涙の理由をカゲツに話すことはできなかった。とても恥ずかしくて言えないとも思ったし、教えたら教えたでまた彼を怒らせてしまうと思ったのだ。なんだかんだ人情深い彼だからこそ、困らせてしまう。眉間にシワを寄せる姿が眼に浮かぶようだった。だから、おろおろとするカゲツにわたしは下手な笑顔を向けるしかなかった。何度も大丈夫、気にしないで、放っておいて落ち着かせて、ひとりで帰れるからと頑なに言い続けて、なんとか別れてきたところだ。
「……っ」
生暖かい風の吹く夜道は、あまり涙腺にはよろしくない。気持ちが緩めば涙腺も緩んで、ほろほろと涙が零れだす。
カゲツめ。あいつのことだからわたしとダイゴを強引に引き合わせたのは、彼なりに思うことがあった、思いやりからの行動だったんだろう。そうだと理性が言い聞かせるけれど、わたしはカゲツが恨めしい。
なんてことを気づかせてくれたのだ。
ダイゴと言葉を交わせる。唇の先、数センチのところにそれを突きつけられて、わたしがずっと押さえつけていた感情が手を離れて暴れ出したようだった。
『もしもし? 誰だい?』
ダイゴの声を思い出す。すると大丈夫だとカゲツに伝えた言葉たちが、瞬く間に嘘になっていく。嘘のつもりじゃなかった、大丈夫だと思ったのに、全然大丈夫じゃない。手のひらに自分の涙が水たまりをつくっていく。
嗚咽に苦しみながら強く自覚する。わたしは、やっぱりダイゴが好きだ。それも、とてつもなく、好きだ。わたしの中に染み付いて、育ち続けていたこの感情は、やっぱり恋だ。
何年も会うことはなかった。だけど駆け出しの頃のわずかな関わりが、尾を引いて、旅をする間もそれは消えなかった。それどころか旅の途中は世界のあちこちにダイゴを感じてしまう瞬間ばかりだった。
触れ合うこともなかった、手紙すら交わさなかった。だけど旅先の景色の中、彼を見つけることはたやすかった。眼差しや、指先や、言葉遣い。引いては寄せる波のように、彼が歩み寄って来た時、彼が立ち去った時のことを、わたしは何度反芻したのだろう。
そして同時に思う。
空想の彼ばかりを見ていたわたしが今、ダイゴを知ってしまったら。どうなってしまうのだろう。
「アンタ」
わたしを呼び止めたのは、深く成熟した女性の声だった。
「大丈夫かい?」
「わたし、は、大丈夫、のつもりなんですけど……。そうは見えないですよね……」
「こっちへ来なさい」
その女性は強気に言い放つと、わたしを夜の海辺へと誘った。
ずっと聞こえていた、ザザ、ザザという波の音が強くなって、わたしを優しいノイズが包み込む。涙に濡れたわたしの手を、指の長い手が捕まえて、無言でわたしを砂浜に座らせた。
「アンタ、名前は?」
「です」
「そうかい、わたしはイズミ。どうしたんだい? そんなに泣き腫らして」
「……っ」
「話してごらん」
わたしと彼女は初対面だ。なのに凛と美しくて、しなやかな彼女にそう言われるともうボロボロのわたしは逆らえず、涙を溢れさせてしまった。
「失恋かい?」
「失恋だったら、こんなに泣いていません……」
わたしのは、失恋よりももっと醜いものだ。強欲が故に、自ら汚泥の沼にはまり込んだようなものだ。
そんな美しい理由で泣いているのではない。なのにイズミさんは、ぴりりと辛い、それでいて清んだ目でわたしを見据えている。
「……ずっと前からゆっくり育って来た気持ちがあるんです。それはやっぱり、言ってしまえば恋愛感情なんだと思います」
わたしを見据えるこの女性が誰なのか、いったい何をしているひとなのか。イズミという名以外をわたしは知らない。だけど限界だった。聞いてくれる人がいるというそれだけで、きりきりと苦しんでいる胸から言葉が溢れ出す。
「だけどわたしにはその気持ちを大事にすることはできませんでした」
「それはなぜ?」
「自覚したのはトレーナーとして旅立ったずっとあとで、気づいた時にはもう会うことすら難しい相手だったから、かな……」
「………」
「別に、それは良かったんです。むしろ恋しさを忘れたいという気持ちは、トレーナー修行にとってはプラスに働いてくれましたから」
抱いてしまった恋は、些細なものだと片付けるためにもわたしはトレーナーの道に打ち込んだ。ダイゴなんか、と思う気持ちはわたしのポケモンに向き合う気持ちを強くしてくれたのだ。
ジムバッジが増えるたびに、ひとつの地方で全ての街を巡り終えるたびに思った。ダイゴよりポケモンを、トレーナーとしての道を選んで、これでよかったのだと。
だけどわたしは帰って来てしまった。故郷のホウエンに。ホウエンの風に吹かれるたびに、ダイゴの気配と生々しくすれ違うたびにさらに確信していく。この恋は直視してはいけないものになってしまった。
「わたしは喜んで、自分から望んでその気持ちを粗末にしてきた。だからしっぺがえしが来たんですよ」
ダイゴに会いたくない理由が、溢れ出る。
「会うのがこわい、すなおになるのが、こわい……」
幼子のような声が出た。
「今まで人生をかけてきたトレーナーとしての全てより、彼が好きだとわかっちゃったら、どうしよう……っ」
そうだ。これは報いだ。自分の気持ちを使い捨てのどうぐのように粗末に扱った、罰なのだ。
ダイゴの存在はきっと、わたしをホウエンに縛り付ける。彼はわたしが遠くへと旅立てない理由に簡単になり得る。ダイゴに会いたいという気持ちを直視してはいけない。意地っ張りを解いた時、トレーナーとしてのわたしが、ダメになる。
「だから彼には絶対に会いたくないんです」