ただいマルノーム、39


 暗い廊下、点滅を繰り返す留守番電話の朱色のボタン。恐る恐る、指先で触れる。ボタンは固くなっていて、やけになって指先に力を込めるとカチッという音がした。
 録音があることを知らせるアナウンスの後に、遠い記憶に残ったきりで、あの受話器越しに他人として触れ合った、男の声だ。


『やあ』


 一言で、ぞわぞわぞわ、と薄い稲妻が背筋を走る。


、元気にしているかい?』
「っ!!」

 そこまで聞いて、わたしは咄嗟に受話器を掴み、振り上げていた。音声の再生が強制的に止まる。彼の、ダイゴの声がツー、とダイヤル入力を待つ音に上書きされた。
 ダイゴの声だ。しかも、とわたしを呼んでくれた。わたしがそこにいるとわかって、問いかけていた。たかが録音、たかが音声なのに。顔も見えない、表情はわからないくせに、無理だと思った。久しぶりに触れるダイゴ、数時間前のダイゴは即座にわたしのキャパシティを超えた。

 電話の前に立って、考えたもののもう一度音声を再生する気にはなれなかった。
 自分を情けない、と思いながらも、わたしの手は伸びてくれない。


「頭、冷やそ……」


 母親に少し出かけることを伝えて、家を出る。すでに夜だけれど、ミシロタウン周辺ならそう危なくはない。気をつけなさいね、ポケモンと一緒ならまあいいけど、と母も二つ返事で了承した。
 グラエラが出かけるなら、とわたしの足にそっと尾を沿わせた。

 月の光でグラエナの背が光るのを、ぼうっと眺めながらわたしは夜を歩いた。
 ぬるい夜風に吹かれて体温は奪われて行くも、わたしの動揺は重苦しい塊になって胃の中にある。

 フヨウにとしてではなく、一人のポケモントレーナーとしてリーグに誘われた。個人としてリーグへ赴くよりは、バトルを目的にする方がもちろんやりやすい。それにわたしの頭も、スイッチが入ったようにバトルを、四天王攻略を組み立て始めていた。
 そのままの流れに乗ってチャンピオンロードを辿れるかと思っていた。けれど勢いは彼の挨拶だけで崩された。こんな状態でダイゴ相手にまともにバトルできるはずがない、あいつを倒せない。
 エンジンはかかり始めていた。けれど決意の固さは全く足りていなかったみたいだ。

 ダイゴからのメッセージを全て聞けていないのに、わたしはみるみる落ち込み始めていた。こんなに情けない有様なら、本当にさっさと次の旅に出てしまった方が生産的だ。
 フヨウが戦いたいと言ってくれただけで、ポケモンリーグへの挑戦が今じゃなきゃいけない理由も無い。また別の地方を旅して腕を磨いてからという選択肢もある、けれど。

 走り出そうとしたわたしを停止させたダイゴの声。思い出すだけでまたどこからか熱がせり上がってくるのも厄介だ。このもやもやを、本人にぶつけられたらいいのに。それをできない自分の意気地なしにも深いため息が出る。


「はーあ……」


 途方に暮れていると、グラエナがするりと前へ出た。ずっとわたしの足に尾のふさふさを当てていたのが離れて行く。
 月の光を背負った黒い毛並みが、夜道の奥へ消えていきそうだ。


「ちょっとグラエナ、どうしたの?」


 前へ進みながらちらりとわたしの方を見たから、わたしを置いて行くつもりはないみたいだ。けれど確かに何かを目指して、グラエナは音もなく速度を上げた。
 グラエナがはやあし、わたしはほとんど走るように追いかけると、すぐに目標が見えた。

 夜の中、わたしのグラエナが目指したもの。それはもう一匹のグラエナだった。

 この辺りではポチエナは見かけることはあるものの、進化後のグラエナは珍しい。しかも動作に風格があり、それなりに育ったグラエナのようだ。
 仲間の気配を感じてわたしのグラエナは走り出したらしい。二匹のグラエナが引き合うように鼻先を寄せてお互いの匂いを嗅ぎあったりしている。


「もう、急に先に行くから、びっく、り……」


 言葉がつい、途切れた。だって夜の奥から、気づけなかった気配がぬうっと現れたからだ。男性だ、多分同じくらいの年齢の。赤いフードは夜の暗さを吸って、景色に溶け込んでいた。
 てっきりやせいだと思っていたグラエナはするりと、その男の元へ戻る。


「このグラエナのトレーナーですか? すみません、わたしのグラエナが急に……」


 驚きを抑えつつ彼の顔を伺うと、鋭い目つきにちょっぴり怯んでしまった。目つきばかりじゃなく、口元は好戦的につり上がっている。彼の人相は、正直優しく親切そうには見えない。
 人を見た目で判断するな、とは言うけれどわたしも一応ポケモントレーナーであること以外はか弱い女性だ。警戒心をそっと握った時だった。
 彼はバッ、と音を立ててしゃがみ、わたしのグラエナを撫で回したのだった。

 
「ウヒャヒャ! お前も美人だなぁ!」
「あ、あの……」
「笑ってるような顔しやがって! かわいいやつだぜ!」
「えと……」
「おっ、毛並みがいいな! さてはいいもん食ってるな!?」
「………」


 わたしの警戒をよそに、その男は目尻を下げながらグラエナを可愛がっている。自分のポケモンもよくそうしているのだろう、慣れた手つきでグラエナが触られて嬉しいところを甘く掻いてあげている。的確な撫でに、わたしのグラエナのほうもとろけるように目を細めて嬉しそうだ。


「……、ん?」


 思わず拍子抜けしてしまって、立ち尽くしていると男の元にいたグラエナがわたしを見つめていることに気が付いた。
 一人と一匹は、きゃっきゃうふふと盛り上がっている。残されたわたしと、もう一匹のグラエナ。そっ、と手を彼の鼻の位置に置いて見ると、グラエナは少し匂いを嗅いだ後、べろりとわたしの手を舐めたのだった。

 わたしのグラエナみたいに尻尾を振って甘えたりはしてこない。だけど静かな目で人間を見据えてくるグラエナ。このグラエナを通じて、男の人柄が伝わってくる気がした。


「きみも。かっこよくて可愛いね」


 無意識にそう囁きかけると、彼のグラエナはまんざらでもなさそうに尾を一振りした。


「オレはホムラだ」
「は、え!? あ、わたしはです」
「なんだ? そんな驚いた顔をして」
「いえ。名乗ってもらえるとは思わなかったんです。たまたま道の上で会っただけ、ですし」
「まあ、普通は道ですれ違ったくらいじゃ名乗らねえな」
「です、よね?」
「だが、おれとオマエはポケモントレーナー同士だ。それにこんなに甘えた顔を見せるグラエナを育ててるやつだからな。悪いやつじゃないだろ?」


 むちゃくちゃな理論だ。人間の中には残念ながら悪いことにポケモンを使うやつらがいる。だけどわたしも同じことを感じていた。彼のグラエナにぺろりとひと舐めされた瞬間に、完全に、彼に対する警戒は溶けて消えていた。