浅紫の章(中編)
随分昔の記憶だ。全てはおぼろげに、たっぷり水を含んだ刷毛で混ぜられたようになっていて、よくわからない。私の手を引っ張るその商人の顔も、夢の中のようにぼやけている。
だけども天冠山から吹き抜けてきて頬を叩く風の冷たさ、私を引っ張るその人と繋いだ手の熱さが言うのだ。この光景は夢のものでは無いと。
集落から集落へと渡り歩く、商人であるその人に連れられて、私は様々なヒスイの景色を見て来た。その中でも紅蓮の湿地は特別胸が高鳴った。ぬかるんだ道には何度も足を取られたが、それでもコンゴウ集落へと近づくための道だと思うと好きだった。
「セキ! ヨネー!」
弾けるようなその声は幼き日の私の声だ。
そういえば、あの頃は二人を友達のように呼び捨てにしていた。二人にまた会えたことが嬉しくて、飛ぶように駆けていくと、セキは歯を見せて、ヨネは髪を耳に掛けながら笑う。それからセキの後ろで泣きそうになっているツバキは、濡れたまつげを瞬かせていたっけ。
コンゴウ集落が好きな理由は単純だ。そこに友達がいるからだ。
あの頃の私にとってセキさんは、向こうからかけられるちょっかいが少し煩わしいと思うような男の子だった。
ポケモンを手懐けている子供自体が珍しいんだ。そう言っセキはすぐ私にポケモン勝負を申し込んでくるのだ。けれど当の私は手合わせは苦手だった。勝負はポケモン同士の相性など、考えることが多くて難しい。
「なあ、一休みしたら手合わせ、できるか?」
「う……」
「なあ!」
大きくて、きりりとした目のセキが、ずいと私に詰め寄る。彼は勝負がしたくてしたくて仕方がないのだ。
尻込みしている私の背中を押すのは、あの商人だ。『やりなさい。野生の危険なポケモンたちと戦う練習だと思って。お前の旅路にも役に立つから』。そう商人は、やや強引に私にポケモンを扱わせた。
「本当にお前がヤミカラスの世話をしてるんだな」
「え? うん、私の言うことを聞かないこともよくあるけどね」
「オレ、お前の親父さんの方がヤミカラスを連れてるんだとばっかり思ってた」
「セキ、色々と勘違いしてる。あの人は私のお父さんじゃないよ」
「そうなのか? じゃあ兄貴か?」
「わかんない。知らない」
そんな話をしているうちに、ポケモン勝負の準備ができた。お互い十分に離れて、向かい合う。
私のヤミカラスのやる気は充分。セキの背後から飛び出して来たイーブイも、意気込んでいる。
「はいじゃあ二人とも用意はいいね? 見合って……、……始め!」
ヨネがさっと手を上にあげた。それが開始の合図だった。
勝負は私の負けだった。手合わせが嫌いなもうひとつの理由がこれだ。セキとイーブイに勝てないから、自分じゃヤミカラスを勝たせてあげられないから、ポケモン勝負は嫌いだった。
「どうだ、イーブイの新技は!」
「はいはい。セキもイーブイも強かったってば」
「セキ、追い打ちなんて真似みっともないよ」
ヨネの言う通りだ。私は口を尖らせる。勝てるならポケモン勝負だって楽しいに決まっている。
私はセキからそっぽを向いて、頑張ってくれたヤミカラスに傷薬を使ってあげた。
こういう時に近くに寄ってくるのがツバキで、大抵「あとちょっとで勝てたのに……」とか、「あそこの力業はもったいなかったよぅ……」などと助言をくれる。負けたばかりの幼い私にはそんなツバキの助言はなかなか聞き入れられず、私は彼からもそっぽを向くのだった。
勝負を終えてセキが満足したら、遊びの時間だ。ちょうど今、美味しい実が成っているという木の元まで案内してくれるというので、皆の後をついて歩きながら喋る。
「そうだ。次にが来たら聞こうと思ってたんだ。の家って、どこにあるんだ?」
「家?」
「ああ! どんな場所なんだ? あと、どんなポケモンがいるんだ? オレもいつか行けるかな?」
無邪気なセキの問いかけに対して、私はきょとんと目を丸めた。
集落に生まれたセキはまだ知らないのだ。帰る家のない子供だっているということを。
「家なんてないよ」
私は端的に言った。だってそれが事実だったから。驚かせるつもりはなかったのだけど、セキにとっては予想外の返事だったのだろう。前を歩いていたセキが急に立ち止まって、私はセキにぶつかりそうになる。
「本当、なのか?」
「う、うん。もしかして、変かな?」
「変じゃないよ」
すかさず口を挟んだのはヨネだった。
「変なんかじゃないよ。生き方が違うだけだよ」
「そうだよね! 私って、あの人と一緒にずっと旅してるから。ヨネたちって全然違うって、ずっと思ってたよ」
セキやヨネは、コンゴウ集落に住んで、たくさんの人たちと助け合って暮らしている。
私はあの商人と様々なヒスイの地へと赴き、持ち物や仕入れた商品を売って暮らしている。
見ているものも、知っていることも、教えられる物事もはっきりと違っていた。
「うん。どっちも違うから、あたしたち、友達になれたんだよ」
「そうだね、ヨネの言うことに私も賛成!」
しばらく考えていた様子だったセキが、神妙な顔つきで言う。
「……じゃあコンゴウ集落を出ても、はどこかに帰るんじゃなくて、また次の場所に行くんだな」
「うん、そういうこと。次の場所に着いても、また数日したら次に行くんだ」
コンゴウ集落はいくつかある商売先だ。セキやヨネや、ツバキとも遊べるから、他の場所よりは少し好きな場所だ。けれど行きたいと思った時に来られるわけではない。品物を仕入れて、ある程度の期間を置いて、風向きや天候を見計らって向かう。やはり商売先のひとつでしかなかった。
だからまさか、その商売先のひとつに置いていかれることになるなんて。思ってもいなかったのだ。
朝を迎えたら、コンゴウ団の長が来て、私に言い聞かせた。商人がすでに集落を発ったこと、私の面倒はもう見切れないからとヤミカラスごと預けられたこと。行く先は教えてもらえないこと。身分の預かりはもう、コンゴウ団であること。間違っても追いかけようと、思ってはいけないこと。
私は、温かな手をしたあの人に、余計な物を断ち切るようにして捨てられたのだ。
長の言うことは、私には到底受け入れられなかった。
私は何を間違えてしまったのだろう。商売を一生懸命手伝って来たのに、どうして捨てられてしまったのか。そんな暗く曇る視界で堂々巡りを繰り返した。信じられない気持ちが故に、私は泣きながら木の上や岩山に自力で登って、どこかにあの商人の背中が見えないか探した。
今からでも追いかければ大丈夫。子供の考えでそう信じた私は、涙の溢れる目を何度も拭って、コンゴウ集落の端へと走った。でも、本当に追いかけることはできなかった。集落の外がどれだけ危険か、よく分かっていたからだ。
行きたい、でも怖い。追いかけたい、でも足がすくむ。どうしようも無くなった子供の私は声を上げて泣くのだが、泣けば泣くほどに打ちひしがれた。前は泣けばあの人が助けてくれた。なのに一向に現れない。もうそうやって守ってくれる存在はいなくなってしまったのだ。
陽が暮れて、私を呼びに来たのはセキだった。
「夕餉が冷めるぞ」
夕餉なんて、どうでもいい。そう歯を食いしばっていれば、同じ小ささをした手が泣きじゃくる私を引っ張った。
「帰ってこい」
セキが一歩集落の方へと踏み出せば、私は後ろへとよろめいてしまう。
あの商人の行った方角は分からない。けれどセキが引っ張る方向だけは、私の行くべき場所じゃないのは確かで、集落に戻るほどに私はますます酷く、わんわん泣いたのだった。
駄々っ子のように煩く泣いたからだろう。セキは次第に苛立ちを募らせて、ついには私への怒りを露わにした。
「コンゴウ集落に何の文句があるんだよ! ここはいいところだろ。雨風しのげて、厳しい時もあるが皆食っていける」
そんなの、商人と旅をしていた時も同じだった。簡易な天幕を貼った下で眠ることも多かったが、雨風をしのげ、食べさせてもらっていた。
首を横に振って、まだ駄々を捏ね続ける私に、セキは声を張る。
「ここでの暮らしの方がいいから、あの人はのことを置いて行ったんだろ!」
「わだじはっ、旅じてる方がいいよ゛お……!」
しゃくりあげながらそれを言うとセキは苦い顔をして黙ってしまった。だけど私を集落へと引っ張る手だけは強い。ぎゅうと手に込めるほどにセキの内にある滾るような熱が伝わって来る。それはまだ諦めきれない私を捩じ伏せるほどに、轟々と燃えていた。
「、聞け。泣いたままでいいから」
セキは私の手を引きながら言い聞かせる。
「オレはいずれ、この集落の長になる」
「セキが? コンゴウ団の団長になるの……?」
「応。オレは団長として、コンゴウ団を皆にとっても住みよい場所にする。にとっても、大事にしたくなる場所にするから」
「そう……」
「ああ、シンオウさまに誓う。だからオレを信じろ」
幼いセキなりの誓いが、私の中を巡り巡るのはもうしばらく、後のことだった。
涙が枯れるほど泣いて、布団一枚ぶんは鼻をかんで、お腹が裏返るかと思うほど腹を空かせて。それからツバキと並んで、同じお鍋からよそった重湯をすすった時だった。
納得した、というよりは、折れた、だった。ぽっきりと、真っ二つに。でもその二つに割れた裂け目から、染み入って来たものは私の腑に落ちた。
ぼうっとした、子供の頭でもよくよく理解できたのだ。自分がどうせねば、ならないか。
「大丈夫なのかよぅ……」
眉尻を垂れさせた情けない表情のツバキが私を案じてくれる。手足は長くとも、今ではツバキが弟のように思えた私は、久方ぶりに痩せ我慢の嘘を言った。大丈夫だよ、と。
改めてコンゴウ団の長と話を終えた私の頭は、幾分か晴れてきていた。
そして私が起き上がっていると聞きつけて様子を見にきてくれたセキとヨネに、私は三つ指を膝の前についたのだ。見よう見まねだった。それこそ、あの商人が上客の前ではどうしていたかを必死に思い出して、なぞって頭を下げた。
「セキさん、ヨネさん。これから、よろしくお願いします」
二人の反応は記憶にない。私は先々への絶望で、凍ったような気分で床と自分の指先を見ていたのだから。