藍鉄色の章(後編)
物思いにふけっていた私を、ヤミカラスの鳴き声が呼び戻す。ヤミカラスの赤い目が見据える方へ意識を研ぎ澄ますと、何かが高台へと近づく物音がした。
息は潜められておらず、ざくざくとした足音からしても誰か集落の人だろう。そう踏んでいるとぬっと闇から出て、松明の火に照らされたのは、寒空の下でずっと記憶でなぞり返していた顔だった。
「セキさん……」
「お疲れさん。どうだ、異変はないか」
「変わりはありません。ポケモンたちはいつもの縄張りにいます」
「そうか。寒い中、ご苦労」
右手を突き出すいつもの仕草。ただやはり、随分酔っ払っているようだ。笑った口元にはいつもより茶目っ気があって、目にとろんとした色っぽさが灯っている。
「ほら、料理もらって来てやった」
「あ、ありがとうございます」
手渡されたのは蓋つきのお椀だ。どうやらセキさん自ら、差し入れを持って来てくれたらしい。ヨネさんが言ってたように、今夜の料理を取り分けておいてくれたのだろう。私はお椀を倒さないよう、岩陰に置く。あとでお腹が空いた時夜食にしよう。
お椀を置いてから顔を上げ、私はぎょっとしてしまった。料理を届け終わって直ぐ様帰るかと思ったセキさんが、その場にしっかり座り込んでいたからだ。
「セキさん、なんで座ってるんですか?」
「少し酔いを冷まそうと思ってな」
「まだ皆さん盛り上がってるところですよね? 団長が席を外しちゃだめじゃないですか……」
「大丈夫だって。むしろ行ってこいだとよ。まあそれも癪に触るっちゃ触るがな」
「ええ……」
コンゴウ団の長であり、皆の中心であるセキさんは今夜一番、ここにいたらいけない人だ。
ふさわしい場所へと早く帰って欲しいと思う。だけど私があからさまに戸惑っても、セキさんは動く気配がない。仕方がない。私は諦めに肩を落としつつ、二重になっていた襟巻きを外し、片方を団長の首に巻いてあげる。
「なんだこれは」
「交代の時にヨネさんが貸してくれたんです」
「ヨネのかよ」
「そんな薄着で来るセキさんの方が心配です。ヨネさんのおかげで助かりました。つけててください」
はぁ、とセキさんが深いため息がつく。冷え込みは厳しくなる一方だが、外で助かったと思った。屋内よりずっと風が強いので、彼のかぐわしさの混じった息を感じずに済むからだ。
「どうです、みなさん盛り上がってますか」
「ああ、やっぱり全員が揃ってるだけでも気分が明るくなるよな。……しっかし、寒いな」
「でも、今夜の星は一等綺麗です」
白くくゆる息を吐きながら私は空を見上げた。
夜が更けるごとに、空は高く遠くなる。一方で小さな金剛石のような光たちは硬さを増して輝いていた。
「神事の日って、昼も夜も必ず空が澄み渡りますよね。本当に綺麗で、私、この星全部がシンオウさまの眼差しなんじゃないかと思ってしまいます」
「シンオウさまの眼差し、か」
「いずれにしろ、大いなる力を感じます」
言いながら私はさっき岩陰においたお椀をこっそり取り出した。どんなお料理が出たんだろう。昨晩から子供たちが手伝っていた料理も上手にできただろうか。気になってそっとお椀の蓋をあけると、今宵にふさわしい数々の料理が詰め合わされていて、思わず胸が踊ってしまった。
特別な料理に目を輝かせていると、セキさんが私に向けて小さな酒瓶をチラつかせる。
「こっちは?」
「やめてください。私は飲めませんよ、見張りなんですし」
「勿体無いなぁ。今年のはまた格別な美味い酒なんだが」
「じゃあ余すことなくセキさんが飲んでください」
「ちょっとだけでも飲まないか? 体が温まる」
「……すみません」
集落の長の誘いだ。しかも相手がお酌までしようとしてくれている。それを断るのはセキさん相手じゃなければ到底ありえないような返事だとわかっている。だけど私はセキさんの前で二度と酔っ払うことはしたくなかった。
私は精一杯の申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「ここで飲んだら、降りるときに足を滑らせちゃいますよ。頭でも打ったら大変です。だから、すみません」
そうか、と寂しげに言うと、セキさんはちびちびとお酒に口をつけ始める。
「とは、一回しか飲んだことないよな」
そうでしたっけ、と私は誤魔化しの相槌を返す。実のところ、セキさんとの出来事を私はよく覚えている。さっきも思い出して胸を痛くしていたほどだ。
「オレはまた、お前と酒飲みながら色々打ち明け話でもしたいと思ってるんだが。お前は毎回のように見張りしやがって……」
「いいじゃないですか。私は宴がちょっぴり苦手なので。私より出たい人が出てくれるなら本望です」
「オレは、と話したいんだ」
「それは……お酒がないとダメなんですか……?」
「まあ、そうかもな」
はあ、と私は胡乱げな相槌を返す。
普段はコンゴウ団の一員とリーダーとして、拾った側と拾われたものとして、変わりなく接しているつもりだ。たわいのない話だって随分している。あんな、右も左も混じって分からなくなってしまうような状態でしたい話題が、私からすると心当たりがないのだ。
気づくとセキさんからの返事が途切れていて、私は後悔した。余計なことを言ってしまったかもしれない。
シンオウさまに捧げものをした、神事の夜。そのシンオウさまからの眼差しであると信じたくなるような眩い星空をセキさんと無言で見つめる。心洗われるような光景の中に在るのに、私は落ち着かない気持ちで横にいるセキさんの機嫌を伺った。
またごくりと、お酒を飲み下したセキさんが口を開く。
「。お前やっぱ、いつかはコンゴウ団から、出てくつもりなのか」
「え……?」
「だからオレをどっかで避けているのか」
言われた瞬間、カッ、と体が熱くなった。けれど気づかれていたんだなぁ、と思うと、その熱はすぐにしゅるしゅると天へ流れていってしまった。
まぁセキさんなら、見抜いてしまうか。宴の席でセキさんと顔を合わせたくなくて、外の見張りに逃げることも、セキさんからしたら分かりやすいくらいだったかもしれない。目に水が張って来たのを堪えて、私は俯く。
「ごめん、なさい……」
「………」
「でも、出てくつもりなんて毛頭ありません。そんなことないです。私、ずっとここにいたいです……」
「ずっとここにいたい、か……」
星空にぼやくようにセキさんが言う。
ずっとここにいたい。むしろ私にはその他の願いは何もない。
親の顔も名前も知らない。ふるさとの記憶もない。私を置いていったあの旅の商人も、行方知れず。
いくらヤミカラスがいるからって、コンゴウ団を追い出されたらヒスイで生きていくことも難しい。それ以上に、コンゴウ団にいられなかったら、私は自分自身が生きていると言えないだろう。
「じゃあ、……」
何か言おうとするセキさんの横で、私は爪を手に噛ませ、食いしばるように願っていた。
コンゴウ集落で生きて、死にたい。他の場所では生きたくも死にたくもない。
そのために、あの夜みたいな熱くて大きな手に触れたくない。私を間違えさせるのは、あの熱だけなのだから。
「セキさん。非礼をお詫びします。申し訳ありませんでした」
長に対する無礼が、本人にバレてしまったのだ。何かしらの仕置きが言い渡されても止むなし。心してセキさんの返事を待った。だけどセキさんが眇めた目を向けるのは逆さにした酒瓶だ。
「……なくなっちまった」
そう誰にも言うでもなく呟くと、白い頬をしたセキさんは高台を降りていってしまったのだった。
気づけば暁の頃を過ぎて、白い陽が山際の淵から旅立った。いつもはもっと長く感じる寝ずの見張り番だが、今夜はあまりに考えること、胸に渦巻くものが多くて、大切なはずの時間はあっという間に過ぎてしまった。
集落の端で、次々に洗濯物がたなびき始める頃。高台へと誰かが登ってくる音がする。下から出てきた顔に、私から先に頭を下げる。
「おはようございます」
「おはよう。見張り、ご苦労だった。交代だ」
ヤミカラスを呼び、結局口をつけられなかったお椀を持って立ち上がる。私はようやく今夜の仕事を終えたのだ。
夜遅くまで楽しんでいたのだろう。寝ぼけた様子の皆の間を縫って、私は自分の寝床を目指す。
すっかり朝が訪れた自分の家。戸を閉めると、冷えないように重ねていた装備をひとつずつ降ろしていく。体が軽くなり、縛り付けられていた全身が緩んで、微睡みが降りてくるのを感じた。
火を入れてないのに部屋の中の空気がぬるく感じるあたり、さすがに冷えたらしい。ヤミカラスも自分の活動時間を過ごし切って、やや眠たそうだ。ヤミカラスの好きな豆を混ぜて、皿に盛ってやると、がっつくように啄ばみ始めた。
「一緒に見張り番してくれて、ありがとうね」
そうささやいて濡羽色の羽を撫でてやる。私の方はとにかく早く寝たいので、胃に入れるのは薄めのお茶に留めた。ひとまず喉をうるおし、腹を温めたら布団に入りたかった。
お茶を飲みきりほっと息を吐いたところで、体力の限界を感じた。倒れこむように自分の寝床へと身を投げ出した。
「ぐえ」
くぐもったうめき声。布団の中にゴツゴツとした硬さと熱を感じたのは同時だった。目を見張れば布団の端から鮮やかな紺の髪が漏れ出ている。
息を飲んで布団を捲れば想像に違わず。薄目を開けたセキさんがいた。
「なっ、なんでここにいるんですか!」
「おはよう、。見張り番、終わったのか。ご苦労さん」
「あ、ハイ……、じゃなくて! セキさん飲みすぎ! 家間違えてますよ! ここ、私の布団です!」
「ああ、わかってる」
「絶対わかってないですよね!?」
そこにセキさんがいると知らなかったとはいえ、上からのしかかる形になってしまった。慌てて仰け反ると、リーフィアの尻尾までが布団から覗いたのには驚いた。どうやら共に温まりあって寝ていたらしい。
リーフィアがあくびをする横で、セキさんも目を親指でこすりながら起き上がる。
「悪いな、寝床を借りて」
「いやまあ、この時期に外で寝られるよりはいいですけど……。というか大丈夫ですか、私の部屋なんかにいて。みんなセキさんのこと探してるんじゃ……」
「ちゃんと何人かには話を通してあるから大丈夫だ。わざわざ俺を探させちゃあ時間が勿体無いからな」
それなら大丈夫かと一瞬肩の力を抜いた。が、思い直す。私の布団にセキさんが入り込んで居たことは何も大丈夫じゃない。自称するのは恥ずかしいが、ここは一応乙女の寝床である。
「。疲れているところを悪いが、話をしに来た」
「は、はい。なんでしょうか」
おそらく昨晩の続きだろう。もしかしたらあの時は言い渡されなかった叱責をここで言い渡されるかもしれない。そう思い、私は手足をこわばらせる。
向き直ったセキさんは少し荒っぽく髪をかきあげてから、私を見据える。
「真剣な話だ。ただこの後オレが言ったことを、お前は聞かなかった事にできる」
「どういうことですか……?」
「まあ、お前が寝足りない頭で聞いたまぼろしだと、そう思うかもしれないような話をするってことだ。とりあえず落ち着いて、座ってくれ」
そう言ってセキさんは私を引き寄せて、布団の上に座らせた。やっぱり冷えてるな、というざらついた声がして、見ればセキさんの指先が私の手の甲を擦っている。
一晩中、夜に浸っていた手だ。芯まで冷えたせいで、熱いものに触れられているという実感は遅れて、染み出すようにやってきた。
「ずっとここにいたい、か……」
セキさんは、やはり誰に言うでもなく私が昨晩伝えた願いを繰り返しぼやく。なかなか次の言葉をくれずに、無言の時間が過ぎていく。それはセキさんらしくない迷いだった。
「ああ、ずっとここにいりゃあいい。いてくれよ。だけどそれは、オレの女房って形にはならないか……?」
女房。つまり、私とセキさんが夫婦になるということ。それをセキさんが望んでくれているということ。予想だにしていなかった響きと申し出に思わず目を開く。
「やっぱり無理か!」
さっきまで迷って、言い出すまでに時間を食わせて居たくせに、セキさんは私の答えを勝手に先取りして言う。どうしてだか、歯の見える笑顔を添えて、やけに明るくセキさんは私の肩を叩いてくる。
「悪かったな、ずっと強引に酒を飲ませようとして。お互い酔っ払ってる時なら、こういう話をしてもなかったことにできると思ってたんだ」
「そう、だったんですか……?」
「ああ。でも気にするな。わかってるぜ。団長のオレのことすげなくフったら、ここには居づらいもんなぁ」
喉の奥が詰まる。ずっと頭の中にあったことをセキさんが射抜くように言ってしまったからだ。
コンゴウ団は私に残された唯一の生きる場所だ。他に身寄りも行く宛も、私にはない。
だから長であるセキさんは私にとって一番の感謝を捧げる相手でありながら、同時に一番危険な男の人だった。
例え抗い難い魅力でその人を好きになってしまっても、この人との関係だけは間違えてはいけない。誘いに簡単に応じて、関係が拗れでもしたら? セキさんに一度構われてのぼせ上がった私が、妬みを抑えられなくなったら? 一歩間違えればここを去らなければならないのは、私だ。一度でも身の程を忘れたら滅びるのは、私なのだ。
恋情と、これからの生きる寄る辺。どちらが重いかは明白だ。
でもセキさんはそれさえも見越していてくれた。私が心のままにセキさんを好きでも嫌いでも、ありのまま生きていけるようにと、真剣な想いを何度も酒の席のたわ言にしようとしてくれていたのだ。
今も落ち着く声色で囁いて、喉を詰まらせる私の背を、撫でてくれている。
「ああ、わかってるから。大丈夫だ。オレのことは気にするな。それならむしろ、ここでどう生きたいのかよくよく教えてくれ。誰か他に暮らしたい男がいたら遠慮なく言ってくれ。オレが叶えられる限り叶える。惚れた女にそれくらいのことをしてやるくらいの甲斐性はオレにはあるつもりだ。だから、泣くな。……おい、そんなに泣くほど嫌だったか?」
必死に首を横に振る。悲しくて泣いているのではないとセキさんに伝えたいのだけど、私から漏れるのは嗚咽ばかりだ。
うっすらと記憶の中にある、旅の商人の、私を置いて小さくなる背中。その日からずっと私の中に巣食って居た寂しさ、やるせなさ、これからの現実の厳しさ。それに怯えて、捨て置かれた場所に必死に縋った幼顔の私が、セキさんの眼差しによって溶けていく。
私の取り乱す様にセキさんが慌てるところさえ、あたたかな陽だまりのように感じる。そうだ。この人がずっと見守ってくれて居た。自分の想いを口にすることさえ何度も戸惑って、私のことを考えてくれていた。この人の愛があったから、私は今日まで生きてこられたのだ。
言葉にならないものが次から次へと溢れて、セキさんの手でももう抑えきれなくなるほどの大泣きになってしまった。おいおいと泣く私に、いつの間にかリーフィアが手ぬぐいを口に食んで持ってきてくれた。その手ぬぐいを押し当ててくるセキさんの手つきは、頬を擦らないようにと慎重で、また涙がこらえきれなくなる。
「セキさん!」
「お、応」
「セキさん、セキさん! セキさん……!」
「なんだ!?」
ずっと精一杯だった私に、これからどんな風に生きたいなんて夢物語は、どこにも見当たらない。ただセキさんの気持ちを知った今も、変わらない願いだけは言葉にすることができた。
「私は、コンゴウ集落の人間でいたい、セキさんと一緒にいたい。大切な時間が有る限り、セキさんのそばにいたいです……!」
「それは、オレと夫婦でも構わないってことか……?」
好きな人と一緒になる。自分がこの人、と選んだ相手にも、一番に選んでもらえる。構わないどころか、それをきっと幸せと呼ぶのではないだろうか。
セキさんは手ぬぐい越しに酷く優しく私の頬に触れて居てくれたのに、私は何度も頷いて、目も頬もこすって、それを無駄にした。
一睡もせずに見張り番をこなした。仕事の前も眠れなかったせいで体はくたくただ。だけどそれを、休められる場所が私にはある。ここは暖かい安心できる。そばにはセキさんがいる。泣き疲れて座っても居られなくなった私を、布団に寝かせてくれたのもセキさんだ。
「セキさん」
なんだ、という囁きが降ってくる。
「寝て起きたら、私、セキさんとのこれからのこと、一生懸命考えます」
上から覗き込むセキさんの顔に、鮮やかな髪が降りてかかっているのがまた色っぽい。言葉や行いや想い。ずっともらってばかりだったこの人に、これから私が送れるものがあるのだと思うと嬉しかった。
「たくさん考えて、頑張って伝えますから、聞いてくださいね」
「応っ!」
その頷きをもらって、瞼を閉じる。私はようやく得られたあたたかさに身を任せ、体の力を抜いた。