浅紫の章(後編)
歩きなれた紅蓮の湿地へと戻って来ても、ツバキの言葉は私の喉の奥にひっかかったままだった。
互いが只の子供同士でいられた時のこと、ところどころ欠けた部分がありつつも、大部分は思い出すことができた。半分は皆で戯れ合うように遊んだ良い思い出だ。それなのにすっかり忘れていたことを思うと、きっと自ら封をしていたのだろう。安心できる頼りを失ったというのはそれほど悲しい記憶だ。
それに、セキを友達だと思ってた自分を捨ててしまいたかったから。商人の子のは、もう使い物にならない存在だと思って、良いことも悪いことも全部、まるごと捨ててしまったのだ。
それまで余所者と振る舞っていた自分が、コンゴウ団のになれるよう、子供なりに必死になってやったことだった。
ツバキがあの昔のことを覚えていたこと。それからあの日の私に戻ってもいい、と懐の奥に仕舞い込んだ大切なものを見せるように言ってくれたことは意外だった。驚いた気持ちはまだ、私を落ち着かせてくれない。
草地もまばらな平野を抜ければ、コンゴウ集落の屋根が見えてくる。どこからか、帰ってきたという実感もやってきて、私に深い息を吐かせた。
ちゃん、おかえりー、木の上からちゃんのヤミカラスが見えたよ、と出迎えてくれた子供たちの頭を撫でてやる。今更になって思う。天冠山、寒かったなぁと。
荷を背負い直して辺りを見渡す。記憶と重ねると面影があるどころか、冴えた物言いが変わっていない、ヨネを見つけた。
「ただいま戻りました」
「ご苦労さん、まずは無事で何よりだ。やっぱりに任せてよかったよ」
「それほどでも……。あ、これツバキから預かったものです。今、時間良いですか?」
「ちゃちゃっとやっておくれ」
頷いた私は手早く荷をほどき、ひとつひとつをヨネさんに見せる。
「このあたりの品は蔵行きだね。この粉末は欲しがってた家があったはずだから、確認したら届けさせるよ。……にしても、ツバキは随分と持たせたんだねぇ」
「重かったですよー」
ごりごりミネラルに、てつのかけらなどなど。当初の予定にない荷物まで後から積まれたのは感じていた。
ずしずしとどんどん重たくなっていく荷物。自分が地面に沈んでいっているのかと思うほどだったのに、それでも積み続けるツバキに何か言ってやりたくもなった。でもぐっと飲み込んだのは、この物資が集落のためになると分かっていたからだ。
天冠山からの物資は紅蓮の湿地で手に入らないものも多い。ポケモンを連れ、集落の外を出歩ける自分にはそれを必要とする仲間へと届ける責務があるだろう。
「……ああ、これはにだよ」
「え?」
手渡されたのは小さな巾着に包まれた何かだった。手に平に余る大きさで、重たい。布ごしながらひんやりとひた冷感と、吸い付くような、不可思議な心地を感じる。
「中を見てごらん」
ひとつ頷いて、私は巾着の口を開けた。口から覗いたのは深い、夜の底から汲み上げたような紫色だった。
「え、え……っ!」
腰が抜けそうなほど驚いた。だってそれは、私が欲しいと思いながら、手を伸ばすことのできなかったものだからだ。
やみのいし。
それを意識すると、今度は手が震えて、取り落としそうになってしまう。そんな私を見て、ヨネさんは笑い出しそうになっている。
「ほ、ほんもの……?」
「らしいよ。それでヤミカラスが進化するんだろ?」
「はい。そういう伝承ですけど……」
そう、伝承程度の話なのだ。ヤミカラスからドンカラスへ、どうやって進化するか、確かめた人間を私は知らない。ヤミカラスとドンカラスをよく見ればあの二匹が同じ種族なのは確かなのに、ちょうど進化するところを見た人間はいないのだ。
なのでやみのいしでヤミカラスが本当に進化するかどうかは、試してみないとわからない。
この紅蓮の湿地ではやみのいしは滅多に手に入らない。買うにしても随分お金がかかってしまう。
お金は大事に使いたい。確証のない、そんな話に大金は出せない。なので私は手が空く時にあたりの岩を割っては肩を落としていたのだ。
その幻のように感じていたやみのいしが手の中にある。変な汗が首筋を伝うほど、私は驚き通していた。
「ツバキのやつ、ついに渡したんだね」
「え……? ちょっと待ってください。ツバキが最近見つけて、それでくれた訳じゃないんですか?」
「前々からあいつ、隠し持ってたんだよ」
「ひ、ひどい! 私ずっと探してたのに!」
私がやみのいしを探し求めていたこと、ツバキなら知っていたはずだ。知った上で今日まで隠すなんて。ツバキはそこまで意地悪なやつだったかなぁ、という内心のため息をヨネさんは見通す。
「まあまあ。確かにからしたら意地悪に思えるだろうよ。けど、ツバキの気持ちも分かってあげなよ。もしその石で、ヤミカラスが進化したらどうなる?」
ヤミカラスがドンカラスになったらどうなると言われても。ヤミカラスがより頼れるようになるだけで、他の何が変わると言うのだろうか。私の中には問いの答えが見つからず、私は首を傾げる。
「あんたがドンカラスを扱える腕の女傑となったら、どこ行っても生きていける。引く手も数多だろうからね。ツバキなりに、思ってたんだろうよ。石をあげたせいでが出て行っちゃうんじゃ無いかってね」
「そんなこと、……」
ありえないですよ、と言おうとして言葉が途切れた。
だって、つい先日のことなのだ。セキさんが私の気持ちを確かめてくれたのは。あのセキさんだって、私の気持ちがどこにあるかを読みきれずにいたのだ。
「コンゴウ団にいてもらわなきゃ人手不足になる、がツバキの言い分だったね。けどまあ、本音はが集落から独り立ちでもしたらと思うと心配で寂しくて、堪えられないからだろうよ」
ツバキも、同じように私の願いの在処が見えずに、このやみのいしをどうするべきか、悩んでくれたのだろうか。そう思うと、手の中の暗色がより重たく感じられる。
「だから会いに行ってきなって言ったんだよ。妹分のあんたがようやくセキと身を固める気だってわかったらツバキも安心するだろ?」
「……安心、してくれたんですかね」
ヨネさんはしかと頷いて言った。
「今回のこと、ツバキは喜んでるよ。だからその石が、今あんたの手の中にあるんだろ」
私はため息をついた。本当に、素直じゃない。ツバキのことだ。苦労して会いに行ったって言うのに一度も笑顔なんて見せてくれなかったし、やみのいしだって直接は渡してくれなかった。無言で私の荷に紛れさせただけだ。でも、気持ちは十分に伝わってきている。
ツバキが悩む様子も、なんとなく想像できる。弟のように思って、彼を昔から見てきたからだ。
「女傑かぁ……。そんなすごそうなのに、私、なれる気がしませんよ」
「でもここに骨を埋めるって決めたんだろ?」
「うん。そう。私はここを守るために生きて、守って死ぬの」
「じゃあ覚悟決めて、みんなのために強くなりな」
「うん……」
もう一度、私は手の中にあるやみのいしを見た。手の震えはいつの間にか止まっている。代わりに、漠然とした不安が胸に広がっている。ツバキが与え、広げてくれた先の世への不安が、今度は私の心の臓を震わせていた。
「ただいまー……」
そうやって顔を覗かせた先は、自分の家ではなかった。私の住まわせて貰っているところより贅沢な作りで物が多い。御先祖さまへの捧げ物も豪華だけど、何よりも会いたかった顔に会える場所だ。
「戻ったか。おかえり」
私の方へと顔を上げたセキさんが、相変わらずかっこよくて、痺れたように私は口を噤む。押し黙って動かない私をセキさんは不思議がって言う。
「どうしたんだ?」
「せ、セキさんの顔が見たくて……」
「そ、そうか」
照れつつ言うと、セキさんにも照れが移ったらしい。
天冠の山麓への遠出は骨が折れるだろうとは予想していた。だけ予想よりずっと、胸の奥をかき混ぜられるような時間を経て、私はもったいなくもセキさんを前にまごついてしまう。
「あの」
「ん?」
「セキ、って呼ぶの、どう思いますか……」
昔のような呼び方をしたかったのに、久しぶりに口にしたからかそう気安い響きにはならなかった。
ツバキの言い振りからして、もう少し喜んでくれるかと思ったのだけど、私のぎこちなさもあってか、セキさんはあまり顔色を変えず、返事をくれる。
「嬉しいぜ。舞い上がりそうなくらいだ。でもどうしたんだ、急に?」
「実は……」
セキさんが部屋の奥へと招いてくれる。それに従い歩きながら、私は話した。ツバキに言われたこと、いつの日か追いやった物たちを次々に思い出したこと、今だから打ち明けられることたちを。
記憶をつなぎ合わせながらでたどたどしい私の話を、セキさん大きく構えたまま聞き届けてくれた。一瞬の逡巡の後、セキさんは落ち着いた声色で言う。
「本音を言えば、昔は寂しかったぜ。急に距離を取られたみたいでな」
「す、すみませんでした……」
「何を言っても頑固にオレに長の立場をとらせるに、昔は随分苛立ったりもした。でも泣きすぎで随分痩せ細っちまったお前には言えなかった」
「ご、ご心配をおかけしました……!」
自分が痩せ細った記憶は特にない。だけどセキさんが心配したぜ、と染み染み言うので本当のことなのだろう。
ツバキのこともそうだ。周りの優しい人々に、私は知らず知らずのうちに色々心配をかけているようで、素直に反省の念を覚える。どうやら私は自分が思うより危なっかしい人間のようである。正直、ツバキを弟だと持っていた自認すら揺らぎそうな勢いだ。
「実はオレなりに色々と躍起にもなっていたんだが、ある日ヨネに言われたんだ」
「ヨネさんに?」
「ああ。『兄妹は結婚できないよ』ってな」
「……、へ……」
「それを聞いて、決心できた。一度、家を分けようってな」
「そ、そんな時から夫婦になろうって考えててくれたって事ですか……?」
「応。まあませたガキだとオレも思うが、ヨネの言葉が効いたんだよなあ」
セキさんの呆れたような表情は、どれに向けたものだろうか。幼かった自分自身? それとも、目を白黒させてる私だろうか。
「がずっとここにいたいと願ってくれたようにオレも飽きることなく願ってたことがあったんだ。と家族になりたかった」
「セキさん……」
「ガキの頃のオレは兄弟という形しか知らなかったけど、言葉にされたら目が覚めたみたいになった。そう、あの時に自分の気持ちが恋慕だってことに気づいたんだよなぁ……」
思い出すようなセキさんの言葉。さっきまではぽかぽかとした幸福を感じていたのに、かっ、と血の巡りが良くなる。
こんなに幸せでいいんだろうか。そう贅沢に思ってしまうと同時に、過ぎてしまった”時”が、ぐっと重たくなっていく。自分の目でしか見られていなかった過去に、セキさんの、ヨネさんの、ツバキの気持ちが重なるせいだ。
「……あ、忘れてた」
今回の発端。ツバキの名が出てきて、私は急に思い出した。セキさんの元を訪れたのは、私が無性にセキさんの顔を見たかったからだ。だけどちゃんと、別の目的もあったのだ。
「セキさん、これ。ツバキからの預かり物です」
「なんだ?」
「さあ、私は知らないです」
懐から出したのは手紙だ。預かり物なので中身については知らない。その場でさっさと開いて目を通したセキさんが、ああ、と合点のいった声を溢す。
「も見てみろ」
言われるがままに中身に目を通すと、ツバキらしい線の細い字が踊っている。手紙らしい文面の他、ツバキの筆跡で図も書き加え、何かを書き留めたもののようだった。読んでみれば、それは金剛玉について書いてあるようである。
「ツバキに頼んだんだ。特別な金剛玉が欲しいってな」
「へぇ。セキさん、金剛玉が欲しいんですか?」
「、知ってるか? これからの時代の夫婦は、婚姻の証に指輪を贈るんだ! エンゲイジリングって言うらしいぜ!」
手紙を持っていたうちの左手を、パッとセキさんに取られる。私より大きな手が左手の、薬指の根を摘んで、柔らかく揉まれる。薬指の付け根を意識させる指遣いを続けたまま、セキさんはきゅっと、弓張月のように目を細める。
「ここに、お前がオレの伴侶だって証をつける。それには一等良い金剛石がついてるんだ。だからお前が手をかざすたびにそれが光る」
「……セキさん」
「いいだろ? 誰の目にも一目瞭然、お前に上等な伴侶がいるってわかるなぁ」
「セキさん、手、離して」
「ん?」
「お願いだから……」
にやけたセキさんが私の顔を見ている。酷く、楽しげに。
セキさんが握ってる方の手も使ってこの赤くなる顔を隠したいのに。
ツバキからの手紙をとっくのとうに手放して片手で顔を隠してはいるが、セキさんのじっくりと味わうような目元がさらに羞恥を煽る。
指の隙間から見る、応とは言ってくれないセキさんの笑顔。
こんなに幸せでいいんだろうか。口にしていないのにそんな互いの呟きが、重なった気がした。