あの夜にひいてしまったかぜは長びいた。いつもよりも厳しい口調でお母さんが言う。
「反省して安静にしていなさい、私たちに何も言わないで勝手に家を出た罰よ」
体はもう元気なのに寝ているなんて、つまらないけれど、仕方がない。約束を破って両親にないしょで家を出たのは確かにわたし自身だったので、今もおとなしくベッドで寝ている。
眠くもないのに目をつぶる。そうするとまぶたの中の暗闇に、わたしの考えは深く落ちて行く。
月の光が浮かび上げた、わたしを助けてくれた残像。頭から生えていた骨ばった二本の、つの。みっつのボールのような指。それに、うねるしっぽ。人間ではなかった。でも、わたしの知るポケモンの中では何よりも限りなく、人に似ていた。
「……わたし、お礼言ってない」
それに気づいてからは早かった。
念入りに洋服を着込んで、「少しだけ。あの男の子には会わない」「必ず暗くなる前に帰る」「川や水のあるところには近づかない」と何度もお母さんに誓って、わたしは数日ぶりに家を出た。
体の芯にまだ寒気が残っている。けれど火照る体に向こうの山や水面をなでて届けられた、さわやかな風が気持ちよかった。
ハナダのみさきでは、わたしの命を奪おうとしていた川が何事も無かったように静かに流れていた。太陽が沈むまで、わたしはベンチに座ってじっと彼を待った。
けれど、結局会えなかった。
次の日も、わたしはハナダのみさきに向かった。彼にありがとうと伝えたくて。彼の姿をもう一度、見つめてみたくて。
けれどどんなに待っても彼が現れることはなかった。立ち上がって辺りを少し歩いてみる。でも出てくるのはやせいのナゾノクサたちだ。しびれを切らして彼を呼んでみたりもした。だけどわたしが言えたのは「おーい!」とか、「ねえ!」とか、そんな言葉だった。彼をなんて呼んだら良いのか分からなくて、こんな呼びかけしか出来なかった。
会いたいのに、会えない。彼はしっぽのはしっこも見せてくれない。思い通りにならないと、ますます会いたい気持ちが強くなった。そんな日が続いて、わたしは我慢が出来なくなっていった。
月が痩せて、なくなって、太り初めて、満ちて、また欠け始めた頃。
わたしはついに、またも両親との約束を破った。真夜中。両親が寝静まったのを確認すると、わたしは家を抜けだしたのだ。
庭まではだしで歩いて、家との距離が開いてから手に持っていたくつを履く。そんな気を払うくらいには、いけないことだと分かっていた。
この前抜け出した時よりももっと遅い時刻の夜。あの男の子も眠っているだろう、朝に近づこうとしている夜の中。ハナダのみさきは空気も音も痛いくらいに張りつめていた。
星空の光を遮る木の影を、何度もゲンガーと見間違えた。どこもかしこも本当は人間がいてはいけないような暗闇に思えて、わたしはひとりでここに来たことを後悔した。けれどここで泣いて逃げ帰ったら、両親との約束を破った意味がなくなる。彼を待たなければ。わたしはじっ、と、息を潜めてハナダのみさきのベンチに座った。
彼は来ない。時々草むらが揺れる音やポケモンのなきごえはする。
必死に目をこらして確認しようとしても、人の目では何のポケモンか見分けるのは難しい。けれど、彼の姿は特別で、彼か彼でないかはすぐ分かってしまった。彼の姿はまだ、わたしの中に残っている。
体が隅々まで冷えてきた。けれど彼は来ない。
くしゃみが出た。またかぜをひいたらお母さんはどんな怖い顔をするだろう。今は一体何時頃かも、わたしにはわからない。
朝になる前には絶対に帰ろう。そうすればきっと両親は気づかないから。それまでは頑張ろうと、決める。きっとわたしの限界もそこだ。
空を見上げると、夜闇の色が少し褪せて紺色に近づいていた。柔らかくなった夜空に、月が浮かんでいる。視線を落とすと、あの日と同じように水面ににせもののような、にせものというには美しい月がいた。
わたしはそっと、柵を越えた。
ゆらゆらと揺れる月の様子に、やっぱり誘われているような気はするけれど、もう触りたいと思わない。そう思ってはいけない。柵をぎゅっと握りしめて、でも水面の月に目を奪われていた。
『何をしているんだ』
その声は、感覚に直接触れた。空気をふるわせない、耳から聞こえているのではない声。
振り向くと暗闇。けれど川から反射した光で、ふたつの瞳のある場所が見つかった。彼だ。大人の背を越す高さからわたしを見下ろす視線を見つけた。
「あ、あなたに、会いたく、て」
夜にしゃべるのは難しい。静けさを脅かしてはいけない。でも彼に届けなくちゃいけない。調整に手間取って、わたしのそれはちぐはぐの声になった。
『小娘が歩き回る時間じゃない』
「うん、だけど、明るい時間にはあなたに会えそうもなかったから……」
川向こうにうずくまる暗闇の中に、かすかな目の光。それだけが見えるだけでわたしに湧くのは、嬉しい、という感情だった。
つのも、特徴的な手も、しっぽも見えない。それでも良い。わたしがもう一度会いたいと思ったのは彼の瞳だった。
二本足で立っている。それ以上に彼を〝人間みたい〟と思ったのは、瞳の中にある揺らぎが、なんの言葉でもくくることができないような複雑な感情を持っていたからだ。
あの日。おぼれて息のできなくなったわたしを見下ろした、突き放すような冷たい瞳。けれどそれが一瞬歪みを見せて、そして彼は手をあげて、わたしを助けるため、その指を振ってくれたんだ。
「この前は助けてくれてありがとう、ございました」
『それがなんだと言うのだ』
「分からないけど……ありがとうを、言いたかったの」
『帰れ』
「待って。お礼も持ってきたの」
パジャマのポケットから包みを取り出した。
「クッキー。わたしが作ったの。おいしい、と思います」
両親に怪しまれずに、わたしがひとりで何か用意できるものと言ったら、手作りのクッキーしか無かったのだ。何度も作ったことのあるレシピだし、味見もした。だからこのクッキーは少しの幸せを彼に運んでくれるはず。待っても待っても彼に会えないので、作りなおしもした。今夜のために。
包みを精一杯、向こう側へと差し出す。もちろん彼には届かない。
「食べてくださいっ」
彼は動かないし何も言ってくれない。
しょうがない。わたしは包みをぎゅっとにぎりしめて周りを見渡す。一番川幅が狭くなっている場所を探して、少し後ろへ下がった。
助走をつけて、ぎりぎりのところで踏み切る。
「えいっ!」
精一杯のジャンプだった。けれどわたしは体を冷やせばすぐかぜをひくし、水に落ちればパニックで泳げなくなってしまう力のない子供。かけ声むなしく。着地点に流れる水が見えて、ああだめだと目をつぶった。
冷たいのがまた襲ってくる。今度はちゃんと泳がなきゃ、浅いところになんとかたどり着かなきゃ、と思ったのに。いつまでわたしの体が濡れることは無かった。代わりにまた大きな手に包まれて全身をぐいと引っ張られる感覚。
強引に空間を移動して、けれどゆっくりと川向こうにわたしは下ろされた。
やっぱり、彼だ。あの日わたしを助けてくれたのは、間違いなく。顔をあげると、何をしていると言いたげな怒りをにじませた目が、さっきよりずっと近いところにあった。
「ご、ごめんなさい。ありがとう、ございます……」
『私が恐ろしく無いのか』
「え……?」
思ってもいなかった問いかけだった。だからか、わたしの答えは、彼の低い声とはうらはらの脳天気な声色だった。
「あなたの何が怖いの? わたしを助けてくれたのに」
その後の返事は無かった。返事どころか彼は一言も伝えてくれなかった。
ただわたしが握りしめていた包みはぐい、と見えない力に引っ張られ彼の方向へ飛んでいってしまった。そしてそれを喜ぶ暇もなく、わたしはまた彼の力で空を飛ばされてハナダのみさきどころかハナダシティの入り口まで帰されてしまった。
会えた。しかも、声を伝えてもらえた。喜びと、興奮と、疲れと。いろんな思いはわたしには抱えきれないほどで、倒れるようにベッドに入った。
クッキー、大丈夫だったかな。
その答えをもらえたのは次の日の夜だった。
灯りを消されたくらい部屋。寝不足で重い体に、昨日の興奮が静かに流れている。彼の姿を思い出すと言いようもなく胸がどきどきした。
それでも意識が夢の中に入っていきそうになってきた頃。カーテンの隙間から夜空を見ていたわたしははね起きた。
だって、見覚えのあるリボンがふわふわと夜空を泳いでいたから。うすピンクのギンガムチェック。その柄はわたしがクッキーの包みに使っていたリボンだ。急いで窓を開けて夜空に手を伸ばした。ひと掴み、ふた掴みでわたしは泳ぐリボンを捕まえた。
「………」
思わず声を失ったのは今まで泳いでいたリボンが捕まえた瞬間に命を失ったみたいにただのリボンに戻ったから、ではなく。目の前をもっと大きな影が泳いできたからだ。
その影はわたしの家の窓の外で静止した。
雲の少ない夜空に、ハナダシティに注がれる月の光は明るい。わたしは初めて、彼のちゃんとした顔のかたちを知り、彼の体に宿る、うす紫の色もそこで初めて知ったのだった。