ごどめになっては帰れない


 それから、ミュウツーとわたしは不思議な仲になった。わたしたちを近づけてくれたのはやっぱり、ミュウツーが教えてくれたテレパシーだった。テレパシーを使えば、遠くにいても繋がっていられる。口に出さなくてもお話しができるのだ。他の人から見れば一人ぼっちの時でも、ミュウツーの意識はわたしのすぐ近くにいる。手をつなぐよりもっと確かな距離にいてくれるミュウツーに、わたしも幾度となくテレパシーを送った。

『ミュウツー。今日、不思議なことがあったの』
『何だ』
『ハナダシティの入り口にね、アーボが迷い込んでいたの。顔は怖いけど、まだ小さなアーボだったから、帰りなさい、ってわたし言ったの。このまま進んだら町に出てしまうから、元来た道の方がいいよ、って。もちろん口で言ったんじゃない、テレパシーを使って見たの。そしたらアーボはびっくりしたようにわたしを見て、草むらに帰っていったの。ねぇ、ミュウツー。アーボにもテレパシーは通じるんだね』

 最初はミュウツーに拾ってもらわなければ通じなかったテレパシーは、慣れてくると他のポケモンにも通じるようになった。
 もちろんアーボの気持ちはわからないから、テレパシーが全て通じたかはわからない。けれど、アーボがただの人間の女の子から逃げるとは思えない。飛び出して、襲って人間の子供を追っ払ってしまうことの方が自然だ。だけどあのアーボは、わたしを見つめてから、怯えた様子なく、去っていったのだ。

 わたしの力が強まっているのだと、ミュウツーは言った。

『私の影響を受けているのだろう』
『そうなの? いつもミュウツーと話しているから、ミュウツーの力が少し貰えたのかな。だとしたら、わたし嬉しい!』

 ミュウツーの言った通り、わたしの力はどんどん強くなっていった。
 はじめはポケモンの気持ちがなんとなく分かるようになった。それに慣れてくると、どんどん鮮明に心が読めるようになった。何が欲しいのか、何を見て何を感じているのか。そのポケモンがどれだけお腹をすかせているかも、自分自身の感覚のように分かるようになったのだ。同じようにわたしの心もはっきりと、ポケモンたちに伝えられるようになっていった。

 ミュウツーと触れ合ううちにやせいのポケモンともほとんど心を通わせられるようになった頃。わたしは別の力を持つようになった。物を触らなくても動かせるようになったのだ。
 最初に物たちが勝手に動き出した時は自分でも怖かった。部屋の本がパラパラと風に吹かれたようにページを送り、ペンやぬいぐるみが宙を飛んだ。
 この怪現象を引き起こしたのがまさか自分の力だとは思わなかった。パニックを起こしたわたしをなだめて、力の使い方を教えてくれたのはやっぱり、ミュウツーだった。

『落ち着くんだ、

 物と怪音が踊る子供部屋。恐怖で縮こまったわたしの横に気づけばミュウツーがいた。異変を察知して飛んできてくれたミュウツーが手を握りしめ、意識を沈めていくようなあの低い声でわたしにささやいてくれた。

『大丈夫だ』
『ミュウツー……?』
『ああ、私だ』
『ミュウツー。これ、全部、わたしなの? わたしがやっているの? わたしはおかしくなっちゃったの? ねえ、ミュウツー!』
『大丈夫だ。おかしくなどさせない』

 あの時、ミュウツーがわたしをすぐに見つけて落ち着かせてくれたおかげで、わたしの力は誰にも見つからずに済んでいる。
 それから夜は一緒に力を使う練習をすることにした。ミュウツーが一緒だから、わたしも自分の変わりゆく力と向き合う勇気が持てたのだと思う。
 おかげで物が勝手に動き出すのは〝たまに〟くらいまで落ち着いた。

 どこにいても、わたしはミュウツーとの交信に夢中になるようになった。わたしが唇を使って話しかけることも、町の誰かから話しかけられることもなくなってきたけれど、寂しいなんてちっとも思わなかった。ミュウツーがわたしの心のほとんどを占めていて、欲しくなればすぐミュウツーと言葉を交わすことができるのだから。わたしは目の前のことに集中できなくなっていった。
 そんなわたしは周りからは、いつもぼーっとしているように見えるらしい。

「……?」

 そうやって未だにわたしに声を使って語りかけてくるのはお母さん、お父さんくらいだ。

「なあに、お母さん?」
「いえ、その……」
「お母さん、見て。今日のお勉強が終わったの」
「本当? ……、えらいわね」

 わたしはお母さんを見上げて口の端っこを引き締めたけれど、笑顔になりきれなかった。お父さん、お母さんが褒めてくれるのが何よりも、一番嬉しかったのに。今は遠いところで呟かれた言葉みたいに聞こえる。

「ねえ、お母さん、見て。昨日の夜、このテキストをぜんぶ終わらせたのよ。ほら、最後のページまでわたし、全問正解したの」
「あら、本当ね」
「お母さん、約束覚えてないの? このテキストが終わったらおこづかいくれるって言ったじゃない。だからわたし頑張ったのに……」
「え、ええ、そうだったわね。ごめんなさい、あなたの頑張りに驚いちゃって。もちろん覚えているわよ、約束だったわね」
「やったぁ! ありがとう、お母さん!」

 お母さんが引き出しから小さな封筒を取り出す。中身の硬貨がたしかにチャリと音を立てる。お金があればいろんなことができる。膨らむ想像に目が輝いた。

「っ! どこに行くの?」
「どこって……。お勉強が終わったんだから、お散歩。行っても良いでしょう?」
「……、分かったわ。すぐ帰ってくるのよ。それとハナダシティから出たらだめよ」
「はーい」

 わたしは素直に頷いた。だってわたしとミュウツーに距離は関係無い。どこにいても通じ合える。
 心の中の、秘密のおしゃべり相手。どんなに怖いお父さん、お母さんでもわたしの心の中までは覗くことはできない。ミュウツーのことはいつまでも秘密だ。

 家のドアをぱたんと閉めて、わたしはため息をひとつついた。
 ここ最近わたしの力はまた強くなってきていた。ポケモンたちのことばにならない感情ばかりを拾っていたはずなのに、人間の気持ちを読みとれるようになったのは、物を動かせるようになった後だった。今何を気にしているか。心の中、本当は何を思っているか。ぼんやりとそれが見えるようなってきた。

「……お母さん、変なの。わたしのことが怖い、なんて」

 さっき見えた、お母さんの心。それは紫と黒が混ざった暗い色だった。
 ここ最近は秘密は増えるばかりだ。けれど、わたしは勉強もして約束も守って、十分良い子でいたはずなのに。
 どれだけ頑張ってもまだお母さん、お父さんの心を満たせない。何が足りないんだろう。何をすればいいんだろう。もっとはっきりとお母さんの心が読めるようになれば、それも分かるかな?

 両親の心を覗いてしまうのは怖い。けれど、覗けばきっと、今以上に〝良い子〟になるヒントが見つかるかもしれない。
 見たい、だけど見たく無い。知りたい、けど知りたく無い。
 気持ちがふらふらと両方を行ったり来たりしているうちに、わたしの力はどんどん強くなってしまうだろう。
 最近は夜が終わるごとに、わたしの感じている世界が変わる。両親の気持ちが見え始めた時もそうだった。最初はなんだか色が見えて、わたしの目がおかしくなったのかと思っていた。正体が分からなかった、なんとなく感じていただけだったのに、夜を超えると、すとんと理解した。これはお母さん、お父さんの心だ、と。

 望んでも望まなくても、そのうちに見えるようになるだろう。きっと、その時には両親の望んでいるもの、その頑張り方もわかるはずだから。そう自分に言い聞かせてわたしは不安な気持ちを追い払った。

 晴れた青空に、薄い月が浮かんでいる。こんな時間にも見える月に、わたしは思わず笑顔になってしまう。わたしは見上げながらテレパシーを送った。

『ミュウツー。おこづかいを貰ったの。お金だよ。わたし、これでお菓子を買おうと思うの。ミュウツーは何が食べたい?』

 丸いキャンディーかな。ガムに、グミ、チョコレート。バニラクリームを挟んだビスケットも大好き。それともシュガーコーティングされたドーナッツ? ドーナッツは、わたしのおこづかいではひとつしか買えないけれど、そしたらミュウツーと半分ずつ食べよう。あのにじゅうまるを半分に割って。
 甘い味覚を思い出してにやけるていると、ミュウツーの気配が揺らいぐのがわかった。テレパシーは思い出した味も伝えてくれているみたいだった。

 月を見ていたその視界のはしっこに、ふと、丸まったしっぽが一瞬だけ映った。尻尾が消えて行った方を見ると、ぴょんと跳ねて上手に木にのぼったコラッタを見つけた。
 コラッタの前足は簡単に木に登れるけれど、きのみをとることは苦手なようだった。前歯の届かないところに実ったきのみを、不器用な前足でつついている。
 かわいい。でもちょっと危なっかしい。
 コラッタの小さな手はきのみをかするけれど、枝からはなかなか離れてくれない。コラッタが身を乗り出す。ひょっとしたらそのまま落ちてしまう気がして、わたしは見ていられなくなった。

『今、とってあげるね』

 突然の声にコラッタは驚いてわたしを凝視した。そんなコラッタも可愛くてわたしはちょっぴり笑ってしまう。
 その場で手をぎゅっと握りしめる。きのみに意識を集中させて、イメージを強く持った。枝と実の間をそっと切り離す、剥がれるイメージだ。
 ぷちり。静かに枝を揺らしてきのみが枝からもぎとられる。次にわたしはそれを見えない手のひらで受け取るイメージを持った。うまくいった。落ちることなく空中にとどまったきのみをコラッタに手渡そうと、今度は押し出すイメージをした。

「あっ!」

 わたしの力で驚いたコラッタは逃げるように後ずさった。だけどそこは細い枝の上。足を踏み外してしまった。このままでは変な体勢のまま地面に落ちてしまう!
 とっさにイメージしたのはコラッタを受け止める、ふわふわのクッションだった。

 わたしのイメージは間に合ったみたいだ。コラッタは地面にぶつかるまえ、ふわりと見えないものに受け止められたみたいに跳ねる。
 良かった……。ほっとしながら、わたしはコラッタをゆっくりと地面に着地させた。

『たすけてくれて、ありがとう』

 わたしよりももっと幼い少年を思わせるそれは、コラッタの声だった。

『ううん。おどろかせてごめんなさい』

 コラッタはしっぽを「気にしてない」という風に一度揺らすと、さっき渡しそびれたきのみをくわえて草むらへ消えていってしまった。

「うっ……」

 ずきん、と頭の奥が痛んだ。意図的に物を操ろうとするのはとても疲れる。しかも生きている物に対して力を使うのは一番難しい。
 でも、上手にできた。やっぱり手の届かない物を動かせるのは便利で、誰にも見られていない時だけわたしはその力を使ってしまうのだった。

『大丈夫か』

 わたしを心配するこの声はミュウツーだ。わたしが部屋の物を無意識に動かしてしまった騒動から、ミュウツーはいつもわたしのことを気にかけてくれている。

『大丈夫だよ、ありがとう』
『そうか』

 ミュウツーはわたしの小さな変化も見逃さない。ミュウツーくらい力が大きければそれも簡単にできてしまうらしい。
 お母さんの前ではできるようになってしまったことが怖かった。なのにミュウツーのすごさを感じると、わたしはミュウツーに憧れを持ってしまう。ミュウツーほどの力を身につけるのは途方もなく遠いことだ。だけどわたしも、ミュウツーみたいに相手のことをずっと感じていたい。

 ミュウツーがわたしのことを知っているように、わたしもミュウツーの何もかもを知りたい。ひとつに溶け合えたら、ふたりの間に秘密はなくなるのかな。

 ああ、もっと、力が強くなれば良いのにな。