口に噛まされ、のどの中を通る管。体の揺れる感覚。水の中でする呼吸。それはゆりかごと言うには寒気を覚えさせる、不自然にぬくいそこが、彼の生まれた場所だった。
「起きたかい」
そう言ったのはこちらをのぞき込むおじいさんだ。おじいさんは白く裾の長い服を着ている。わたしを閉じ込めるガラスの外は無機質な研究所で、おじいさんはどうやら研究者のようだった。
「気分は、どうだい」
正直、気分がいいとは言えなかった。全身が疲れたようで動くことはままならないし、頭の中もぼやけて上手く考えることができない。
おじいさんのこちらを見る目に宿っている感情の色に、わたしは怖さを覚えた。一見優しげなのに、目の奥が濁って見えて、わたしはその眼孔に愛情の、だめになったものを見つけた。
「 」
おじいさんが囁いた、知らない響き。けれどわたしの意識をくい、とひっかけて、おじいさんの方を、声がした方を向かせる。
それが彼の名だとわたしは気がついた。
「! 起きなさい!」
「っん……」
寝坊したわたしを母が叱る声で目が覚めた。
昨夜彼がわたしの頭に手を置き、膨大な記憶を流し込んだ。それと同時にわたしは寝たか、気を失ったかしたみたいだ。なだれ込んだ彼の記憶の量に耐えきれなかったのか。もしくは、彼が夢を見るようにわたしにし向けたのかもしれない。
「布団をかけないで寝たの?」
母に言われて辺りを見ると確かにわたしはかけ布団の上に寝ていた。どうりで体が冷えている。自分の肩をさすると、水の中に落ちたみたいに冷えていた。少し吐き気もする。
けれど一番まずいことは、お母さんの目が三角につり上がっていることだ。
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの? お父さんがあなたが夜更かししているって言っていたけど、まさか本当のことなの。だとしたらお母さんはもっとあなたに厳しくしなくちゃならないわ。当然でしょう。夜更かしがどれだけ体に悪いか、頭をぼーっとさせるか分かってないでしょう。あなたが言いつけを守らないのが悪いのよ」
「ごめんなさい……」
「……ねえ、。お母さんはあなたの将来を心配して言っているの。、こっちを見なさい。言葉だけじゃ反省したことにならないのよ。あなたちゃんと悪いと思ってるの?」
「思ってるよ……」
「本当かしら。お母さん、最近あなたが変わってしまったような気がするの」
「そんな……っ! そんなこと、ない……」
飛び出た否定の言葉は、自分の身の潔白を証明するためじゃなくて、これ以上お母さんの機嫌を損ねないためのものだった。
「そうかしら?」
お母さんの追求する視線に、わたしはこくりと頷く。ああまた、嘘をついてしまった。
お母さんは震えてるわたしに気づくと不機嫌なままわたしの体温を計った。微熱が出ていることを確認すると、あと一日寝ておくようにと言った。
ぱたんと閉じられた子供部屋のドア。わたしはふう、と息をついた。わたしの様子がおかしいのは長引く風邪のせいだとごまかせたからだ。
お母さんはやっぱり本当のことを言う。本当にわたしはこの数日で変わってしまった。あの、ハナダのみさきで暗闇に落ちた夜。彼と、出会ってしまってから。両親に嘘を平気でついてしまうし、明るい時間より夜の方がよっぽど楽しみになってしまっている。
夜になったら、家を抜け出そうか。それとも昨日みたいに彼から訪ねてくれるのだろうかと、気持ちは夜にばかり向かってしまう。
夜の川でおぼれて死にそうな間際に、現れてわたしを助けてくれた彼の姿。それしか知らなかったのに、昨日の夜、わたしは一気にたくさんのことを知ってしまった。彼を、いろんな角度から見てしまった。
彼を、たくさん知ってしまった。そのことがなぜこんなにも嬉しいんだろう。何をしてても、少し走ったあとみたいな心臓の苦しさは続いている。
「はぁ……」
わたしが見た長い夢。彼の記憶の中に、幸せな光景はあまり無かった。記憶のすべてを振り返ると、一番最初、薬液の中で目覚めたときが一番穏やかな時間だったくらいだ。
あの後、彼は幾日も水の中で眠り続けていた。ゆっくりと体が大きくなっていったが、ある日、「肉体が安定した」とされ、研究所の地を踏むことが許される。
彼が一歩踏みだすと、おじいさんやその後ろにいた人たちは一斉に歓びの声をあげた。
『最強のポケモンの誕生だ!』
けれど彼の誕生が喜ばれていたのはほんの少しの間だった。力が強すぎるとして、次第に力を押さえつけるための研究が始まったのだ。
おじいさんの不可思議だけど優しかった目も変わってしまった。焦ったような表情で監視を繰り返すおじいさんに、おじいさんが彼のことが怖くなってしまったのだと、わたしにも分かった。
彼のことを作ったのはあの研究者たちの勝手な都合なのに。また彼らの勝手な都合で、彼はしめつけられていった。
もうここにいても、何も得られるものは無い。与えられるのは恐怖に染まった視線だ。そう悟った彼は、最後に研究所を吹き飛ばし……。
まだ暖まりきらないない体がぶるりと震えた。
建物が吹き飛んで、黒い煙が空を覆い尽くす。力で研究所を薙ぎ払った時、きっと近くにいた人たちは無事ではすまなかったはずだ。けがだけじゃないかもしれない。彼のせいで死んだ人はいた、と思う。
研究所から自由になった彼は青い海面を眼下に飛び、わたしの家のある町を過ぎ、人間の寄りつかない洞窟にたどり着いた。
そして夢の最後に響いたのは彼の声だった。
お前の呼びたい名前で私を呼んでくれ。
彼の人を殺したかもしれない過去を知ってしまった。他の生き物の命を奪うことは間違いだと教わったわたしにとっては信じたくない過去だった。本来ならば嫌われるだけじゃなく、幸せになることを禁じられる。そんな罰を与えられるような罪だと知っている。
なのにわたしの口からこぼれようとするのは、彼を責める言葉じゃない。
彼はわたしに夢を見せた。名前だけを教えないで、過去と一緒に見せてくれた。隠さず伝えて、わたしに預けてくれた。それがわたしは嬉しかった。恐怖も、戸惑いも、悲しみも全て置き去って、わたしが口に出したいのは。
「ミュウツー」
彼の今までの全てが刻まれた、彼の名前だった。