藍鉄色の章(前編)
昼過ぎに目を閉じて、幾らかうとうとする瞬間はあったものの、結局私は眠ることができなかった。寝ずの見張り番に備える時には普段ならもう少し眠れるのだが、今宵はどうしてもざわついてしまう。
宴の夜は必ず、セキさんは浴びるようにお酒を飲んで、酔っ払うから。
目を閉じていただけでもいくらかは休まった体を引き連れて、私は集落を見下ろせる高台へと向かった。登り切るとヨネさんとゴンベが寄り添うように立っていた。
「ヨネさん、お疲れ様です。見張り、代わります」
「ああ、ありがとうね」
今夜はなかなか冷えそうだ。ヨネさんの凛々しい鼻筋の先に、可愛らしい朱色が足されている。にやけそうになった私の頬をたしなめるように北風が吹きすさんで、思わず身を縮こませた。
「うう……、昨日の雨のせいでやっぱり風が冷たいですね」
「しょうがない。この湿地には時々参るけど、でも恵みの雨だからね。はい、」
名前を呼ばれてヨネさんを見ると、ふわりと柔らかいものが目の前をかすめる。
さっきまでヨネさんの首元を守っていた襟巻きだ。ヨネさんの体温を残しているそれが、ヨネさんの手によって首元に巻きついて、私の鼻もしっかりと覆った。
「使いな。今夜は特に寒くなるよ」
「いいんですか? ありがとうございます……」
襟巻きが二重になった。見た目は悪いかもしれないが下は首元を隙間なく詰めてくれ、上では鼻までカバーできる。暖かさが大分違う。もうヨネさんの分の襟巻きはもう手放せそうにないので、このままありがたく借りることにした。
「あんたこそ、本当にいいのかい? なんだか前回もみんなが飲み食いしてるって時に、が見張り番してた覚えがあるけど……」
「あー、まあそうですね」
「やっぱり。そういうことはしっかり言いな。今から他の誰かに代わってもらうかい?」
「いいんです、いいんです! 私が希望してのことなので!」
「でも、今夜は宴だよ?」
そう今夜は宴だ。朝からはコンゴウ団のみんなでシンオウさまへの感謝を捧げる神事を行い、それが無事終わったことを祝う特別な宴会だ。
厳しいヒスイでの生活の中、みんなが待ち望んでいた夜の祭り。蓄えていた食料や美味しいお酒を持ち寄って、きっと飲みの席は大いに盛り上がることだろう。
でもそんな席だからこそ、私は今夜は外で一人でいたいのだ。
「ヨネさん、お気遣いありがとうございます。でも私、お酒あんまり美味しいって思えないんです。ああいう場で気が利いたことも言えないので……。こうやってのんびりヤミカラスと見張りしてる方が気楽なんです」
ね、と首を傾けた方角には、私の相棒ヤミカラスがもう夜闇に溶け込み始めている。ちょっと目を話すといたずらもするが、夜の見張り番には私のヤミカラスは強い味方だ。
「そうかい? ……まさか、まだ気を遣ったりしてるんじゃないだろうね?」
ヨネさんが目を鋭く細める。
「あんたをもうよそ者だと思ってる奴なんて、このコンゴウ団にはいないよ」
私は意識的に口端を横へと引っ張る。ヨネさんの言う通り。私は元よそ者の、捨て子だ。親の顔もふるさともわからない。物心がついた頃には旅の商人と一緒に暮らしていたが、その人も私の血縁ではないという。
その商人はギンナン商会とは関わりは薄かったようで、個人で商いを行なっていたようだ。だから何かの縁で私を拾ったはいいものの、一人ではお守りまで手が回らなくなったのだろう。
何回目かのコンゴウ集落訪問の際、私はそのまま置いて行かれることになった。私がポケモンのヤミカラスと偶然にも心通わせているから、里でも働ける、必ず役に立つとうまいこと言われ、さらにいくつかの品々を抱き合わせられ、この里に預けられたのだそうだ。
両親のことは何もわからない。私をこのコンゴウ集落に預けたというその商人も、以来姿を見せず、連絡の取りようもない。身寄りのない私に食事と眠る場所を分け与え、役割まで与えてくれたのがコンゴウ団だった。
「大丈夫ですよ。皆さんが暖かく接してくれていることは常々感じてます」
「本当かい? リーダーだって、あんたをすごく気に入ってるし」
「あは、ははは……」
そこのとこはどうかなぁ、という返事を飲み込んで私はヨネさんの背中を押した。
「大丈夫です。本当に、気遣いなんかじゃなくて、むしろ自分が楽だから率先して見張りしてるだけなんです。ヨネさんこそ、私のこと変に気にしすぎてると今夜が楽しめませんよ」
もうすぐ宴は始まろうとしている。みんなから頼られているヨネさんだから、彼女を待っている人もいるだろう。
ヨネさんも今夜の宴を楽しみにしていたのだろう。分かったという様に肩を落とすと、もう一度隙間がない様に私の襟巻きを直してくれた。
「じゃあ、ありがたく行かせてもらうよ。料理は少しのために残しておいてもらうし、あとで届けさせるから」
「ありがとうございます。ほら、ヨネさん。ゴンベも早く行きたそうですよ。楽しんで来てくださいね!」
「……わかったよ」
ヨネさんとゴンベの影が小さくなって、集落で一番大きな家へと吸い込まれていった。すでに乾杯のあとだろうか。セキさんが皆の息災を喜び、コンゴウ団の心を一つにする話なんかを、しているところだろうか。
過去に見て来た光景を組み合わせ、明かりの中の賑わいに想像を巡らせる。
ヨネさんに言ったことは嘘じゃない。私にはお酒の良さがわからないし、もし今からでも宴の席に出たら気を張り巡らせてばかりで楽しいより疲れが勝りそうだ。
だけど。前まで出させてもらった宴は嫌いじゃなかったな。そんなことを思い出しながら、私は夜の暗さに目を慣らしていく。
宴は、嫌いではなかった。騒がしいし、羽目を外した男衆に眉をしかめたこともある。なので張り切って好きだというほどでもないが、皆が笑っている楽しげな席ならば、なんだか許せてしまう。それが私にとっての宴の場だった。
昔はよく、何もわからないままの私をセキさんが引っ張って、横に座らせてくれたっけ。セキさんがキャプテンや団員たちと真剣に話をしている時だけは私も別のところへと席を変えたけれど、それでも話が終わるとセキさんはすぐ隣に呼び戻すか、向こうから盃と一緒に移動して来ては、また横に座ってくれたりしてくれた。
吐く息にかぐわしい香りを混ぜたセキさんは、ちょっと赤くなった目尻で聞いてくるのだ。
『、楽しんでいるか?』
周りのみんなが、何よりもあなたが楽しそうだから私も楽しい。それだけのささやかな喜びなのだけれど、私がうん、と頷くとセキさんは目尻をますます蕩けさせるように笑む。そんな宴の夜は、私も嫌いじゃなかった。
一回だけ、二人して酔っ払った時があった。いつも通り、長である証だと言わんばかりにぐいぐい飲んだあとのセキさんに、お前もそろそろ飲んでみろ、と言われて私は初めて杯に口をつけたのだ。
初めて飲んだお酒。美味しさはよくわからなかった。だけどかぐわしい香りだけは嫌じゃなくて、辛さの混じる味を堪えて飲み干せば、胃の中がぽっと暖かくなる心地がした。
戸惑いはあった。だけどセキさんと話しながらだと、気づけばちびちびと口をつけている私がいた。不思議な飲み物だなぁ、みんなはこれが好きなのかとぼんやり考えていたのに、暖かい感触はいつの間にか指先に、顔まわりに回って、しっかり私は酔わせられてしまった。
目の奥がふわふわしていた。不意に立つと足元がふらついた。セキさんがすかさず手を伸ばして、抱きとめてくれた。
『大丈夫か?』
『す、すみまへん……』
どうにも足に力が入らない感覚がおかしくって、私はふにゃふにゃ笑っていた。迷惑をかけちゃってるなぁとふにゃふにゃ笑いのまま、セキさんの腕から抜け出そうとした。だけど彼も酔っていたのだろう。ぐう、と腕に力が入って、あの香りつきの息が耳の裏をさすった。
『お前、あったかいなぁ……。このまま抱いて、寝ちまいたい……』
ばくん、と突き上げるような胸の痛みだった。ああまずい。そう思うのに、セキさんは私の首に肌を擦り付けて来る。しだれかかって来る重みと、セキさんの鮮やかに伸びた髪。背骨に、彼の首飾りの感触がある。一度胸を突き上げた痛みは、今度は胸の奥で乱れ打ちになって、私を物言えなくした。
喉の奥から何かが飛び出しそうなのを堪えている間も、セキさんは私への頬ずりをやめない。
本当にどうにかなってしまう、このままじゃいつもと違うセキさんの呼吸に飲まれてしまう。抜け出さなきゃという想いが切に迫ってきて、私はもがくも、セキさんの腕は振りほどけない。
『っ助けてススキさん! セキさん酔っ払って、寝ちゃいそう……』
そんな咄嗟の声をあげることによって、私はセキさんの腕から逃げ出すことができたのだった。