※「
響かせ」というお話の続きになります。
夕餉ならきちんと食べた。出前にイモモチを、シマボシさんと二人分とって、手を合わせていただいた。だのにそろそろぐう、とお腹の今にも虫が鳴きそうだ。鳴っても仕方あるまいと思えるほど夜更けを、私とシマボシさんはギンガ団にある執務室で迎えていた。
ガス燈の灯りがあるせいだと思った。人が、夜に抗う術を持ってしまったせいで、シマボシさんの仕事はこんな時間まで続いている。
横目で見たシマボシさんは静かに目と筆を走らせ続けている。筆の運びは朝から変わらず澱み無い。私は、少々飽きが来てしまっていて、筆先で墨を遊ばすばかりだ。
夜更けとは言え、辺りには意外に音がある。ポケモンのなきごえが、夜に混じっているせいだ。高い塀でコトブキムラを囲っても、ゴーストタイプのポケモンばかりはどうも入り込んでしまうのだ。
ふう、と小さく息を吐くのが聞こえ、見やればシマボシさんは眉間に手をやっていた。
「シマボシさん、大丈夫ですか?」
きっと頭が痛むのだろう。言うまでもなく働きすぎだ。
「……心配ない。慣れている」
「そーですか」
そんなものには慣れてほしくなかった。しかし私には駄々をこねる事しかできない。幼く唇を尖らせていると、シマボシさんが筆を置き、書物を片付け始めた。彼女の仕事がようやく終わったのだ。
彼女も遅まきながら休みを取るってくれるし、自分も安心して家に帰れる。嬉しくて私に尾があったならばブイゼルがごとく振り回していたところだろう。
それに、ようやく今夜の任から解かれる。解放感を覚えて伸びをしていると、手早く片付けを終えたシマボシさんが私へと歩み寄る。何のご用だろうかとその場で待てをしていれば、シマボシさんはポケモンボールを取り出したのだった。中身は猫目で浮遊する不可思議なポケモン、ケーシィだ。
「
、ケーシィに触れてくれ。なるべくゆっくりと、だ」
「? はい?」
「今夜は私の家に連れて帰る」
「へっ」
とりあえずシマボシの言うままにケーシィの腕にそっと指先を乗せれば、即座に視界が暗転した。いや違う。明かりのない家に飛ばされたのだ。ケーシィの力によって。
ケーシィは私を冷えきった畳の上に放り出すなりすぐさま姿を消してしまった。きっと主人を迎えに行ったのだろう。
私は慌てて囲炉裏に屑を入れ、ポケモンボールを取り出した。
「おロコンちゃん、おロコンちゃん! どうかどうにか頼みます」
まだまだ生意気で私を認めないロコンによくよく手を合わせてお願いをして、火の粉を吐いてもらう。お陰であっという間に火がついた。
火の面倒を見ながら、きちんと加減をしてくれたロコンをよくよく誉めそやしてやる。そのうちに、再びケーシィが現れた。もちろん、主人を連れて、だ。
「気が利くな」
「いや、寒すぎて……今夜も冷えますね」
「そうだな。すぐ湯を張るから待っててくれ」
「え」
「体を拭いてやろう。その足のせいで苦労してるんだろ」
「え゛」
私は慌てて自分に着物、その下の肌の匂いを嗅ぐ。
先日、私はポケモンから逃げる際に足に怪我を負ってしまった。まだ自由に動かすことは叶わず、痛みも残っている。なのせいまだ足には塗り薬に湿布。添え木を固定するために布を幾重にも巻き付けてある。そんな状態の足では風呂に入る事はできない。私はここしばらくを体は拭いて、頭は桶水で洗うことで凌いでいた。
女として、体臭には気を付けていたつもりだった。だがシマボシさんが体を拭いてやらねばと思うほどに自分は臭かったのだろうか。だとしたら、涙が滲むほど恥ずかしい。
「シマボシさあん! わ、私、臭かったですか!?」
「……どうだったかな」
「ちょ、嗅がなくていいです!」
生真面目に確認しようとするシマボシさん。その反応を見る限り、今日一日私が匂っていたというわけではなさそうだ。
「あの、お気持ちは有難いんですけど……。シマボシさんが寝るのが先では」
「寝るとも。
の寝支度を済ませてからな」
「はあ……」
シマボシさんは粛粛と準備を進めていく。桶に湯を溜め、手拭いを揃え、そして隣には畳んである襦袢。それってもしかして、私の着替えか。羞恥心で眉を顰めてシマボシさんを見るのだが、彼女は私の恥じらいなど意にも介していないようだ。
まるで自分の為すことを為すだけだと言うように、細い肩は動き続けている。
やがて私を振り返り、彼女は言い放った。
「脱ぎ給え」
私は長く熱いため息を吐いてから、勝手に茹だる頭を垂れた。ええい、どうにでもなれと己を鼓舞し、震える手で着物の前を開けたのだった。
私の肌を擦るシマボシさんの手つきは、卑怯だと言いたいくらい優しかった。もっと普段の物言いの様に容赦なく、垢擦りが如く扱われるのだと思ったのだが。彼女はむしろ、薄いびいどろの器を扱うが如く私の全身を扱った。
背中に脇腹、頸の際。耳の裏から鎖骨の窪み、胸元から滑り込んで乳房の下。始終、丁寧すぎて擽ったい。
手拭いが夜に冷えてくれば、再び湯に浸ける。脇腹に臍をあたたかな手拭いで撫で終わった後、シマボシさんの手は肩に戻る。両肩を撫でると、二の腕、肘の先。まさかの手指の間から爪の甘皮まで、シマボシさんは逃さず私をあたたかな湯気で擦っていくのだ。
互いに、無言であった。シマボシさんはひたすらに私の全身を拭うことに神経を注いでいた。私は、彼女の真剣なかんばせに息を詰めて見入っていた。
やがて、腰より下に取り掛かったシマボシさんが言う。
「脚はやたらと傷が多いな」
「あー、気づいたらついてるんですよねえ」
「不用心という事だな」
言い返せないし、言い返す必要が無いので私は口を閉じる。生まれて以来ずっと少々迂闊なのが私、
という女なのだ。
そしてその迂闊な女を愛しているのがシマボシという人である。故に私も自分の迂闊さをあまり嫌いにはなれないのだが、今回ばかりは払った代償は重かったように思う。薬の匂いがきつい己の足が目に入れるたび、些か落ち込む。
「この足、ちゃんと治るのかなぁ」
「治る」
治らないかも。静寂にも負けてしまう小さな声だったのだけど、シマボシさんは私の言葉を聞き逃さなかった。
、と名を呼ばれたが、弱音を嗜めるには些か柔な声だった。
「治ってもまた以前のように歩けるようになるかは分からないんですって。また別の、慣らしの訓練が必要だとか」
歩くのに慣らしが必要だなんて、初めは冗談を聞かされているのだと思った。だけど説明するキネさんは至って真剣そのもので、すぐに私も現実なのだと受け入れざるを得なかった。
治りが良ければまた歩けるようになる。けど、駄目だったら杖生活。その説明はおそらくシマボシさんも耳に入れていることだろう。
「……そうだな。治るとは思うが、前のようにはいかないかもしれないな」
気休めを言わないのは実にシマボシさんらしい。これでいい。むしろシマボシさんに優しい嘘を言われたら、そちらの方が状況は非常に悪いように思えて、私は希望を失くしていただろう。
「だが、どちらになろうとも、私の前から居なくならないでおくれ」
「……なんのこと?」
「貴様はそういう人間だ」
私はふう、と息を吐いた。シマボシさんはそれを白状したと受け取ったことだろう。
見透かされていたのだ。もし足の治りが悪く、コトブキムラで足手纏いになるようであれば、私はここを去るつもりであること。
考えてしまったのだ。満足に歩けない私に何ができるのか。今までのように働けなくなった私は、きっと周りに無用な気を遣わせながら生きていく。
そうなるのは、嫌に恐ろしい。
ならば残る道は、故郷に帰って望まぬ結婚をするか。何年も前に家を出ていった足の悪い女には、きっと相応の男が充てがわれることだろう。でなければどこぞの山へと逃れて、そこに骨を寝かせるかだ。
どちらにしようか。その問いは夜毎、私の胸で膨らみ続けている。
「終わったぞ」
「あ、どうもありがとうございます」
肩に優しく真新しい襦袢がかけられる。本当に、全身隈なく拭ってもらってしまった。変な熱がお腹の奥で燻るまま、体が冷える前に前を閉める。するとシマボシさんが言った。
「この際だから足の爪も切ってやろうか」
「え……。確かに自分じゃ切れていないですけど。でも足の指を触らせるのは、その……」
「何を戸惑っている」
「だって汚いですし、恥ずかしいですよ」
「なんだそんな事か」
そういうとシマボシさんは小さな道具箱から爪切りを取り出した。私の恥じらいは、シマボシさんにとっては取るに足る理由でなかったようだ。
「汚くはない。先ほど丹念に拭いた」
「はい、そうでしたね……」
私が足を伸ばすと、シマボシさんは手元に明かりを引き寄せた。十分な明るさがシマボシさんの手元に集まると、足の先が、細く柔らかい指に掬われる。
やがて、ぱち、ぱちという音がして響き始めて私はふと、あの迷信を思い出した。
夜に爪を切ると親の死に目に会えない。幼かった時、周りの大人に何度も言われたことが不意に蘇る。だが私の内心は、すぐさまそこに素直な返答を投げていた。
まあ別に会わなくても良いんだよね。親の、死に目。
今夜知ったこと。シマボシさんは爪を切るのが上手い。刃を入れ終わった全ての指は、非常にすっきりとしていた。全身も肌が一枚衣を脱ぎ捨てたような心地よさがある。
敷いてもらった布団に入っていれば、やがて寝支度を終えたシマボシさんが同じ布団に入ってきた。そして細腕で静かに抱き寄せられる。ぴったりと体をくっつける彼女の仕草で、私は確信を深めていた。
今回の事で私は思っていた以上にシマボシさんに心配をかけていたようだ。足をやってしまった事。今後に障りがある可能性が十分にあること。それを理由に私が、ムラを去る事を考え始めた事まで気取られ、彼女は静かに肝を冷やしていたのだろう。
そうか、だから私を彼女の部屋に配置したのだ。彼女の横に置くことで、行動を見守り、基監視したかった。そして暗に伝えたかったのだろう。外を出歩くことができなくとも、シマボシさんを支える道もあると。そうやって共に生きていける、と。
彼女は更に私を抱き込む。彼女自身の体温を教え込もうとしている。どうか離れ難くなるようにと願って。
私が手負いだから、今日まであくまで柔く伝えてくれた。だけど私がわからずやなままだったら、きっとシマボシさんは彼女にしては愚直な言葉で私を引き止めただろう。
こんな事しなくたって、私は死ぬまで貴女への恋心を抱いて生きるのに。ああ、愛を感じる。
私は腕を彼女の背中に回して、それから細い体をぎゅっと抱きしめる。この薄い胸の内に様々な心配を渦巻かせたのは私だ。シマボシさんの重荷になってしまったことの責任も感じるし、底なしの喜びも覚えた。寝る前だと言うのに目が冴えていく。
「大丈夫です、シマボシさん。私、思い出したから」
思い出したのは最初の感情だ。どうしてこのヒスイの地へと渡ったか。揺れる船に乗ろうと決めたのは、シマボシさんがいたからだった。
シマボシさんと一緒にいたかった。その気持ちが何よりも勝って、故郷、父と母、弟や妹を捨て置いていくことに後悔は無かった。
彼女と生きることに、果てしない夢を抱いたのだ。
強く強く抱きしめていた腕の力を抜いた時には、かつて無く私の体は放心している様子だった。今夜は深く深く眠れそうだ。シマボシさんと共に、どこまでも深く。