いっかい落としたいのち


 満月が、水面の向こう側で白んでいる。冷ややかな月光。それをわたしの口からこぼれる空気と、遠ざかっていく水面へともがく手が交互に遮った。
 ああ落ちている。水の中を。




 普段なら夜中にハナダのみさきになんて近づかない。行ってはいけないと、お母さんにも言いつけられている。暗くて、人気がなくて、水の近くでもあるから危ないと脅すような口調で言われて、わたしは素直に頷いた。
 けれどその日は同じハナダシティに住む男の子が、わたしをここへ来るよう言ったのだ。

『今日の夜、ハナダのみさきに来いよ。話があるから』

 同い年の男の子である彼と、わたしの仲はあまりよくない。彼に何も悪いことなんてしていないのに、いつも彼の方からいじわるをしてくるのだ。
 あれこれ指図するしバカにするし、変なあだ名をつけてくる。けれど、たまに、わたしが本当に困った時ならば、彼の根の部分が出るのか、ぶっきらぼうながら優しくしてくれる。そんな変な男の子は、今朝、急に真剣な顔をしてわたしの前に現れた。かと思ったら、詳しいことは何も伝えないでわたしにここへ来るように言って、返事を待たないで走っていってしまったのだ。
 彼の話が何なのか、心当たりはない。けれど、わたしは彼の言うとおりにした。夜ご飯を食べた後、親には内緒でこっそり家を抜け出してハナダのみさきへと続く、長い橋を渡ったのだった。

 先に着いたのはわたしだった。この辺りで夕暮れまで遊んだことはあっても、夜のハナダのみさきは初めてだ。両親とも来たことがない。すべてが静まり返って、あたりは暗くて。でも、満月の光がすべてをくっきりと映し出している。
 月はすべての暗闇を光で塗り潰しそうなほど白く輝いていた。照らされた草はらはうなだれて何か謝っているように、岩たちは罪が暴かれた人間のように後ろめたそうに見える。それほど、月光は白かった。
 空に浮く月を見上げていたわたしは、自分のもっと近くにもう一つの月があることに気づいた。水面に浮かぶ月だ。

 揺れる鏡の上に、白銀の光がちらちらと映り込む。誘われていると、思った。その光がわたしに「おいでよ」と言っている。
 わたしはみさきに設置してあった柵を乗り越え、暗い水面に手を伸ばした。不完全に壊れた姿で揺らめくそれ。実際に手を伸ばせば触れられる距離に、にせものというには美しすぎる月はあった。

 わたしの頭の中は白い月でいっぱいになって、それ以外のことは何も入ってこなくなっていた。川の深さや、流れの速さ、足元のことも。岸辺の岩と、わたしの靴の相性も悪かった。もう少しで触れられる、と指先を伸ばした瞬間にわたしは足を滑らせ、頭から暗闇へ落ちてしまったのだ。

 突然冷水に体が包まれた驚きで、わたしはすぐに口の中の空気を全て吐き捨ててしまった。代わりにのどの中まで冷たい水が遠慮なしに流れ込み、お腹の中まで満たされる。
 衝撃に備えてつっぱった手も、ばたつく足も水底につかない。息が出来ない苦しさに頭の中は真っ白だ。その何も考えられなくなっている頭に流れ込んでくるのは、どうしようもない、どうしようもできないという事実だった。
 苦しい。息が出来ない。浮かびたいのに、どうしてなの体が沈む。空気を吸いたいのに冷たい水がわたしの全ての体温を吹き消そうと流れ込んでくる。

 どうしようもない。逆らえない。
 死ぬ、と思った。このまま、何もできずにあっけなく。

 すぐにもがくこともできなくなったわたしを、強い力が引っ張った。水の流れとは違う力で、ぐい、と全身を上へ持ち上げられる。
 一瞬頭によぎったのは、わたしをここへ呼び出した男の子のことだった。

 助けてくれるの?
 かすむ視界の中、あの子のことを探したけれど見つからなかった。



 陸の上でうずくまるわたし。全身ずぶ濡れの体に風が当たると冷たくて凍える。
 もうろうとする意識の中、わたしは月を背にした影を見つけた。

 大人よりもおおきな影。体のふちだけが月の色に光っていた。体から流れ落ちる水が遮る目の中でその影はわたしを無言で見下ろし、そっと手をあげた。
 ひゅ、と血の色が見えない白い手が空を切る。その軽い動作とは正反対の重い圧力がわたしの体にかかる。全身、特にお腹より少し上が圧迫される感覚。何が起こったか、全く理解できないまま、わたしは吐き出していた。

「げほっ、げは、はっ……、ぁ……」

 力に押し出されて、お腹の中を満たしていた水が吐き出される。代わりに求めていた空気が痛いくらいに入ってきて、今度は涙が出た。
 身体中に入っていた水を地に流して、息を吸う。それを何度も繰り返すと、ゆっくりと元に戻っていく呼吸。パニックも収まりつつある頭の中で巡るのは、わたしを助けた力のことだった。

 わたしを水の中から引き上げたのは、誰かの手ではなかった。もっと大きくて、わたしの全身を包んで引っ張る、そういう確かな力だった。手先のひとふりだけで、身体を圧迫した不思議な力とも同じだった。
 水の入り込む視界を少し上に上げると白い足が見えた。この人に、今使った力でわたしは助けられたのだ。
 足から順に、体、頭へと。顔を上げて張り付く髪の隙間から、命を助けてくれたその影をたどった。

「ぁ……」

 月の光が、つるりとした彼の体を縁取っている。わたしはそれをなぞって、暗闇の中の彼のすがたを拾い上げた。
 見ていられたのは一瞬だった。見つめたのがいやだったのかもしれない。彼が力をみなぎらせる気配がしたと思ったら、わたしの体がまたふわりと浮き上がった。
 月夜の中、わたしがさっきまで流されていた川を越え、柵を越えて、下ろされたのは道の上だった。ハナダのみさきより、ハナダシティへ近づいた場所に優しく放り出される。

 さっきまでおぼれて死にそうだった。ほんとうに死ぬのだと思ったし、助からないと思った。けれど助かった。それに加えて空を飛んでしまった。あの不思議な白い彼に、会ってしまった。
 どの出来事も、眩しすぎる刺激だった。彼の姿はもうそこにはないのに、感覚は縛り付けられていて、そこから立ち上がることは出来なかった。

!」

 ずぶ濡れのままへたり込むわたしを見つけたのは、わたしをみさきへと呼び出した、あの男の子だった。

「どうしたんだよ!」
「……川に、落ちちゃって……」
「なにやってんだよ! 待ってろ、すぐ大人呼んでくるから!」
「ごめんなさい……」

 濡れたままの体から風が熱を奪っていく。体がぶるりとふるえて、自分で自分を抱きしめる。
 自分が飛んできたと方向を、目をこらして見る。けれど月の光の当たらないそこには暗闇が広がるばかりだ。一滴も水を被ることなくわたしを助けた、あの白い彼は見えなかった。



 その後、かけつけた大人たちに運ばれて、わたしは自分の家に戻った。体を冷やしたせいか、すぐにぼーっと熱が上がってきて、結局かぜをひいてしまった。けれど、それ以外は心配ない、よく無事だったね、とお医者さまは言った。

 夜の危ない場所へわたしを呼び出した、近所のあの男の子とはもう会わないように。両親はそう言った。