私がおとなしく洞窟の中に戻っても、ヌメルゴンの機嫌が戻っても、エムリットはまだ剣呑とした様子で私を見据えている。
刺さる視線をぎこちなく受け止める私とエムリットとの雰囲気は重たく苦しい。
ヌメルゴンだけは私が手元に戻ってきたことを心底喜んでいるようで、機嫌良さそうにいつも以上に私を撫でたり抱きしめたり見つめたりを繰り返している。
「ひゃっ」
思わず声をあげたのは、ヌメルゴンからまさかの甘噛みを受けたからだ。
「びっくりした……」
思わずそう言いながらヌメルゴンを見ると、視線が合ったことを喜ぶようにヌメルゴンは体を震わせた。仕返しに彼ののどを撫で回すと、ヌメルゴンは目を細めて喜び、体液を溢れさせた。
私の一挙一動にヌメルゴンは嬉しげな反応を示す。その様は健気だ。最初は悲しげな目をしていると思ったヌメルゴンの表情は、今は甘ったるいものにしか見えない。私は内心呆れていた。このポケモンはどうして人間をここまで気に入れるのだろう。
その夜も夢を見た。エムリットの意識へと繋がる夢だ。
皮肉なことに現実ではちっとも近づけなかったコトブキムラに、夢の中で私は訪れた。
私が連れ去られて短くない時間が過ぎている。コトブキムラでも、季節は変わりつつあるようだ。冬を見据えて木材を貯め始めた家たちを眺めていると、ふと、恋しい気持ちがやってくる。
人間の住む場所へ帰りたい、という思いもそうだが、私が思い出すのはゴルダックとの日々だ。
先代から鍛え上げられたゴルダックを受け継ぎ、コトブキムラのために働かねばならない。その役目は重かった。それでもあそこは私の生きる場所だった。
帰りたいという想いよりも強く募るのは、戻りたい、という願いだった。
過去に戻りたい。もし戻れるのであれば、今のコトブキムラではなくゴルダックがいるコトブキムラがいい。そんなことを思ってしまうのだ。
ゴルダックのことが大好きだった。彼を失って孤独になって、私は泣くに泣けずのまま、生きていかねばならない現実に向き合う毎日だった。そんな中でも私は毎日ゴルダックのお墓を訪れた。もう貴方に会えないと分かりながら、私は貴方の魂を探しに通っていたのだ。
もしコトブキムラに帰れても、私はゴルダックには会えない。そう思うと一層泣きたくなった。
ゴルダック。その名を呼んだのは夢の中だけだと思ったのに。
「痛い!」
そう、私を夢の中から叩き起こしたのは痛みだった。お腹から全身に走った痛みに呻きながら見れば、ヌメルゴンが明らかな敵意を持って私を睨みあげている。
ヌメルゴンが、力を込めて私を噛んだのだ。まるで何かを罰するように、また近い場所にヌメルゴンが噛み付く。
痛いのはいやだ、怖い。本能的に後ずさればそれを許さないというようにヌメルゴンが私の手足を引っ張り、また肩を噛まれる。
「やだ! やめてっ!」
私は悲鳴をあげるものの、それをかき消すのはヌメルゴンのより悲痛な鳴き声だった。どうして泣いてるみたいな叫びを上げるのだろう。どうしてヌメルゴンが態度を豹変させたのか、人間である私にはわからない。それでも荒ぶるヌメルゴンを私は必死でなだめた。
「ヌメルゴン、落ち着いて!」
今日の出来事でわかったことがひとつある。それは、ヌメルゴンを悲しませるとエムリットが怒る、ということだ。
エムリットは私のことをなんとも思っていない。だけど今日、明らかに機嫌を損ねてしまった。その原因は私というよりかは、このヌメルゴンにある。
私が洞窟から離れてヌメルゴンを悲しませたから、エムリットは怒りの感情を抱いたのだ。
「私はここにいるし、どこにも行けない。そうでしょ……?」
ヌメルゴンにどうにか落ち着いてもらわないと、私がまたエムリットの怒りを買ってしまう。そうしたらきっと良くないことが起こってしまう。エムリットは私に容赦をしてくれないから。
本能的な恐怖がゆえに、ヌメルゴンをなだめる私は必死だ。
だけど手遅れだったようだ。
はっ、と横を見るとエムリットが尾を揺らしている。
『
』
私の名前を呼ぶ声に驚いた。頭の中に直接響いたそれは、今まで聞いたことのない声色をしている。エムリットの名を教えてくれた声とは別物だ。幼さと奥に隠し込まれた欲深さを、ねっとりと混ぜ合わせた、人ならざる声。
『
』
私をじっとりと見据える甘い目と目が合う。同時にまた、頭の中、体の芯へと響き渡る。
『
』
ずっと態度で、仕草で、視線で感じていたヌメルゴンの感情がありありと伝わってくる。
『
』
私の名の上に乗っかっている、糖蜜のようにかけられた欲求。溢れて雪崩出す。ああ、恋慕だ。薄らと分かっていたことが、誤魔化しようのない確信に変わる。ヌメルゴンの持つ感情は、恋慕だ。
『
は?』
急に問われて、ひくり、と唇の端が強張った。
私は、ヌメルゴンのことを。
問われるままに一瞬は考えたものの、すぐに名付けられるほどの感情は見つけられない。
「貴方のことは嫌いじゃ、ないけど……」
そう、ヌメルゴンのことは、ポケモンにしては嫌いではない。ゴルダックに次いでよく知ることになったポケモンだ。でもゴルダックへと抱いた安心や信頼と、ヌメルゴンへ抱く感情はまるで違う。
ヌメルゴンを前にして見つけることができる感情は。生きるためにすがりたい気持ちだ。心の拠り所、よすが。熱っぽく見つめられると、苦しみを忘れられる。だからヌメルゴンの愛情は私に必要だ。
それから、それから……。
己の心を奥深く潜り込んで、その感情の形を見つけたのと同時だった。
ぼくがいればそれでいいよね。
そう聞こえるなり、耳鳴りが私の頭の奥を劈(つんざ)いた。
ひどい耳鳴りが私を右へ左へ、上へ下へと揺する。気持ち悪い、あんまりな気分だ。
吐き気をこらえるために口元に手をやると、手のひらがさらりとした水で濡れた。正体は涙だ。なんのためか分からない涙が、私の頬と手を濡らしている。
一体何が起こって、何のために私は泣いていたのだろう。
何が何だか分からない。辺りはひどくぼやけて見えていたが、ゆっくりと焦点が合わさっていく。
私を見つめるのは相変わらずヌメルゴンだ。私を案じてか、悲しげな鳴き声を出している。
「ごめんね、ヌメルゴン」
私は平気だよ、と伝えるように笑顔を浮かべる。するとヌメルゴンも安心したような、可愛らしい表情を見せた。
この子が私を欲しいと願ったから、私はコトブキムラから連れ去られてしまった。そんななかなか困ったポケモンなのだけれど、私はこのポケモンが嫌いではない。
むしろ、好きだ。私を痛いほど愛してくれている、ヌメルゴンが。
彼に見つめられ、抱きしめられると嬉しくてたまらない。私もまた、ヌメルゴンに恋をしているのだ。
ポケモン相手に恋をしているなんておかしな話だとは思う。けれど、いつの間にやら宿っている胸の甘い疼きは雄弁に語ってくれている。私にも恋慕があるということを。
それにヌメルゴンは私にとって特別だと言い切れる根拠がある。
だってこの感情は以前の相棒ポケモンに抱いたものと、まるで違うからだ。
「あれ……?」
おかしい、記憶がうまく噛み合わない。以前の相棒ポケモンとは、なんだ?
違和感から私は過去の記憶を掘り返した。私は
。コトブキムラに暮らしていた。ポケモンを扱ったことがある者として、ギンガ団の末端にも所属していて、最近は「新たな相棒ポケモンを手に入れるように」と、厳しく言いつけられていた。
あれ。またも考えが躓く。私はどのポケモンを扱ったことがあったんだっけ。
「変なの」
……新たな相棒ポケモンを手に入れる、なんて。そんな言い方では、まるで過去に他の相棒ポケモンがいたかのようだ。共に過ごしたポケモンと言ったら、私はこのヌメルゴンしか知らないはずなのに。
もう一匹、この暗い洞窟にはエムリットというポケモンもいるけれど、あのポケモンは私をどうでもいい存在として扱うので、相棒ポケモンとは呼べない。
何度考えても、私にはヌメルゴンしかいない。
そう、ここには私の大好きなヌメルゴンがいる。ここがどこかは分からない。けれど、ヌメルゴンといられる幸せに比べれば些細な問題だ。
あなたがいればそれでいい。そう思えるポケモンが私を見つめている。
ヌメルゴンが喉を低く鳴らして私を抱きしめようとする。私は喜んで、自らその腕の中に飛び込もうとする。
ふと、背後で滴が水たまりに落ちる音がして、私の脳裏に一瞬、とある風景がよぎる。美しい池の近くに小さなお墓がある。誰のお墓だろう。あんな場所にある辺り、人間のものではなさそうだ。なら、あそこに眠るのは?
違和感の正体を考えようとした。けれど、私を抱きとめたヌメルゴンの柔らかさが気持ちよくて、うっとりと彼の身に浸れば、そのまま全てはこの子の愛に溶けて、見知らぬ誰かの記憶は追いかける間も無く、消えてしまったのだった。
おしまい /
→あとがき