浅紫の章(前編)



 最近、目覚め方が変わった。どちらかと言うと悪い方に。以前までの私はもう少し眠りが浅かった。隣のヤミカラスの羽音で目覚めることもあるくらいだった。なのに最近布団に入ると途端にふっと体から力が抜け、どうにも眠りすぎてしまう。眠っている間は心地良いの一言に尽きるが、いつも以上の時間を眠りに充ててしまうのを私は勿体無く感じてしまう。おかげで近頃は、朝の支度も今まで以上に急がねばならない。
 少し駆け足で現れた私に、ヨネさんは目を瞬かせて言う。

「話に聞いてたけど本当に寝坊するようになったんだね」
「す、すみません。お恥ずかしい限りです……」

 直りきらなかった髪の乱れのせいで、バタ着いた朝を過ごしたことをヨネさんに見抜かれたのだろう。頭を下げながら手で寝癖を撫で付ける。

「まあ、少しくらいはいいんじゃないのかい。は生真面目すぎて、もう少し気ぃ抜くくらいでいいと思ってたんだよ」
「ダメですよ、こんなんじゃ。引き締めます」

 ヨネさんは、やっぱり真面目だねぇ、と苦笑いしている。けれど気を抜くなんて私としてはありえない。だって私は、現在セキさんの、コンゴウ団の長のお嫁さん候補なのだから。
 リーダーの奥方となる人物があまりにだらしないのは示しがつかないだろう。眠気を振り切り、気合を入れるように頬を軽く叩く。パチン、と思ったより派手な音が出てヨネさんが破顔する。

「おっ、気合い十分だね。その調子でひと仕事、頼めるかい?」
「はい、なんでしょうか」
「天冠の山麓に行っておくれ。ツバキのとこまで届け物と預かり物とを頼むよ」
「えー……、ツバキのところですかぁ?」

 さっき気合いを入れ直したばかりだというのに。ツバキ。慣れ親しんだその名を聞いて、私は思わず不満顔をしてしまった。自分でも明け透けすぎたと思えば、ヨネさんが体を二つ折りにして笑いを堪えてる。

「……ヨネさん、なんで笑うの」
「ほんと、ツバキに対してだけはも不遜になるし、呼び捨てするしでさ。改めて聞くとおっかしいなと思ってね」
「ヨネさんが言いたいこともわかりますけど。ツバキはツバキなんで」

 宴の夜、見張り番を買って出るのはもちろん酔ったセキさんと同席したくないのが一番の理由だった。酔った勢いでもう一度セキさんに迫られてしまったら、そしてその時自分が空気や酒気に呑まれてしまって、もし間違いでもしたら。危なくなるのは理性ばかりでなく、私の集落での立場や居場所だ。
 だから以前までは頑なに、宴となると必ず見張り番を買って出て、逃げ出していた。

 そしてもう一つ。私を宴の席から遠のかせたのがツバキの存在だ。
 理由は主にあいつがアニキアニキとうるさいせいだ。顔を合わせればちくちくと言われる。それが嫌で私は避けているのに、向こうから突っかかってくるのだからやってられない。話しかけられるとなぜだかツバキ相手には売り言葉に買い言葉が、次から次へと、弾けるように出て来てしまうのだ。結果、お互い口が止まらなくなったのは一度や二度じゃない。
 険悪、とまでは行かないまでも、ツバキは私にとって快く顔を合わせられる相手ではないのだ。

「行かなきゃだめですよね……」
「悪いがポケモンを扱える衆は誰も手が空いてないんだ、あんたに行ってもらわないと困るよ。あんたが行かないって駄々こねるなら、またギンガ団に護衛を頼んで貸しを作ることになる」

 ギンガ団に貸しを増やす。それは勘弁だ。
 以前よりギンガ団、シンジュ団との往来も増えた。ギンガ団は特にヒナツさんが髪結いの修行に出ていて、以前よりずっと身近に感じられるようになっている。とはいえ、あまりに些細な用事でも彼らに頼りきりになってしまうのは情けない。

「わ、かりました……」
「頼んだよ」

 ツバキに会うのは面倒だ。だけどセキさんの面子には変えられない。
 私はすぐさま支度を済ませ、天冠山を目指し、集落を発ったのであった。



 まとまった保存食と、ツバキ宛の書簡。それからツバキから前回要請があったという荷物をしっかり背負い、私はえっちらおっちらと山登りすることになった。
 ポケモンたちの縄張りに自ら入山する危険な山登り。その仕事を私一人に任されるのは正直、荷が重い。それでも負けてられないと頂を見上げるのは、ツバキの存在が故だ。セキさんに太鼓判を押されキャプテンとなったツバキは、コンゴウ集落以上に天冠山を拠点とし、キングであるマルマインを任されている。
 ツバキのようにコンゴウ団の一翼を担うには、これくらいの仕事はこなせる様に成らねばなるまい。
 ポケモンの警戒を掻い潜り、時にあしらいながら一歩一歩進む。気の抜けない危険な登山だ。ヤミカラスへの薬は惜しまず使ってやる。

「ありがとうね。おまえのお陰で私はこんな仕事も任せてもらえるんだから。感謝してるよ」

 クア、と返事をするヤミカラスの羽根を撫でてやりながら、私も水をひと口飲む。体力の残りは残り四割ほどと言ったところか。少し余裕が消えてきた焦りを、私は意志の力で諌める。
 こんな事ではいけない。コンゴウ集落の皆をもっと安心させるためにも私は強くならなければならないのだから。

 夕暮れを待ってヤミカラスの得意な暗さの中進むべきか、それとも自分の目がしっかり効くうちに登り切るべきか。思案していると崖の上から物音がする。

 ヤミカラス、聞こえた?
 声に出さずそう目で合図すればヤミカラスも上の方を見上げていた。
 目を凝らして睨みあげていれば、不意に崖の先からポケモンの体の端が覗く。その影の形をよくよく見ているうちに、長身の人の影が重なる。
 すらりと長い手足に、風に揺れた特徴的な巻毛。私は安心感から思わず立ち上がり、声をあげていた。

「ツバキ!」
「やぁ、よくここまで来たね」

 ツバキは笑いもせず、目を細めながら言う。

「頑張りは認めてあげよう」

 変わりないツバキの言い草に、私が安堵したのは言うまでもない。
 まずはツバキの様子。見たところ怪我もなく、顔色も普段通りだ。もちろん鼻にかかる言葉遣いも。
 それに頼れる相手が姿を見せてくれたのも、私を安心させてくれた。
 当初はキング・マルマインの縄張りの近くまで行かなければならないかと思っていたけれど、ツバキは中腹まで私を迎えに来てくれていたようだ。
 正直言って助かった。ツバキはすぐさま上から安全な道を教えてくれる。彼が指差す通りに、足を進めればポケモンとは接敵せずにすいすい登れた。ツバキの元へとたどり着けば安心感は確かなものになっていた。荷物を半分ツバキに渡せただけでも随分と楽になったが、加えてツバキの道案内の妙に私は何度も唸らせられた。
 天冠山をよく知っているだけあって、すいすいとポケモンに出くわさない、歩きやすい道を先導してくれるのだ。
 それに途中ポケモンと接敵しても、ツバキは冷静に相手をし、追い払ってくれた。おかげさまで私は思っていた以上の余裕を残して、祭壇近くまでの道のりを踏破することが出来たのだった。

 入山してからというもの、この山が羽衣のようにまとう冷たい風には、緊張を煽られて仕方なかった。けれどそれも安心できる場所ならば、熱を冷ましてくれる心地よい風に感じられる。
 水筒から、残しておいた水をごくごくと飲む。脚首を固定していた草鞋の紐も緩めて休ませながら、隣でしゃんと立つツバキを見上げる。

「ツバキ、迎えに来てくれてありがとう。助かったよ」

 やっぱりキャプテンとなると格が違う。特にポケモンの相手はツバキの方が明らかに長けている。口に出しては言わないけれど、私は彼との実力差を感じて、密かに恥じ入ってしまう。
 それを笑顔で隠していれば、ツバキの方は小さなため息をついた。

「聞いたよ。またアニキを散々振り回したんだろう?」

 今度は私がため息を返す番だった。

「またそういう意地悪な言い方をする……」
「意地悪じゃなく事実さ」
「はいはい。それで、ツバキはどこまで聞いてるの? その、セキさんと私が、夫婦になるかも……って話も?」

 皆に慕われる長が身を固めるという一大事だ。ツバキの元にも伝わるのも無理はない。
 その一大事が本当になるのか、まだ私は自信が持てないでいるのだけれど、一応進む方向はそういうことになっている。

「もしかしてそれでずっと怒ってるみたいな、変な顔してるの?」
「よく見てくれ。怒ってるみたいな顔なら、が来てからずっと向けてるさ」
「確かに」
「むしろその件については清々しているよ」
「え? なんで?」

 想像していなかった返事だった。セキさんが大好きなツバキなのだから、口うるさく言われるものだと身構えていた。だからいつも以上にここに来るまでの足が重かったというのに。
 今まではつんけんしていたツバキは急に目尻を枝垂れさせて言う。

「お前がらみになるとアニキも色々言うから大変なんだよぅ。”オレはセキさんなのにお前はツバキ呼びだよな”とか」
「なにそれ。セキさんはセキさん、ツバキはツバキだよ。無茶言わないで欲しいなぁ」
「それを言いたいのはツバキの方だ! 毎回ボクはは妹みたいなもんだって……」

 またも意外な言葉に思わず、こちらに気づいたムックルみたいに、首を伸ばしてツバキを見る。

「え、ツバキ、私のこと妹だと思ってくれてたの?」
「………」
「ツバキの方が弟じゃなくて?」
「ッ!!」

 私にとっては当たり前のことだからとそのままぶつけたのがよくなかった。ツバキが眉尻と口の端を釣り上げる。
 ああまた売り言葉に買い言葉で、みっともない子供みたいな言い合いが始まってしまう。しかもこんな山中で。喧嘩をしたいわけではないのにツバキとはこんなやり合いばかりだ。
 身構えてツバキからの先制攻撃を待っていたが、ついにそれは飛んでこなかった。
 初めてのことだった。ツバキが息を吐いて鉾を収めたのは。沸騰しそうになった感情を、またもため息に変えたツバキに姉目線で思う。彼はその身の丈に合った、大人になろうとしているんだと。

 渡した荷物の代わりに、ツバキからコンゴウ集落へ持ち帰って欲しいものが、次々に手渡される。
 この天冠の山麓で手に入れたものとあって、どれも大きさの割にずっしりと重たい。
 私の背負子に荷物が詰め込まれ、それがしっかり留めてあるかを確認してくれたのもツバキだった。

「できたよ。これで大丈夫」
「あり、がとう」

 帰りも歩きやすい山道までツバキは私を送ってくれた。足が長いせいで彼の一歩はもっと大きいはずなのに、始終歩調は私に合わせられている。言葉にはしなかったけれど、彼の優しさを痛く刻みつけられながらの下山となった。

「それじゃあ、アニキやみんなによろしく」
「うん……」

 始めはあんなに来たくない思っていたのに、今は不思議とツバキと別れがたかった。今の彼と、今の私なら、もっと、何か話せるような気がしてならないのだ。
 けれど彼をこれ以上付き合わせることは叶わない。ツバキはキャプテンで、彼をキング・マルマインから長く離れさせるわけにはいかない。
 葛藤の中、彼の目をじっと見上げていると、ツバキは困ったように壊顔した。

「やっぱり、はツバキの妹だよ」
「そう、なのかな。私もやっぱり、ツバキは弟みたいな存在だなって思うけど」
「はいはい。まあこれを機に、アニキたちのこと、昔みたいに接してやりなよ」
「昔……?」

 呆ける私。急に烟ってきた霧の向こうから、ツバキの声がぽーん……、と飛んでくる。

「集落に預けられる前、ボクらは普通の友達みたいに遊んでたじゃないか」

 預けられる前、友達みたいに、遊んでた。ツバキから投げかけられた過去が滲み出すように広がって、歩き始めた私の頭をどんどん占めていく。
 天冠山を下ることへ意識を向ける傍ら、私はツバキの言葉になで上げられた昔々のことをゆっくりと思い出し始めたのだった。