『私も、触れて良いか?』
一度聞いてくれたのが意外だった。ミュウツーは自分がどうするかは、いつもひとりで決めてしまうから。
『わ、分かった』
『いやなのか?』
『いやじゃ、ないよ。だけどなんだか、どきどきする、かな……』
ミュウツーがわたしに触るということは、わたしがミュウツーに触られるということ。当たり前のことだけど、緊張はさっきより大きい。だって、さっきはわたしから離れることができたけど、今度はきっとできない。
怖いのに待ちこがれて、心臓はさらに強く、ばくばくと暴れる。ゆらりと揺れるようにミュウツーが腕をのばす。ミュウツーが触ってきたのは、わたしの口だった。
『くち?』
『ああ』
なんで口なのかと聞いたつもりだったんだけど、ミュウツーは相づちを打ってそのままわたしの唇をぐにぐにとゆがめられた。
遊んでいるというよりは、戸惑っているみたいに見える。すぐにかたちを変えてしまう唇を何度も押した。
でもどうして、口を選んだんだろう。理由は分からない。けれど、さっきわたしがミュウツーに触れた時、指は迷って迷って左胸にたどりついた。人間だったらその奥に心臓がある場所。ずっとそこに触ってみたかった気が、していた。
ミュウツーはわたしの唇に実は、触ってみたかったらしい。その奥には、何も無いけれど。
こんなことも出来るんだよ。そう伝えるつもりで、わたしは唇をつきだした。それはミュウツーの指に当たって、ぱちん、とかすかな、シャボン玉がはじけるような音を立てて、離れた。言葉にはなっていなかったけど、ミュウツーの心は驚いて、ざわついたのが分かった。わたしのお腹をなま暖かい風が吹いていったみたいだった。
ミュウツーの指は今度はほっぺたをつつく。だからわたしはぎゅーっとほっぺたに力を入れてふくらませて、その指を跳ね返した。
指先はすべるようにそのまま奥へ進んで、わたしの髪の毛がミュウツーの手にかかる。それはゆっくりと後ろへ払われた。ずっと前にもこんなことあった。顔にかかった髪を流してくれた。けれどそれをしてくれたのはミュウツーじゃなくて、お母さんだった。
すうっとすべるミュウツーの指。気持ちよくて目を閉じると、もっと強く、気持ちよさが感じられた。ミュウツーの指が耳の後ろを通って、あごをなぞるかと思ったら、首の横をなぞられた。その感触は、なんて言ったら良いんだろう。ちょっと変わったむずむずで、耐えているうちにくすぐったくなってしまって、わたしは笑い出していた。
『やだぁ、くすぐったいよ』
くすぐったいのはいやなのに、どうしても一番大きく反応してしまうから、ミュウツーはおもしろくなったみたいだった。
彼の目が細くなってまた首をくすぐられて、笑いながら逃げると、追いかけられた。わたしは雪に足をとられるのに、ミュウツーはふわりと浮きあがって、たったの一歩で近づかれてしまう。そして正面からおおいかぶさるように触られて、わたしは簡単にミュウツーのうでに閉じこめられてしまった。
わたしはミュウツーの左胸にさわるので精一杯だったのに、急に近づいて、体のいろんな部分が触れあう。わたしはミュウツーの、細い首の向こうにある景色を見るので精一杯だ。けれどミュウツーは今度手が届くようになったわたしの背中をなでた。
わたしも気づけば、腕を精一杯のばして、ミュウツーのたくさんに触れていた。お腹のよこ、背中、首のうしろ……。それに宿る温度。
わたしはいつの間にかミュウツーの熱を感じるようになっていた。ミュウツーが、魔法みたいな力をといてしまったようだった。
本当の感覚が戻ってくる。今ふたりでいる寂しい世界の、雪の冷たさ。吸い込んだ空気が冷たい、と思えばじわじわと、指先がかじかんでくる。
雪は痛いくらいに冷たい。寒い。でもミュウツーはあたたかい。平気、何も変わらない。ミュウツーがいるから寒くないのは、さっきとおんなじ。
『雪は冷たいな』
『そうだよ、冷たくないのが変だったんだよ』
『は熱い』
ほんとうは、いつものわたしはこんなに熱くない。今夜は特別に、つま先から顔まで熱いのだ。それは恥ずかしさと緊張のせい。でもそれだけじゃなくて、わたしのせいだけでもなくて。一番はミュウツーの影響だと思う。ミュウツーが、今までにないくらい近くにいるから。
こんなに近づけばミュウツーの体に流れるエネルギーがどくどくと脈打っているのが分かる。ミュウツーが熱いから、わたしも熱くなっているんだ。
頭に触られた時より、手をつないだ時よりもずうっと、ミュウツーが熱いのをわたしは感じていた。
朝、気がつくとわたしはちゃんと自分のベッドで寝ていた。夢心地で目が覚めたけれど、頭がはっきりしてくるとすぐに夜のどきどきがよみがえった。思い出すのはあんなに近かった、ミュウツーのこと。
はぁ、と出たためいきは熱い。おかげで悲しさはどこかへ行ってしまったけれど、今度は夜のことばっかりで頭がいっぱいだ。気持ちはすぐに落ち着かない。
またベッドの中に潜ってしまいたい。けどお母さんに、また風邪をひいたと思われたら困るので、わたしはベッドから降りて、いつも通りの時間に着替えを進めた。
リビングへ降りていくと、お母さんはよそ行きの服を着て、カバンを作っていた。
「お母さん……?」
「おはよう、」
「おはよう……」
お母さんはわたしを見ないまま、カバンの準備を進めている。
「早く、パンだけでもいいから食べなさい」
「……、はい」
早く、というお母さんの言い方がひっかかったけれど、わたしは言葉通り机の上に用意されたパンを一口かじった。
背中を向けたままのお母さんが堅い声で言った。
「。出かけるわよ」
「……いや」
わたしは行き先を聞く前にそう答えていた。だって、見つめたお母さんは堅く心を閉ざしている。お父さんとないしょ話をしていた時よりも強く、何も見せないようにしているお母さんを、わたしは怪しいと思ってしまった。
いやな予感がする。
「わがままを言わないで」
「行きたくない」
「どうして? 別に変な場所じゃないわ」
信じられない、と思った。お母さんは隠し事、ううん、嘘をついている。初めてというくらい強く、この人はわたしの味方じゃないと思った。
「。お父さんと話し合ったのだけれど、あなたのことを病院につれていくことにしたの」
お母さんの口から出たのは、思ってもいなかった言葉だった。
「病院? どうして?」
「理解してね。あなたのためなの、わかるでしょ」
「わたしどこも悪くないよ。風邪ならとっくのとうに治ったよ?」
「そうね、体は平気かもしれないけれど、最近のあなたはいつもぼーっとしてて、心配だから。念のため、ちょっと診てもらうだけよ。何も怖いこと無いわ」
わたしを安心させようとするお母さんの言葉。なのに、わたしにはだまそうとしてくる言葉に聞こえてくる。
耳がひろった音と、読みとれるお母さんの感情が合わさっていなくて、怖い。不気味だ。
「行きたくない……」
「行くのよ」
「いや。お母さん、行きたくないの」
「っあなたのためなのよ!」
今まで何度も言われたことだった。あなたのため、のため、の未来のため。わたしを叱る時、わたしが両親の思い通りに出来なかった時、お母さんとお父さんは何度も言った。おまえのためなんだ。
ずっとそれを疑うことなんて無かったのに。今のわたしには、言葉の裏を見る目がある。だからそれがうそだと分かってしまう。
わたしのためなんか、うそ。お母さんは、お母さんとお父さんのために、わたしを病院に連れて行きたいんだ。
本当は、行きたくない。病院は行ったらだめ、とわたしじゃない何かがささやいている。でも。
「お願いだから変な気を起こさないで……!」
そう目を赤くして、顔をしわくちゃにして、からからの声を出したお母さんが、なんだか大人とは思えないくらい可哀想で、お母さんにそんな顔をさせたのが自分だいうことにも悲しくなって、わたしはかすれて消えてしまいそうな声で「はい」とうなずいた。