さんどめで見つけた


 窓から後ずさると、彼は滑るように窓枠をくぐって部屋の中へ入り込んだ。わたしはまた後ずさる。

「こ、こんばんは」
『何をしている』
「だ、だって、びっくりして」

 どれだけ願ってもずっと会えなかった彼と二日続けてで会えた。それだけじゃなく、わたしの部屋に来てくれて、こんなにはっきりと姿を見せてくれた。

「……わたしの家、知ってたの?」
『ああ』

 彼はわたしの部屋をもの珍しそうに見渡している。後ずさって後ずさって、もう後ろがなくなって。しょうがないから壁にぴったり背中をくっつけている。彼はそんなわたし自身はどうでも良いらしかった。

「なんでわたしのお家に来たの?」
『知りたかった。ここへ来ればお前がどんな者か分かる』
「そう、なのかな?」

 ぐるりと自分の部屋を見渡す。三才の時に買ってもらった勉強机。カントー地方のタウンマップ。両親はわたしによく本をくれるので、本棚には本がたくさん。分からなくても読みなさい、読んでいればそのうち分かるようになる。二人の言う通りにしたので、わたしは少しだけ周りの子供より難しい言葉を知っている。
 あとはぬいぐるみが、少しだけ。これは叔母や叔父が与えてくれたものだ。

 特に変なお部屋じゃないはず。でも彼にまじまじと見られるとなんだか恥ずかしくて、全部隠してしまいたい。でもそれはできないから、唇をかんでがまんした。

「まだ起きているのか」

 不意にドアの向こうで響いた声に心臓が止まりそうになった。聞くだけて体がこわばるような低い声。お父さんだ。きい……、という音をたててドアノブが回る。わたしは足音をたてないように気をつけながら彼に駆け寄った。そして小声で叫ぶ。

「わたしのお父さん! 隠れなきゃ!」

 彼はぴくりと表情を変えた。だけどもっと焦って欲しい。お父さんに見つかったら彼もわたしも大変なことになる。
 部屋を見回して、わたしより、むしろお父さんよりもずっと体の大きな彼が隠れられる場所を必死に探す。クローゼットの中? ううん、ベッドの影の方がはやく隠れられる! わたしは彼の手、ボールみたいな指を握ろうとした。わたしの彼に対する驚きや変な恥ずかしさは、お父さんに対する恐怖に塗りかえられていた。

 彼を引っ張ろうとしたのに、引っ張られていたのはわたしだった。あの力でくるりと天井近くまで飛んで、ベッドの上に着地するのと、お父さんがドアから顔を出したのは同時だった。

「何をしているんだ」
「ご、ごめんなさ……っ」

 お父さんの方を振り返ったわたしは言葉をなくしてしまった。わたしを叱る目でまっすぐこちらを見ているお父さん。その頭の上に、彼は浮かんでいた。

 そうか。まさか自分の真上に誰かいるなんてふつうは思わないから。だからお父さんも気づけないんだ。お父さんのすぐ上で涼しい顔をしている彼は、天井に寝そべっているようにも見えた。

「どうした。言えないようなことをしていたのか」
「ち、違います」
「じゃあ何だ」

 何か、お父さんを納得させる言い訳を考えなければいけないのに、お父さんの怒りの表情とその上に浮かぶ彼のことで頭はいっぱいになっていた。

「あ、う……」

 見かねた彼が指先を動かすのと、わたしの視界に端にたなびくカーテンが入り込んだのは同時だった。
 そうか。わたしは窓を開け放したままだった。

「なんとか言いなさい」
「あのっ、お星さまがきれいだったから……、です……」
「全く……。どうして寝る時間に見るんだ。星なら、寝る前にいくらでも見る時間があっただろう。計画性がまるでない。今は何をするべきかお前なら分かっているはずだ」
「ごめんなさい……」
「反省したなら早く寝なさい」
「はい……」

 わたしはすぐさま部屋の窓を閉める。カーテンも隙間無く閉める。おとなしくベッドに寝そべり、深く布団をかぶってぎゅっと目をつぶる。それ見届けて、ようやく部屋のドアは閉められた。
 廊下の足音がちゃんと遠くまで行って、階段を降りていく足音を確認してからそっと目を開ける。

「はぁ……」
『あの男が怖いのか』

 彼はまだ天井に平行に浮いていて、寝そべるわたしを見下ろしていた。

「うん、お父さんは怖いよ。とっても。でもあなたは頭が良いんだね。お父さん、ぜんぜん気づいてなかった。……ねえ、もう帰っちゃうの? わたしもっとお話がしたい」
『しかしあの男に見つかるとまずいのだろう』
「そうだけど……、でもしゃべりたい」
『じゃあ私の真似をしてみろ。声を使わないで伝えるのだ。お前にはできるだろう』
「わたしにも、できる? やりたい! でも、どうやって?」

 天井から降りてきた彼はベッドの横に降り立った。わたしも思わず起きあがる。床に立つ彼と、ベッドの上で立ち上がったわたし。視線の高さはようやく一緒になった。

『私の目を見ろ』
「うん」
『声に出さず唱えろ。手始めにお前の名前を唱えてみろ』
「うん……」

 月の光を吸い込んでいる透き通る瞳に、念じる。わたしは。わたしは。わたしは……。

『お前の名前はか』
「っすごい!」
『それも私が読みとるから全てそうやって念じるようにしろ』
「あっ、そっか……」
『やってみろ』
『わかった、わかった、わかった……』
『慣れれば一度で充分だ』
『うん……』

 頷きと一緒にそう伝えると彼がふっと短い息を吐いた。それがわたしには、彼が満足したように見えた。

 それからわたしたちは声を使わないで会話した。ベッドに座るわたしの右横では彼が窓枠に腰掛けている。ふたり並んで部屋のドアを見つめている。
 またお父さんが現れないか心配だった。一度ろうかに大人の足音が聞こえた。けれど、誰も声を使っていないせいか、その足音がドアの前で止まることはなかった。

『……ほんとに聞こえてる?』
『心配ない。私なら読みとれる』
『そっか。ねえ、あなたの名前は?』

 姿を知った次にわたしが知りたくなったのは彼の名前だった。そろそろなんてよんだら良いかが知りたい。けれど彼は答えをくれなかった。

『……お前の名前をつけたのはあの男か』
『うーんと、名前をつけてくれたのはお父さんとお母さんだよ。とある場所で咲く白いお花の名前なんだって。わたしは、見たことないけど』
『親は好きか』
『……好き、だよ』
『私にはお前が怖がっているように見えた』
『うん……』

 こうやって言葉にしなくても気持ちを読みとってくれる彼だから、いろいろ気づかれているのかもしれないと思った。きっとわたしが自分で気づいていない物事も、彼は読み取っているのかもしれない。
 わたしがぽつりぽつり唱え始めたのは誰にも言ったことのない気持ちだった。

『お父さんもお母さんもすごく厳しくて、いつもとっても怖いの。でも良いの。お父さんとお母さんはいつも正しいし、厳しくするのはわたしのためだって分かってるから、大丈夫』

 ふと思い出したのはあの男の子のことだった。夜のハナダのみさきにわたしを呼び出した子。わたしが、その先でおぼれてしまったせいで、もう話すことが出来ない。
 乱暴でいじわるな男の子だった。けれど木登りや水面を跳ねさせる石の投げ方とか、わたしには考えつかないような遊びを教えてくれた。
 あの子のそういうところは、わたしも嫌いじゃなかった。むしろもう話せないと思うと、寂しい。わたしのためにとお母さんが言い渡した〝正しいこと〟だとしても、その寂しさは消せなかった。
 でも、お父さんとお母さんがだめって言うのだから、仕方がないことなのだ。

『わたしは、お父さんとお母さんを信じてるよ』

 大丈夫。まだついていける。そこまで考えて、〝まだ〟なんて言葉が出てきた言葉に自分で違和感を覚えた。

『その親につけられた名前は嫌いではないのか』
『どうしてそんなことを聞くの?』
『私にも呼び名はある。だが、その呼び名をつけた人間が少なくとも好きでは無い』
『そっか……。難しいね』

 彼がさっきの質問に答えてくれなかった理由はそこにあるみたいだった。
 呼び名はある。けれど彼はその名前が好きになれないみたいだ。

『あなたの話じゃなくてわたしの場合、だけど。お父さんとお母さんが大嫌いでも、わたしの名前はだと思う』
『殺したいと願うほど憎くてもか』
『こ、殺したい?』
『ああ』
『そんなこと考えたことないから分からないけど……。でもきっとわたしはって名前のままかなぁ』

 たとえいつか両親を殺したいほど憎んでも、わたしは自分の名前を捨てられないんじゃないかな、と思えた。

『うん、やっぱり……、わたしがここに在るのはお父さんとお母さんがいたからだと思うから。それはきっと見ないフリできない』

 わたしはお父さん、お母さんをもう変えることができない。今までを両親の言うとおりに生きてきた過去は、大人になってもわたしには変えられない。
 だからきっと、名前を変えることはあまり意味が無いような気がした。

『それにとは違う名前を使ったら、生きてきた今までとかを全部捨てることになっちゃうと、思う。それは自分がここにいるわけとか、重ねてきたがんばりとか、今ここにいるつながりも、全部なくなっちゃうんじゃないかな……』

 名前の話を始めてから彼は黙ってしまった。返事も頷きも無い。

 視界のはしっこで、隣にある彼の顔がこわばったのが見えた。イヤな気持ちにさせてしまったんだろうか。ドアを見つめる瞳をのぞき込むと、そこにあるのは嫌悪感なんて簡単な感情じゃなかった。

『あのね、これはわたしの話。わたしは嘘をつくのが苦手だから、そう思うだけ。でも誰だって嘘をついても良いと思う。それで少し気持ちが軽くなるなら、それで良いと思う。うん、良いんだよ。嘘は悪いことばかりじゃないって、わたし思う』
『そうか』
『うん、そうだよ。嘘だってたまには必要だよ。だからわたしはあなたの呼ばれたい名前を教えてくれたら、それが嬉しい』

 彼からの応答がなくなってしまった。わたし下手なことを伝えてしまったかも。彼の気持ちを無視した、自分の考えばっかりを話してしまったかもしれない。
 嫌われてしまったかな。わたしはぎゅっと自分のひざを抱きしめて、その中にできた闇に自分の頭を埋めた。

 つむじに乗ったのは彼のあの丸い指だった。みっつのボールみたいな感覚が髪に触れた。
 驚いている暇はなかった。そこから流れ込んできたものがわたしの頭、まぶたの裏の景色を奪ったからだ。
 見たことのないもの、知らない人の顔。わたしの持ち物ではない記憶がわたしの全てを流そうと押し寄せる。

 その夜、わたしは長い長い夢を見た。