ただいマルノーム、17



「そういえば……」


 新調されたランニングシューズを誇らしげに見つめていると、その話題は母親からもたらされたのだ。


「そういえばあの人とは会ったの?」
「あの人って?」
「お母さん、名前は知らないんだけど、時々ミシロに来ていた人がいるのよ。男の人よ」
「何それ不審者?」
「ううん。スーツ姿で、とっても雰囲気の良い人よ」
「……どんな男の人?」
「指輪なんかがおしゃれで。より少し年上なんじゃないかなぁ」
「………」
「時々現れるのに、別に何をするわけでもなくて、お母さんも変な人だと思ったんだけどね、その人ずっとが帰ってないかなって伺ってたみたい」


 そんなはずが無い。お母さんの言葉を理解する前にわたしの頭には否定の言葉が浮かんでいた。
 そんなはず、あるわけ無い。スーツの男が、わたしの帰りを伺って時々ミシロに姿を現した、そんなわけない。

 ひとつ息を吐いた。いや、スーツだけじゃわたしに会いに来ていたという人物を限定出来ない。
 そもそも。本当にそんな男がいたのだろうか。お母さんの話はあやふやな部分ばかりでまだ、信じるに足りない。


「それ……、本当にわたしに会いに来てたの? お母さんの勘違いじゃない?」
「ううん。お母さん聞いたのよ。その人とユウキくんがしゃべってるの」
「へ、へー……」


 そのユウキくんが件の男について教えてくれなかった理由はわかりきっている。
 彼が「ダ」と言いかけたのをわたしが遮った。わたしが「聞きたくない」と駄々をこねたからだ。


「それを聞いた時に、ああ、あの人はに会いに来てたんだなぁって分かったのよ」
「……その人と、話した?」
「ううん。その人から話しかけてきたことは無かったからお母さんも特には。物事には順序ってものがあるじゃない。ね?」


 頭の中で、ユウキくんが笑っている。オレの話聞けば良かったのに、って。

 だけど母親から不意打ちのように知らされてもなお、わたしは思う。なんだそれ。知りたくなかった。

 ミシロで開かない窓を見上げた、あの人がいたなんて知りたくも無かった。あの自信満々な顔が、どんな風に表情を変えたのかなんて、わたしは……。


「心当たり、あるんでしょう?」
「無いよ、そんなの」


 反射的に突っぱねて、嘘をついてしまったわたしを、母はたしなめるような目で見てくる。

 確かに本当に母の言うとおり、わたしの帰りを待ってミシロに度々訪れていた男が存在するなら、とても一途な人だと思う。
 それに報いないわたしは、不誠実な人間と思われても仕方無いと思う。だけど、わたしだって、わたしの気持ちだってそう簡単では無いのだ。

 わたしは、どうすれば良かったんだろう。旅に費やした時間の長さが、未だわたしにのしかかる。

 お母さんもわたしもそれきり押し黙ってしまった。

 もう用事は終わったのだ。帰ろうか、と提案しようとした時だった。


 さわり心地は冷たく、けれど内に走る熱は熱い。そんな指先がわたしを後ろから捕まえる。


「見つけたよ」


 美しい声が耳に走り、母親もわたしも目を見張る。その視界に波形のもみあげが映って、理解が水のように染み渡る。
 母が声にならないため息とともに顔を赤く染める。

 どうやら水のプリンスと謡われた彼、ミクリの美しさは今も健在なようだった。振り返る前にも気づいてしまうくらいに。