ヌメルゴンが怖いと思えなくなる。それは自分がおかしくなり始めているからだとわかっていた。だけど恐怖心が麻痺していなければ、私はきっとこの場を支配する二匹に願い出ることなんてできなかっただろう。
「お願いします、体を洗わせてください……」
ポケモンに言葉が通じないことはわかっていた。それでも人間の言葉を使ったのはエムリットがいるからだ。エムリットは私に呼び名を教えてくれた。意識に直接響かせるやり方で、だ。
言葉は伝わらずとも、感情は伝わるのではないだろうか。その可能性にかけて、私はまずはヌメルゴンを見、その後エムリットを見てもう一度、願い出る。
「服も体も、汚いままは辛いの……、どこかで洗わせて……」
私の願いはエムリットの気分を害さなかったようだ。不意にヌメルゴンが立ち上がると、私を背中にと殻の間に乗せる。エムリットはまるで急かすように洞窟の先を浮遊している。エムリットを追いかけるように、ヌメルゴンは歩き出してくれた。
私はようやく洞窟の外へ出た。何日振りかの空だった。美しく晴れ渡った青空を見て、私は自分の時間感覚が狂っていたことをはっきり感じた。
体に吹き付けた大きな風に目を細めていると、ヌメルゴンはゆっくりと私を地面に下ろしてくれた。
洞窟の外は湖に囲まれていた。また湖の外をぐるりと高い山が囲んでいる。
「ひっ!」
湖の中にコイキングやギャラドスの姿を見て、私は後ずさった。同時に、なるほど、と合点がいった。
周りは深い湖、しかも凶暴なギャラドスが居着いている。その外周も険しい山だ。やまびこのように聞こえるのは恐らく獰猛なレントラーの咆哮だ。
人間一人では逃げられやしない。だからヌメルゴンたちは私の願いを呆気なく叶え、洞窟の外へと連れ出してくれたのだ。
湖の水ですぐにでも体と着物を洗いたい。だけどこちらを睨みつけてくるギャラドスが恐ろしい。あのポケモンは気性が荒くて、調査団の面々にも決して近づくなと言い聞かせられている。ギャラドスは空を飛ぶし、はかいこうせんをもその口から吐くこともある。なのでたとえ離れていても、ギャラドスの怒りを買ってしまえば一貫の終わりだ。
何匹ものギャラドスの存在に震え上がる私は、気づけば自分からヌメルゴンに近寄ると、カラの影に隠れていた。
ヌメルゴンはそんな私に頬ずりをする。と思いきや、手の中に持っていた硬い何かを私に渡してくれた。
「これは……?」
それは、一見すると平たい石だった。独特の光沢があり、石というには表面はすべすべとして滑らかだ。元は柔らかかったものがこねられて丸まった、それこそ色のないイモモチのようにも見える。片手で握り込めるほどの大きさで、ひんやりと冷たい。
陽にかざしてよく見ると、私はそれがヌメルゴンの殻と同じ色をしていることに気がついた。
もっとよく見ようとして、私はその何かを落としてしまった。丸い形と、ヌメルゴンのぬめる体液のせいで手から滑り落ちてしまったのだ。
「ごめんなさいっ!」
柔らかな草に埋もれてしまったそれを、私は必死で拾おうとした。けれど焦る指はその石らしきの表面を滑るばかりで拾い上げられない。
機嫌を損ねたらどうしよう、とその恐怖を抱く相手はヌメルゴンではなかった。
本能的に私はエムリットこそを恐れていた。散々私を拘束し、押さえつけてきたヌメルゴンだけれど、一度も怪我はさせられていない。ヌメルゴンは自分勝手に私を扱うけれど、私を傷つけるようなことはしないでくれている。
だけど、エムリットはわからない。食事は与えてくれたものの、無い日もあった。エムリットの気分が向かなければ簡単に私は飢えさせられた。エムリットは私が弱ろうとも別に構わないのだ。
ふと、上の方へぎゅうと引き寄せられるような感覚がした。見ると、エムリットがぼんやりと光っている。エムリットが小さな体に力が集めているのだ。
金色の瞳が眇められた瞬間だった。
私が必死に拾おうとしていたその硬い何かが浮き上がり、まるで餅のように細く長く伸びたのだ。あっと口を開けていると、それはするりと私の左腕へと滑り込んだ。くるくると巻きつくと、それはそのまま固まってしまった。
ちょっと前まで草の中に転がっていたものが、今は私の手首につる草のように絡まっている。
手首の細い部分に巻きついた、おそらくヌメルゴンの一部。戸惑う私を、ヌメルゴンは湖の方へと押す。
「あ……」
見ればさっきまで私を睨みつけていたギャラドスが、私への警戒心を解き、悠々と泳ぎだしていた。
私に起きた変化といえば、手首に絡まるものしかない。体に絡みついたヌメルゴンの一部のおかげで、どうやらこの湖のポケモンは私に敵意を向けなくなったようだ。
おそるおそる湖に足を浸ける。一瞬コイキングが私の立てた波紋に驚いて距離をとったけれど、すぐに戻ってきた。
体の汚れが流れ出し、冷たい水に体が馴染んでいく。同時に私は、ほっと一息吐いた自分に驚いた。周りを恐ろしいポケモンたちに囲まれている状況を思えば、ありえない。
けれど、ヌメルゴンの一部を体に身につけた。それだけでまるでこの湖の仲間にでもなったかのように思えたのだ。
きっとヌメルゴンはこの辺り一帯のポケモンの中でも認められた強いポケモンなのだろう。ヌシのような存在なのかもしれない。そしてエムリットは、そのさらなる上に君臨している。
冷たい水で顔を洗いながら陸の二匹を見ると、ヌメルゴンの周りをエムリットが軽やかに飛んでいる。
まるで戯れているような二匹の様子は微笑ましく見えるが、その実は私を拐い、捕らえ続ける恐ろしいポケモンだ。
コトブキムラはどの方角にあるのだろう。そんなことを密かに考えながら、私は湖の水で体をすすいだ。
逃げる術などなく、陽が傾き始めた頃に私は湿っぽい洞窟の中へと戻された。暗くてじめじめした洞窟だけれど、ヌメルゴンは外にいるときより体を楽そうにさせている。私が湖に体を浸している間も、ヌメルゴンは日陰や洞窟の入り口から私を見ていた。きっと明るい陽の下より、じめっとした場所の方がヌメルゴンには生きやすいのだろう。
洞窟の中に落ち着いたヌメルゴンが、今夜も私を抱きしめようとする。
「ま、待って!」
私は慌てて着物の前を開け、自ら襦袢になった。今日、湖の水で洗ったばかりの着物をヌメルゴンの体液で汚したくないからだ。
本当は襦袢も汚したくはない。けれど、いくらポケモン相手とはいえ裸になるのはなんだか恥ずかしかった。
いつもは私の言葉なんて聞いてくれないのに、不思議とヌメルゴンは私が支度を終えるのを待ってくれた。まだかまだかという首を伸び縮みさせる様子が、なんだか可愛らしく感じられる。
着物をたたんで洞窟の隅に置き、もう大丈夫だと伝えるように体の力を抜けば、ヌメルゴンは柔らかな腕できつくきつく私を抱きしめた。そして体重が乗せられる。圧迫感に私が思わずため息をつくとヌメルゴンののどが低く、ぐるぐると鳴く。じきにヌメルゴンの体液がしとどと溢れ出す。私を隙間なくヌメルゴンの一部で塗りたくるように。余す事無く、この身を溺れさせるように。
着物がじっとりと交じり物のある体液を吸い込んでいくのはやはり気持ち悪い。本当におかしなことだと思うけれど、どうしようもなく後悔が募る。ああ、襦袢も脱げばよかった、と。
→