初めて洞窟の外に出させてもらい、ヌメルゴンの一部がエムリットの力によって体に絡みついた。あの日からヌメルゴンは少しだけ、私を手離してくれるようになった。
抱きしめられてばかりだった私は今、櫛で髪をとかしている。エムリットは気まぐれにムラから食べ物以外のものも持ってきてくれる。その中に紛れていたのがこの櫛だ。
髪に絡まっていた土埃を櫛で払い落としてささやかな気晴らしをする。そんな私をヌメルゴンは殻に閉じこもりながら目を細めては、飽きることなく見つめて来る。殻を前後に揺らす様はうっとりとしていて機嫌が良さそうだ。
私の洞窟暮らしは少しずつ変わりつつあった。
エムリットの力に歪められて、腕に絡みついたヌメルゴンの殻。爪でつつくとキン、と甲高い音を立てるそれの影響は大きい。とにかくポケモンたちの敵意を免がれるようになったおかげで、恐怖心は比べようもなく小さくなって、私も肩の力を抜いて過ごせるようになった。
今では湖のコイキングたちが私の密かな話し相手だ。エムリットに与えられたものの私にはとても食べられない味のきのみを投げてあげると、コイキングたちは喜んで食べて、湖ではねてくれる。元からあまり害のないとわかっているコイキング相手には、心が許せるようになるのも早かった。
時にはコイキングと一緒に泳ぐようにもなった。ヒレに摑まらせてくれる気優しいコイキングが、一匹だけいるのだ。ポケモンの力を借りて泳ぐのに、抵抗はなかった。私はゴルダックともよく水遊びをしていたから。絶対にゴルダックが助けてくれると知っていたので、海でも川でも、私は他の子よりも遠くへ泳いでいけたっけ。ゴルダックの背中にぴたりとくっつきながら泳ぐと、水はまるでふたつに切られたかのように、左右へと分かれていくのは爽快の一言だった。コイキングと泳ぐ時、私はゴルダックをしばしば思い出した。
よく泳いだ日の夜は体がくったりと疲れて眠りが深い。なのにこの洞窟で意識を失うと、私は必ずといっていいほど夢を見る。夢の内容は必ず、ヒスイの大地を空から眺めるものだった。何度も経験していくうちに、私は毎夜見る夢を朧げながら、エムリットの影響だと感じるようになった。意識に何かしら干渉するのはエムリットにはお手の物だし、景色の流れ方がまるでエムリットの飛び方に似ている気がするのだ。
山の上の景色、深い森、滝壺の中、知らない遺跡や神殿。エムリットと繋がった意識の中で、私は様々な場所へと訪れ、そしてそこに生きるポケモンたちの群れに加わる。そんな夢を幾度となく見た。
コトブキムラの景色も、何度か見た。空から見下ろすように見ることもあれば、窓の隙間から家の中まで入り込むこともあった。長くを過ごしたコトブキムラだ。夢の中でも見つける顔たちは全て見知ったものだった。夢の中で、もはや懐かしいムラの人々を見かけると胸が痛くなった。そして目覚めると私は必ず泣いてしまう。
私はなぜこんなところにいるのだろう。帰りたい。人が手作りしたものが食べたい。それが贅沢だと言うならば、あたたかな湯でいいから口にさせてほしい。
洞窟の中は、人間の生きる場所ではない。
それでも慰めはあった。ぬるりと絡みついてくるヌメルゴンの腕だ。柔らかながら、息が詰まりそうなほどにきつく施される抱擁には、情がこもっていることは確かだった。泣き疲れた頃に、それをやられると私は弱かった。気づけば私もヌメルゴンを抱きしめ返して、悲しみをヌメルゴンにぶつけた。
エムリットに通じる夢を重ねるごとに私は、もしかしたら、と考えた。もしかしたらヌメルゴンも夢を通して私を知っていたのかもしれない、と。コトブキムラの生活を覗き、私がどんな人間か元から心得ていたのではないだろうか。
そうだったらいいな、と思う。ただコトブキムラから目についた人間を攫ってきたのではなく、夢を通して私を選んだ。私はヌメルゴンに選ばれた。そう思う方が、どことなく胸がすくのだ。
逃げられないし、食べ物も十分じゃない。暖かな布団が恋しい。それでも私を甘い瞳を向け続けてくれるヌメルゴンの存在は、いつしか私の心の励みになっていた。
ヌメルゴンの機嫌を伺いながらだけれど、洞窟の外に出るのは私の日課になった。
外に出ると静かな水面を裂くようにして水しぶきが上がる。一緒に泳いでくれる、あのコイキングが跳ねたのだ。
ちょっと驚かせるとすぐ跳ねるし、人間の扱いをよくよく知っていたゴルダックとは比べ物にならない。それでも私が洞窟から出て水際に近づくと、向こうから近寄ってきてくれる。水面の上にちょこっと出たヒレの色と形で、私もあの子だと名指しできる。それが私の顔見知りになってくれたコイキングだ。
「おはよう、今日はいい天気だね」
つま先を浸すと水温が幾分か高い。本日の晴天で泳ぎやすくなっているようだ。
足がつかなくなる深さまで泳ぎ出せば、見計らったようにコイキングが私の横に滑り込んだ。
やせいのポケモンを友と呼んで良いか、今も迷いはある。けれどその顔見知りのコイキングがいる日は、私は喜んで湖に身を浸した。時には湖の向こう岸まで泳いだ。お目当ては近くに生えている木に生る果実だ。エムリットの気まぐれな施しを待つのではなく、自分で食べたい時に食べられる蓄えが欲しくて、私は向こう岸に近づいたのだ。
採れたての実を、やはり澄んだ湖の水で一度洗ってから齧る。まだ少し青い実をコイキングにも分け与えながら、私は山間の道を眺めた。
エムリットの意識の中で見たことがある。この道の先が、どこへ続いているかを。
しばらく行けば大きな川辺に出る。それを右目に眺めながら山伝いを歩き、花園を突っ切ればギンガ団も活動する、大志坂の近くまで出られるだろう。
言葉にするのは簡単だ。実際の道のりは絶望的に厳しい。川岸にはユンゲラーやトリトドンの生息地がある。ケーシィならば向こうから逃げてくれるかもしれないが、ムクバードたちの目を出し抜くのは難しいだろう。花園の前には巨大なカビゴンがいることも、上空から見えている。花園も、ヒトを見るなり襲ってくるコリンクたちの縄張りだし、ケムッソの糸に足を取られたら一貫の終わりだ。
エムリットの視点から見ても距離は長く、険しい道のりだ。でも心は帰りたいと求め、叫び出しそうになっている。山間の道さえ抜ければ、この湖の周りよりかはいくらか人がいるのではないだろうか。そして私を見つけ、ムラまで連れて行ってくれたりは、しないだろうか。そんな突拍子もない期待が拭えないのだ。
私はふと、道の向こうに揺れる細長い植物を見つけた。
「……、クスリソウだ」
思わず心惹かれる。あれが手に入れば、私でも簡単なきずぐすりが作れるからだ。洞窟の周りに生えている薬草と合わせれば、さらに強い薬も作れる。
「コイキング、待っててね。あれがあったらきずぐすりが作れるの。私、これでもギンガ団の端くれだったからクラフトを習ったことがあって……。コイキングにはそんなこと言われてもわからないか。ごめん。……すぐ、戻るからね」
ぽかんと口を開けてるコイキング。彼が心配しないよう軽い調子で手を振り、私はゆっくりと歩み出した。湖からだいぶ離れたところに自生するクスリソウを目指して。
クスリソウが欲しいだけだ。逃げるつもりはなかった。それに、簡単に逃げられはしない。人間のいるところまでの距離は長すぎて、届かないとわかっている。けれど一歩踏み出すごとにみるみる広がる、新しい景色。それから背中から遠ざかっていく洞窟に、心の臓がひしゃげたように跳ねる。
ヌメルゴンの殻が絡みついているおかげで、ポケモンは私を襲ってこない。ならばどこまで行けるのか、試して見たい気持ちもあった。もしかしたら、という淡い期待が首を擡げた時だった。
「きゃっ……!」
巨体のわりに柔らかな足音。ぴり、と肌を刺すエレキを黒い毛並みの中に弾かせたレントラーが飛び込んできて、私の目の前に立ちふさがったのだ。
レントラーは敵意とは違うものの、険しい目つきで私を見据える。まるで逃げ出すな、と私をたしなめているようだ。
「そ、そこにあるクスリソウが欲しいだけなの」
言い訳がレントラーに伝わるよう、私はクスリソウを指差した。行って、採取が終わればすぐ帰るつもりだ。大したことじゃないからと下手な笑顔を浮かべながら一歩踏み出した。だけどレントラーは誤魔化されてくれなかった。進路を断つように私の前へと身を呈する。これ以上一歩も前に進ませまいとするレントラーの希薄に、ちりりとした緊張感が走ったそのときだった。
真昼の花火かと思うような光がひらめいて、辺りに濃い影を作った。湖の方から何かが打ち上がっている。咄嗟に振り返る。やはり閃光は洞窟の方からだ。
なんだろう、と思うと間髪入れずまた光線が私の頭上を通り過ぎていく。それは崖際の木を中央から穿ち、なぎ倒した。
唖然としてる私の背をレントラーが鼻の頭で押してくる。早く帰れと言わんばかりだ。
「もしかして、ヌメルゴン……?」
白銀色の光線は、エムリットの鉱物さえ歪ませてしまう禍々しい力とは別物だ。だとしたら今のはヌメルゴンが放ったのだろうか。
まるで同意するかのようにレントラーがさらに強く私を洞窟の方へと押す。そのまま横にぴたりと付き添ったレントラーとともに、私は湖の方へと走り出した。
湖の岸へと戻ると、抜け出してきたときの景色は様変わりしていた。真っ先に目に入ったのは倒れてしまった木々だった。それから、まるで一太刀浴びせられたかのように傷の入った大岩。山肌が崩れ落ちたのだろう、湖の水は濁っている。
その中心に立っていたのはヌメルゴンだ。
周りを破壊したであろうに当のヌメルゴンは、一心に私を見て声をあげていた。必死な様子で、私を呼んでいる。けれど洞窟がある小島の上からは離れずに、うろうろするばかりだ。
あの柔らかい手が私を捕まえようと、何度も何度も空を切っている。その様子はまるで大好きなおもちゃを取り上げられた子供だ。
ヌメルゴンの様子に狼狽えると同時に、私の中に違和感が生まれれ。あのヌメルゴンはこの辺り一帯を壊してしまえる力を持っている。なのに、向こう岸へと渡った私に、届かないとわかっていて手を伸ばしている。
そうか、と気づく。
同時に胸の奥がきゅうと締まる。
ヌメルゴンは。いやヌメルゴンも私と同じ。あの子はあそこから離れられないのだ。
「ヌメルゴン!」
気づくなり私は湖に飛び込んでいた。ヌメルゴンが呼ぶほうへと、必死に手足をばたつかせる。
人間の必死な泳ぎでは遅くてじれったくて、見ていられなかったのだろう。すぐにあの見知ったコイキングが身を寄せて来て、私の横で跳ねた。
湖を泳ぎ切ってすぐ、ヌメルゴンは私を水の中からすくい上げ、強く抱きしめた。それから触角で何度も私をつついて確かめる。
くうくうという鳴き声は悲しげで、表情はまるで身を切られたかのように苦しみに満ちている。
「……、ごめんね……」
自分からするりと出てきた謝りの言葉に、自分で驚いた。それはたった今生まれた感情だからだ。
またヌメルゴンが暴れたら大変だ、ヌメルゴンに落ち着いいてもらわないと。湖に飛び込んだときはその思いが強かった。だけど今は、別の感情が私の胸を占めている。ヌメルゴンを悲しませてしまったことがまるで自分の悲しみのように渦巻いていた。
ヌメラというポケモンにも触ったことのない私には、ヌメルゴンがどこに触られるのが好きなのかの知恵がない。だけどさっき子供のように泣いていた姿を思い出して、頭を撫でてみる。
ヌメルゴンにとって頭の上は触れても大丈夫な場所だったらしい。ヌメルゴンの表情から悲しみが和らいでいくのを見て、私もほっと胸をなでおろした。
けれど、私はヌメルゴンの背後で赤い目を細める存在に気がついてしまった。
エムリットが、怒っている。骨の髄でそう感じた。
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