電話口で、息遣いを感じた。それだけだった。
相手は言葉を発さなかった。僕を引き合わせたカゲツもその存在の正体を教えなかった。だから、あれはだったというのは僕の単なる願望に過ぎなかった。馬鹿げた願望だ、正体がわからないそれをだと思いたいなんて。電話口で確かめるための言葉を紡ぐのも憚られた。
長年恋焦がれたせいで、僕は頭がおかしくなってしまっている。息遣いにを感じとるなんて、頭がおかしくなったとしか思えない。
あれはだった。そう思ってしまうと僕は夜が更けるごとに、ひどい気分になっていった。
あれがなら、いつの間にホウエンに帰って来ていたんだろう。
あれがなら、どうしてカゲツと一緒にいるんだろう。
あれがなら、なぜ僕になにも言ってくれなかったのだろう。
あれがなら、がホウエンにいるのなら僕は探し出したいと思う。けれど同時に、走り出せない自分がいる。
目の前が暗く回り始めて、胃の奥がかき混ぜられるような吐き気がして、それでいて歯ぎしりするほど腹がたって、胸が苦しい。
もうすぐ夜が明ける頃になって、やめようと考えた。無言電話の相手はだったかもしれないなんてのは、僕の妄想でしかないのだ。僕がおかしくなっているだけだ。そう思い込もうとした。何年も音信不通の人間が、急に現れるわけがない。なのにそれを追いかけてひとりで空回りするなんてそれこそ馬鹿馬鹿しい。
は帰って来てなんかいない。僕や、全てを置き去りにして、他の地方でトレーナー修行の旅をしている。どこにいるかもわからない、どんな風に成長したかも、今どれくらい髪が伸びているか、切っているのかも知らない。
けれどどこでだってはのまま変わっていなくて、僕を必要としていないことも変わっていないことだろう。
朝になっていつものスーツを着ると鏡の中には普段通りに見える僕がいる。やや顔色が悪いものの、笑っていれば表情でごまかせるだろうと、笑顔を浮かべて見る。これで、が会おうと思えば、会える距離にまで戻って来ているかもしれない。その可能性を得ただけでぐらぐらと揺れだした滑稽な自分は、ひとまずなりを潜めた。
僕は鏡に向かって笑顔の練習をしていた。なのに不意に苦笑いが混じってしまう。こうして昨日までと変わらない日がまた続くんだろう。への消化しきれない感情を抱えたままの、僕の一部分だけが大人になりきれない、そんな日々が。
目の回るような動揺は一夜にして押さえつけて、僕は平静さを取り戻した。そのはずだった。
が帰って来たかもしれないなんていうのは僕の妄想にすぎなかった、ということにしておいたのに。カゲツがバツの悪そうな顔で僕を訪ねてきたせいで、それは確信に変わってしまった。
本来ならそういった表情を完璧に隠せるはずの彼が、謝罪のために隠さずに申し訳なさそうにしている。
「なんだ、その……、悪かったとは思ってる……」
歯切れが悪い彼に、僕は敢えて笑む。感情を抑えるように微笑する。
「やっぱり。は帰って来ているんだね」