とう、とうとう


 心の病院に連れて来られたこと。そこに入院することになって、帰れないことに、わたしは驚いた。でもあまり大きくない驚きだった。
 わたしは、「そっか」とだけ思いながら病院のご飯を食べ、「そっか」とだけ思いながらパジャマに着替えて、「そっか」とだけ思いながら歯みがきをして寝る準備をした。ベッドに入るまでの準備は自分の家とまるで同じで、ちがうことは、病院らしく体温などを記録したことくらいだった。

 夜、ベッドに入ったわたしはほっとしていた。
 お母さんと一緒にいなくて良い。それに、眠ってるかどうかをお父さんが見に来たりしない。眠っても、眠らなくてもよくて、自然と眠たくなる時に目を閉じれば良い。それだけで心の奥が軽くて、とても楽で、その気持ちは全然小さくなかった。お父さんお母さんがいなくてもさびしくない。そんな自分がさびしかった。

『ミュウツー』

 シーツの中に顔まで埋めてから、わたしはミュウツーの名前を呼んだ。もちろん、心の中で。
 いつもなら一日のほとんどをミュウツーとしゃべって過ごすのに、今日は朝から今までその時間がなかった。来たことのない病院に連れてこられて、先生と話して、とても疲れてしまった。

『ミュウツー?』

 早くミュウツーと通じあいたいと思ったのに、返事が無い。
〝まぁこういう力って不安定で、唐突にできなくなったりするんだけどね〟。先生の言っていたことが、急に頭の中をひびきまわる。
 ちがう、とわたしは頭をぶんぶんふった。ただここがミュウツーのいる場所から、遠くはなれているせいだ。そうに違いない。




 次の日から、先生はわたしの力について、もっとたくさんのことを聞こうとした。
 まず、わたしがどんな力を使えるか。ゆっくりと先生に話した。わたしが力を使った出来事を先生に伝える。それは、ミュウツーとの思い出なぞることと同じで、ミュウツーのことを秘密にしたまま先生に力のことを教えるのは大変だった。

 わたしにはまだ、ミュウツーのことを先生に話す勇気がない。話そうかな、と迷うと、ミュウツーの過去がよみがえった。
 彼が研究所にいて、力が強すぎたという理由でおそれられた。そして、ミュウツーは最後、研究所の人を殺したかもしれないことを思い出して、やっぱり言うのはやめようと考えなおすのだ。
 わたしはミュウツーが大好きだけれど、ミュウツーがやってはいけないことをやってしまったと大人にバレるのは良くない気がした。

「聞いた限りでは、テレパシーと、サイコキネシス、サイコメトリー、あと透視ももしかしたら入っているかもね。君、けっこうでたらめだね。なかなかこういくつも出来ないものなんだが……。なるほど……」

なるほどをくり返しながら、先生はペンで紙にぐしゃぐしゃと書き入れる。

「……で、それはいつごろから? 何か、きっかけとか、心当たりは?」
「たぶん、川で、おぼれた時に」
「なるほど。川でおぼれた後にこういうテレパシーとかが使えるようになったのかい?」
「はい……」
「なるほど、なるほど。一番最初に力を感じたのは、使ったのは何だった?」

 ミュウツーがわたしに使ってくれた一番最初の力は、サイコキネシス。手やからだを使わないで、わたしを冷たい水の中から引き上げてくれた。あの時からわたしは変わって、世界も変わったんだと思うと、うれしい気持ちがわきあがる。
 けれどわたしが一番最初に使ったのは、自分の名前を彼に伝えるための力だった。

「テレパシー、です」
「……、思ったんだけどね、君のその力について誰かから何か教わっていたりするかな」
「………」
「テレパシーは、誰かに物理的手段を使わず、直接考えを伝えたりする力のことだ。伝えた相手がいるってことだよね。最初にテレパシーを使ったひとを覚えているかな?」
「覚えてません……」

 一番最初がテレパシーだったことをおぼえているのに、相手をおぼえていないなんて、変に思われる。そっと見た先生は、特に表情を変えていなかった。

「まぁそういうこともあるんだよ。身近な誰かや環境に影響されて目覚めるってことが。その誰かは人間のケースもあったし、ポケモンのケースもあるんだ」
「そうなんですか? ポケモンのことも、よくあるんですか?」
「うん。たとえば、ケーシィが急に家にテレポートしてきて、それから、とか。さんはそういう経験無い?」
「………」
「ああ、でも君はきっかけは〝川でおぼれたこと〟って言っていたね。なるほどなるほど」

 そこまで先生に確認されると、先生はペンを置いた。

「とりあえず午前はこれくらいにしよう。お昼ご飯食べたら二時まで、自由にしてて」

 先生が言った自由、という言葉がわたしの胸につっかえている。お母さんが病院でしばらく暮らすために置いていったバッグ。そこに洋服は入っていたけれど、本やドリル、勉強のためのどうぐはひとつも入っていなかった。わたしは家で、勉強ばかりを頑張っていたけれど、病院にいる間はしなくても良いみたいだ。だけど、勉強ができない。そうすると、わたしはなにをして良いか分からなくなってしまった。

 わたしの毎日の中で大事な出来事だった、ミュウツーとも、まだ話せない。ひとりになると、何度も何度も頭の中で『ミュウツー』と呼ぶのに、ミュウツーは一回も、返事をくれなかった。

 午後、先生はテレパシーやサイコキネシスを実際にやってみてほしいとわたしに言った。

「まぁいつもとは環境がちがうから、出来なくても落ち込まないように。何か、これなら出来そうとかあるかな?」
「……テレパシーをやってみたいです」
「分かった。対象はどうしようか……。伝える相手は人間が良い? それとも、ポケモン?」
「ポケモン。ポケモンが良いです」

 迷わずにそう答えた。わたしが話したのはミュウツーと、周りのやせいのポケモンばっかりで、人間と話したことは無かったから。

 別のお部屋に先生が用意したのはあか、あお、きいろのみっつの箱とマンキーだった。
 先生はなにも言わず、わたしに紙を見せる。紙には〝きいろの箱にポケモンフーズが入っている。開け方は下の絵の通り〟という文章。その下には、開け方を示したかんたんなイラストが描いてある。
 どうやらポケモンフーズのある場所を、テレパシーでマンキーに教えれば良いらしい。
 わたしに出来るだろうか。出来なければ良いのに、と思いながらわたしはマンキーに目を向けた。

『きいろの箱にごはんが入っているよ』

 マンキーはわたしのテレパシーにぴくりとおどろいた顔をした。マンキーがわたしの目を見つめるので、少し笑って続きを伝える。

『開け方は箱の下から出ているひもを引っ張るんだよ。中身はあなたが食べても良いみたい。やってみて』

 マンキーはわたしの様子を見ながらおずおずと、きいろの箱に手を伸ばした。それから箱をかたむけて、下に隠されていたひもをひっぱった。

 無事にポケモンフーズを手に入れたマンキーを見て、わたしはぽっかりとむねに穴が開いた気持ちになった。ミュウツーが返事をくれないこと。その理由が、わたしがテレパシーを使えなくなったからだと、そう思いたかったのに否定されてしまった。
 わたしはテレパシーを使える。ならミュウツーからの返事はないのは、なぜ?

『ミュウツー……』

 一番強い気持ちで彼を呼ぶのに返事は無い。ただマンキーが、『それはだれのこと?』と不思議そうにするだけだった。
 ちがう。自分に言い聞かせる。ミュウツーが返事をくれないわけじゃない。この病院が、わたしがいる場所がハナダシティと遠くはなれているから。だからミュウツーと通じないの。それだけ。

 その夜からずっと、わたしの部屋でいろんなものが空に飛ぶようになった。着替えのお洋服、先生が貸してくれた本、まくらが、部屋じゅうに広がる。ひとりでに浮き上がるものをわたしはぼんやり見上げた。それしか出来なかった。
 前にも一度、こんなことがあった。その時はミュウツーがわたしの手をにぎって、落ち着かせてくれた。だから部屋はふつうに、そうであるべき姿に戻った。

 おかしくなってしまった部屋は、わたしひとりじゃ戻せない。浮かせたくないと思っても、勝手に浮いてしまうのだ。だからわたしはぼんやりと、見上げる。だってそれしか出来ないから。

 わたし自身以外の全てがふゆうする。空中で、涙はビー玉のようだった。