しさと、今大人になったダンデと迎える朝は全く違う。
 ダンデでも眠気でぼーっとすることがあるんだなと思ったり、長くなった髪でもこんな方向に寝癖をつけることもあるのかと教えられたり。そしてそれらは可愛さを醸し出して、私の胸をくすぐるのだった。

 あ、喉からこぼれ出そうになる。ダンデへの気持ちが。

「ダンデ」
「ん? ああ、すまない」

 上の棚にしまってあった新しいタオルを渡された。ただし手渡しじゃなく、顔面に直接押し付けられたので「うぶっ」と潰れた声が出た。
 何するのと声をあげそうになったが、いたずらが成功したダンデが歯を見せてそれはそれは楽しそうに笑っているので、私は何も言えなくなってしまった。もちろん、ときめきのせいで。

 ダンデとの生活は端的に言えば、上手く行っている、のだと思う。
 私が朝食の飲み物を用意して、その間にダンデは焼きたてのトーストをお皿へと移す。私がカトラリーを並べてる間にダンデはポケモンたちの食事を用意する。そしてお互いが向かい合って椅子に座る。

「食べよう」
「うん」

 テーブルに朝食が揃うタイミングはぴったり同時で、小さなミラクルに私はまたも舞い上がりそうになった。

 ダンデが好きという気持ちなら、何度となく確認してきた。というよりも、消えたと思ったら現れて、そこにあると思うと分からなくなる。ダンデへの気持ちは何度も私を翻弄してきて自覚せざるを得なかった、というのが事実だ。
 だけど彼と暮らすことがここまでの幸せをもたらすとは。

 なんで、別の人で我慢できるなんて思ってたのだろう。花屋のあいつも良いやつではあったが、今となっては不思議である。あいつ、元気にしてるかな? お互い嫌いにならない距離で何年も付き合えたのだから、相性はそんなに悪くなかったのだ。
 二人共が行き遅れになったらまた合流してもいいかな、なんて考えていたところ、むに、と頬を摘まれた。ダンデの肉厚の指が私の頬をやわく引っ張って、ダンデの方を向かせる。

「な、なに?」
「いや? こっちを向かないかと思ってな」
「じゃあ普通に呼んでよ」
「考え事してただろう。なに考えてたんだ?」
「それは……、ひみつ」

 脳内にいた、人の良い笑顔を振り払う。ダンデが目の前にいるのに、ほかの男のことを考えるなんて我ながら贅沢が過ぎたな。私は償うようにダンデのグラスに水を継ぎ足した。

、今日の予定は? どこか出かけるのか?」
「またソニアから探して欲しい文献があるってヘルプ依頼来てるから、図書館に行く予定。夕方には帰るかな」
「そうか」

 シュートシティに来たばかりの私にはまだ友人もいなければ、仕事もない。とりあえず引っ越したばかりなのでシュートシティの探索がてら生活用品を買い足したりして過ごしているが、それ以外にすべきことも無い。
 それをソニアには見透かされ、私はソニア指定の本を買ったり、借りたりなどをして彼女の研究手伝いとなっている。
 多分、ソニアが気遣ってくれている部分もあるのだろう。実際何かやることがある方が、新しい場所での生活は気が紛れてくれた。

 二人でお皿を下げて、時間内で洗えるものはさっと洗って。カバンの中身を確認して、電気や戸締りをチェックすれば、すっかり着替え身支度を済ませたダンデが玄関で私を待っている。駆け足で玄関にたどり着けば、ダンデの手によって開かれたドアから、私は実にスムーズに外へと出た。
 うん、良い晴れの日。空を見上げていれば隣にダンデが立った。ダンデはバトルタワーの方へ、私が向かうのは反対方向だ。

「じゃあね」
「ああ」

 いってらっしゃいといってきますでは無い。送る側じゃなく、送られる側でもなく、二人で出発して二人で同じ部屋へと帰ってくる。これってやっぱり、すごいことだ。胸が膨らむ。ついでに顔もにやけそうになるけれどそれは必死にこらえてると、かた、とボールが揺れた。どうやら外に出たいらしい。ボールを投げると、シュートシティのアスファルトに蹄の音がなってウールーが現れた。
 ボールから出るなり私の足に額を擦り付け甘えてくる。
 今日も今日とてあまえんぼなこの子は、農場でお世話をしていたウールーたちのうちの一匹だ。私のポケモンではない。家でお世話しているポケモンだと思っていたのだけれどハロンを発つ間際、母に「この子だけは連れていってあげたら?」と言われたのだ。

『まぁ、確かにこの子は一番あまえんぼだし、人間好きなウールーだけど……。いいの?』
『この子は人間が好きなんじゃないのよ、のことが大好きなの』

 その言葉には私もぐっときて、胸が詰まってしまった。当のウールーからもうるうるとした目で見つめられ、負けてしまい、私のポケモンとして連れて来てしまった。
 たくさんのウールーがいるけれど、それは皆でお世話をしているポケモンだった。この子が正真正銘、初めての私のポケモンだ。

「ウールー、今日も一緒に歩く?」

 返事の鳴き声は甘く、そして喜びに満ちている。

「じゃあ、行こう」

 そして私は軽やかな蹄の音とともに歩き出したのだった。



 ソニアに言い渡された文献を探し出して借りたり、借りられない文献はコピーをもらったりして、私は昼過ぎまで図書館で過ごした。そのあとは買ったサンドイッチをベンチでウールーとつまんだ。腹ごしらえを終えたあと、路地裏に見つけたおしゃれなカフェを横目に帰ってきた。一人で入るにはちょっと勇気が足りないのでダンデのこと、誘えたら誘おうと思いながら。
 ダンデのことを誘うにもまた、勇気が必要なのだけれど。

 まだダンデはバトルタワーで仕事中のようだ。今日はよく歩いた。ウールー共々静かな部屋で一息入れているとスマホが鳴る。
 電話を取るとお気に入りのカップを片手にしたソニアが映し出された。

?』
「あ、ソニア。ちょうどよかった。今日言われてたの、取り揃えたんだよ」
『本当? さっすが、有能じゃん!』
「いや、探して見つけるだけだし。ソニアの研究は大変だねぇ、どれもこれも古い文献ばっかりで」
『んー? 目が慣れてくれば全然読めるわよ』
「これで良いんだよね」

 カメラを借りてきた本たちに向けて表紙を軽く映す。

『それそれ! あ、ちょっとだけ中身見せてくれない? ちょうど確認したいことがあって』
「もちろんいいよ。どれ?」
『まず目次見せてもらっていい?』
「はいはい」

 ソニアの言う通りに本を開いて中身を映してあげる。私にはよくわからないけど、スピーカーからふんふんと興奮気味の息遣いが聞こえてくる。一向カメラ役になるのは構わないけれど、これはこの本たちを早く彼女の元に届けてあげなきゃという気持ちになった。

『ありがとう、! ずっと気になってたところを確認できてスッキリした! 明日にでも飛んで行くわ!』
「明日ね? 了解」

 アーマーガアタクシーで文字通りひとっ飛び、駆けつけてくれるのだろう。明日、ソニアに会えると思うとそれだけで気持ちが上向きになる。

『……ねえ、もしかしなくても今、家にいるのよね?』
「うん。今帰ってきたばっかり」

 こんな感じの場所で住んでいるよと説明するつもりでスマホのカメラを軽く部屋中にまわす。この部屋、窓からの景色がいいんだよなとベランダの方も映す。てっきり、いい部屋じゃない!とか言われるものと思ったけれど、ソニアが期待していたのとは違った声をあげる。

『ちょっといいの!? 家の中写して……』
「え、いいんじゃない? まあまだ色々揃ってないものが多いけど」
『そうじゃなくて』

 画面がを見るとソニアのニヤニヤ顔が映っていた。ああ、ソニアってば、常々輝いて見えるような美人なのに。もったいないくらいの親父っぽい笑みが画面に浮かんでいる。まあそういう、表情豊かなのがソニアのいいところなんだけど。

『なーんだ、その様子じゃ色っぽいことは何も起きてないのね』
「色っぽいって……」

 逆に背中を押してくれたソニアに申し訳ないくらい、私は前に進めていない。

「ダンデはそういうのあまり興味ないみたい。かなり忙しそうにしてるし」
『ンなわけないって!ガマンしてるのよ、あんたに嫌われるのを恐れて』
「そんなわけある?」

 私がダンデのこと、嫌うわけないのに。それは本人に知られたら呆れられてしまいそうな事実だ。

『本気で進展なしってわけね……。一緒に住んでいるのに? おかしくない?』
「告白はするよ、したいと思ってる」
『今度はちゃんとする?』
「私はしようとしてるんだって。だけど、上手く言えないんだけど……。逃げられてる気がする」

 ダンデの気持ちがわからない部分もあるので言い切れない。けれど今朝も同じだった。口からこぼれ出そうになった告白は、ダンデにタオルを顔面に押し付けられてかき消えてしまったのだ。
 日々の中でも、私がいざ気持ちを打ち明けん! と真剣な顔をすると、ダンデがその場からいなくなっていたり、別の話題を持ちかけられたり。
 気のせいかもしれない。けれど実際に何度かはダンデの側からタイミングを外されてしまっていた。

『あー、なんか。わかるかも』
「ほんと!? 気のせいだって笑われると思ってた……」
『目に浮かぶわぁ』
「ソニアすごいなぁ」
『でも、絶対大丈夫だから。自信持って。ね?』
「うーん、それはなかなか難しいけど……。でも告白はする、するよ」
『その意気だよ、!』
「自己満足になっちゃうかもしれないけど、する。なんて言おうかも、まだ決まってないけどね」

 軽くさらりと言うべきか。でもさらっと言おうとしても、にわかに体や唇がこわばって、上手く言えなくなってしまうのだ。多分変な顔になってる気がする。
 もちろん想ってきた期間の分、真剣に思いの丈をぶちまけたい気持ちもある。私が男だったら迷わず大きな花束を買ってひざまづいて告白したいくらいだ。けれどそれで重いと引かれたら辛い、辛すぎる。あ、想像だけで傷ついてきた。

「もし、ダメだったら、ハロンタウンに戻ることになると思う。その時は慰めてよね」
『慰める準備なんてするわけないでしょ! なら100パーセント、大丈夫だって! わたしが保証する!』
「ありがとう、ソニア」

 今はソニアの優しさを、バカになって信じてしまいたいな。そう思うあたり、私はまだ臆病者から抜け出せていないみたいだ。
 何よりも、毎日の幸せが私の決心を鈍らせる。

 私がこの重たい気持ちの一端をぶつけたとき、ダンデは一体どんな顔を見せてくれるんだろうか。正直、私には全く予想がつかない。
 10年ぶりに二人でベッドで寝そべった、あの夜が期待の最高潮だった。だけどそれ以降、一緒に住んでても、決定的な色っぽいことはない、何もないのだ。そしてダンデにはぐらかされるたびに私の自信はゆっくりと下降を続けている。

、うしろうしろ!』
「え?」

 辛さがせり上がってきて、胸を詰まらせていたところを、ソニアの声で呼び戻される。うしろ、と言われ振り返ると、部屋の暗がりにダンデが立っていた。

「あれ、え、ダンデ!?」

 時計を見れば確かにダンデが帰ってきてもいい時間だ。ソニアに文献を見せたり話しているうちに、思った以上の時間が過ぎ去っていた。

、それじゃあね!』
「ごめんね、また明日」
『いいって、いいって! あ、明日忙しかったらわたしは全然気にしないから!』

 ソニアにごめんと断りを入れると、あっちの方から通信が切れた。暗くなった画面に映るのは、顔がこわばりまくってる私自身だ。ダンデ、今の電話の内容、絶対聞いていたよね。

「帰ってきてたんだね、気づかなかったよ〜!」

 やばい。目が泳ぐ。というか声も明るすぎてかなり不自然になってしまった。

「窓から帰って来たんだ。今日は早く帰りたくなって。空からリザードンに乗せてもらえば迷わないからな」
「なるほど! だからドアの音がしなかったのか……」
「うわっ」
「だ、大丈夫?」

 バサバサっと床に散らばる紙。後ずさったダンデが、私がチェスト上に無造作に積み上げていた手紙やチラシを落としてしまったのだ。
 珍しい。ダンデが目測を外すなんて。だけどわたしは今の会話をダンデに聞かれていたんじゃないかとそればっかりが気になって、ダンデへの違和感を拾い切ることはできなかった。