同棲しましょうって、ジニアが言ったのに。その話がどこかに行ってしまった。以来私はジニアとの関係はいつどこで終わるのだろうかと、ずっと考えている。

 ジニアとはひょんなことから知り合った。不可思議で、でも自然体でもある。そんなジニアという人物との付き合いは、本人の人柄に倣って、不可思議かつ自然な流れで始まり、流れていった。
 デートを重ねて意気投合、お互い帰りたくなくなってどちらかの家になだれ込む。交際の過程も、とんとん拍子という言葉が似合うほど順調だった。

 関係のスムーズさ。その要因は全てジニアにあると、私は思っている。彼の優しさや頭の良さ、性格の柔らかさ。言ってしまえばジニアの人柄と才能があるから、私もこのあたたかな湯に浸かり続けるような関係を作れていると感じていたのだ。
 そして私は多分、そんなジニアに必死についていこうとしていたのだと思う。だからボタンをまずひとつ、掛け違えたのは私だった。

「夜におやすみって言ってえ、こうやって、朝におはようって言えるの、いいですねえ。さんもそう思いませんかあ?」

 二人で寝坊をして遅めのモーニングを食べながらジニアがそういったのが事の始まりだった。昨晩の夜更かしで、多分私はまだ寝ぼけていたのだと思う。口に含んでいたパンをジュースで急いで飲み下してから考えるより先に言った。

「いいと思う。ジニアとなら、したいな」

 多分、自分の発言と私の返事が微妙に噛み合っていないことにすぐ気がついたのだろう。え? と言わんばかりにジニアが目を丸くしている。
 その反応で私は自分が的外れなことを言ったと気がついた。

「あー、ごめん。私、その……同棲の話されてるのかと思っちゃった」
「どどどどっ、同棲ですかあ……!」
「付き合ってるんだから、いつかは一緒に暮らすのかもなって思ってたから。そのお誘いだったのかなって」

 付き合って一年も満たないのに同棲スタートはおそらく早い方だろう。だけど次のステージはそこにあって、今までの流れ通りすんなりと始まるものだと私は思っていた。そう思わせるほど、今日までのジニアとの関係は展開が早かったのだ。

「ごめんね。焦らなくてもいいよね」
「いえいえ! ぼくも一緒に暮らしたいです、さんと! しましょう、同棲!」

 あ、言わせてしまったなと。正直そう思った。だから私は間に受けなかった。目の前のジニアは甘く笑顔をとろけさせているが、これはお泊まりから迎えた朝の甘いムードの中で描いた夢想の話であり、ピロートークの延長戦にあるものである。
 そうでしかないと胸中で唱えつつ、けれど私は甘い期待を捨て切ることはできなかった。

「……まずはジニアの仕事が落ち着かないとね」
「ですねえ」
「アカデミーで授業だけじゃなく担任クラスを持つなんてすごいと思う。頑張ってね」

 来月からジニアは生活に大きな変化を迎える。自分の専門分野を教えるだけならまだしも、たくさんの生徒の指導も担うようになるのだ。
 簡単な仕事では無いと思う。それでもジニアが仕事に慣れて余裕が出てきたら、改めて具体的な話をしてみよう。そんな気持ちをそっと胸の内に伏せて笑って、私はまたパンを一口かじった。

 だけど案の定、その話は次の週には白い霧の中へ消えてしまった。

 まずはじめにジニアとの時間が少なくなった。メッセージのやり取りも途切れがちになった。せめてもと思って繋いだ電話も、数分で彼が疲れから船を漕ぎ出す。ふにゃふにゃとまともに喋ることもできないほど睡魔に襲われているジニアを見かねて、私から切り上げるのが定番になった。
 寂しさを紛らわすように私は仕事に打ち込んだ。仕事への逃避は他人からはやる気があるように見えたらしい。おかげで私も以前より急激に忙しくなっていった。

 そうしてあっという間に二ヶ月が過ぎ去った。お互いが必死に我慢を重ねた結果だ。けれどジニアも私も、二ヶ月くらい会えなくても死にはしないんだという現実を思うと、そこに残ったのは虚しさだけだった。
 だから久しぶりにジニアとのデートの日取りが決まっても、私は浮かれることなどできなかったのだ。




 映画は、気づけば終わっていた。私が今日までのやるせない道のり思い出しているうちに、ジニアが束の間の仮眠をとっているうちに。スクリーンにはエンドロールが無味に流れている。
 隣の席でジニアはすっかり寝入っていた。館内が暗くなってすぐに、首がこっくりこっくり揺れていたので、寝るなと思っていたらあっという間に彼の体は休息を始めてしまったのだ。

「はぁ……」

 このため息は”映画というチョイスは間違えたな”という、反省と後悔のため息である。
 前作を一緒に観たから、続編もジニアと二人で観られたらいいなと思って選んだ。歩き回ったりするより体力を使わないと踏んでいたが、疲れの溜まったジニアにはかえって辛いコースになってしまったようだ。
 また、間違えてしまったな。自覚すると胸がぎゅっと潰れそうになる。

 エンドロールも流れ切って、館内が明るくなれば、私たちは出ていかなければならない。
 うたた寝するジニアを私は惜しい気持ちで揺り起こす。

「ジニア、起きて。映画終わっちゃったよ」
「う……。寝てましたあ……すみませえん……」
「ううん。お疲れ様。とりあえず出よう?」

 ふらつく彼の背中を押せば、服越しでもわかるくらいあたたかい。こんなことで少し泣きそうになる自分に、今日はそもそもデートするべきじゃなかったな。こんな危ういメンタルでジニアと会うべきじゃなかったと、また反省を覚えた。

「どう? 少しは寝られた?」
「寝られましたけど……、しょんぼりな気持ちです。さんと映画の感想、わいわあいって話したかった……」
「いいんだよ。実は私も考え事ばっかりしちゃってて集中できなかったんだ」

 映画の間、寝はしなかった。けれど私も私でジニアのことばかり考えていて、内容はうまく頭に入ってなかったのだ。
 楽しみにしていたはずなのに、映画の感想どころかストーリーの解説すらできそうにない。

「勿体無いことしちゃったなぁ」
「考え事……。さん、何か悩みがあるんですかあ?」
「うん、ちょっとね。えっと……、なんかお腹すいたね!」

 本当はちょっとどころじゃない悩みであることは伏せた。本来ならばジニアに不安を打ち明けるべきなのかもしれない。けれどジニアの体温に泣きそうになったりするような今日の脆い私では、まともに話せる気がしなかった。
 ジニアは心配そうな目を私へ向けている。私はごまかすように周りのお店に目を走らせた。ちょうど座れそうなカフェを見つけ、軽食目当てに入って、座った途端だった。

「あのお! ぼくとさんが、一緒に暮らす話なんですが……」

 数秒、固まってしまった。先ほど逃げて誤魔化した話題が、逃れられないぞと言うように、ジニアの口から滑り出してきたからだ。

さん?」
「ご、ごめん。その話、終わったと思ってて」
「………」
「もう無効になったもんだと。ジニアも、気にしないで。あの場のノリで話しちゃった感、あるしね」
「ノリ……」

 寝ぼけて夢見た未来は、目まぐるしくすぎた時間の中で消えて見えなくなってしまった。けれど、終わったとは思っていなかった。今日、ジニアと過ごして、少しでもその可能性が見えたなら、私から話そうとすら思っていた。私が、この人を逃したく無いからだ。

 そう、私はジニアの手を離したくない。結局、彼のことを逃したくなくて、今日まであうっと静かに焦っていた。ジニアについて行かなきゃと、スムーズに流れ出したこの関係をどうにか守って、どこまでも行きたいと。
 だから、おやすみとおはようを言えるのが素敵なんて言葉を、同棲の話だと勘違いを起こしたのだ。

 でも現状のジニアは、デートのひとつでさえ成立させるためにボロボロになっている。そんな彼に同棲の相談なんてできやしない。
 新しい生活を始めるために慣れないこともさせるし、いろんなことを決めなきゃいけない負担もある。きっと我慢だってさせてしまう。
 今日も目の下にうっすらと暗い影を住まわせている彼に、そんな複雑な相談ができるわけがないのだ。

「ノリですかあ……。……そう、ですよねえ!」

 目の下の影と共に笑うジニアが痛々しく見えて、私は小さなため息をついた。

「ジニア。食べ終わったら、今日は早め解散にしようか」
「えっ、ぼくならまだ大丈夫です!」
「ううん。いいの。疲れてる時に会いに来てくれて嬉しかった。早めに帰って、ゆっくり寝てね」

 別れ際、あまりにふらつくのでタクシーで帰ることにさせた彼を見送りながら、私はまたひとつ後悔を抱いた。
 ジニアと喧嘩のひとつでもしておけばよかった。全てがイージーにつながってきたせいで、解けるのも実にイージーに進んでる気がしてならない。あわよくば、喧嘩した時のジニアの顔が見てみたかった。怒った顔でも、なんでもいいから。
 私はジニアとの関係をどこで終えるべきかずっと迷っている。だけどそれはいつ彼を切ってやろうかという迷いではなく、どうしたら彼という存在から手を離さずにいられるかと泣き惑っているに過ぎない。

 今後、喧嘩のひとつもできるかわからないんだ。空飛ぶタクシーの底を見送りながら、そんな状況に気がついて、私はしばらく歩き出すことができなかった。