ただいマルノーム、41



 絶景の中、風に吹かれながら、わたしとホムラはお弁当を食べている。といっても簡単に作ったサンドイッチとフルーツなんかだ。
 ポケモンたちも横で一緒にきのみなんかを食べている。この景色の良さを分かち合うためにポケモンたちをボールから出したまでなのだが、ホムラは「やっぱりオマエ、すごいトレーナーだろ!」なんて手放しで褒めてくれた。ポケモンを褒められて嬉しくないポケモントレーナーはいない。おかげでさっきからわたしの顔は緩みっぱなしだ。

 ホムラが珍しいポケモンたちに見入るように、わたしは今日初めて出会った景色に見入っていた。
 ああ、あの辺も行ったなぁとか。あの空を飛んでる影はトロピウスだろうから、あの辺がヒワマキなんだろうなぁだとか。
 景色の中に幾重にも重なる思い出が、共鳴するようにわたしを震わせている。

 ふと気づけば、隣に座っているホムラが、わたしを見ていた。視界を邪魔する自分の髪を抑える。数秒、横たわったお互い無言が、わたしの口を開かせた。


「ずっと、うまく顔をあわせることができない人がいて」


 ホムラは、そっと言った。


「昨日、帰りたくないって言ってた話か?」
「うん、そう。わたしが家に帰れない理由。もう何年も会ってない、因縁の存在がいるの」


 案外微笑しながら、わたしはホムラへの打ち明け話を続ける。


「でも、因縁の相手だって思ってるのはわたしだけかも。明らかに意識しすぎてるんだよね、彼のこと。わたしだけが、勝手に」
「………」
「その人に会ってないどころか連絡ひとつもとっていなかったんですけど、ついにコンタクトっぽいものが来ちゃって。といっても留守番電話の録音なんだけどね。昨日、家に帰ったら、電話かかってきたらしくて、録音も入っていて、ちょっと聞いたらもちろんわたしに宛てて彼が喋っていて……」


 、とわたしを呼んでいた。もう少年ではないダイゴの声が。そのことにも、まだわたしはビビっている。


「わたしは、それさえも最後まで聞けなくて……、………」


 フヨウからの報告でわかっていた、ダイゴがわたしの帰りを知ったこと。それでも彼自身の声というかたちで迫って来て、信じがたく感じている。


「情けないったらなかった……」
「ウヒャヒャ! 留守番電話の何が怖いんだよ! 声が殴ってきたりするわけじゃないだろ?」
「それは、そうなんだけど」


 ホムラが笑ってしまうのも仕方がない。でも殴られたに等しい衝撃もあった。
 彼の眼差しが、私を見据えている気配さえした。わたしは明らかに恐怖して、彼の声を途中て切ったのだ。


「んで、逃げたしたってわけか」
「うん、その通りです……」


 なるほどなぁ、とホムラがぼやく。わたしは苦笑いしてしまった。いくらホムラが優しくとも、こればかりは共感してくれなくてもいいと思っている。


「内容も聞かずに逃げるなんて、我ながらひどいと持ってる。だけどその人の声を久しぶりに聞いたら、何かが変わるんだろうなってことだけはわかっていて」
「それが怖いってか」


 ホムラの言葉に、わたしは小さく頷かざるを得なかった。そもそも何年も前、ダイゴからの一通の手紙でわたしは想いに意固地な気持ちがプラスされた。帰ってきて、「誰だい?」というダイゴからの一言でわたしはみっともない泣き顔をカゲツに晒してしまった。
 ダイゴのメッセージを全て聞いてしまったら、きっと今まで以上に心をかき乱される。そして、後には戻れないだろうという予感もある。
 怖いと思う気持ちは滑稽に思える。だけど、それをわたしに拭い去ることはできそうにもない。わたしが暗く、俯きかけたときだった。


「おい、!」


 ホムラのお腹から出る大声。しかもそれが耳の近くからぶつけられて、わたしは飛び上がる。


「な、なに?」
「おまえよぉ、現状維持ってのは楽なもんだよなぁ! 見ないふりして、ごまかし続けりゃいいんだから、無敵みたいなもんだ!」
「うっ……」
「だがな、案ずることはないぜ! 時が来れば自分の腹の底にあったものがグラグラと熱く揺れてくる、マグマのようにだ!」


 ホムラはそっと手のひらを地に、わたしたちが座る岩に当てる。


「こうやって地面に触っても、ほとんどの場合は冷たい。だが地中には必ず、熱いものが走ってんだ。近づいただけで、血が沸騰するような灼熱だ。それが爆発して、吹き出したものの上で、今オレたちは生きてんだぜ」
「………」
「今は何も熱くねえって顔してもな、いつか気づくさ。オマエの中のマグマにな!」
「わたしの中の、マグマ……」
「ああ! その熱さに気づいたときには大噴火さ! ウヒャヒャ!」


 その後、わたしとホムラは予定通りに別れた。いつか彼の仲間や、リーダーのマツブサさんに会う約束をして。だけどその時のやりとり、どうやってさよならとまたねをホムラに伝えたか、わたしはよく覚えていない。
 代わりに浮かんでは消えるイメージがある。冷たい殻の奥底。マグマのように熱く、揺れているもの。それが、ホムラの笑い声と共に、反芻する。





 一晩の外泊を終えて、わたしは自分の家に戻った。そっと家のドアにたどり着いた時にはもう夕暮れだ。電気のつけられていない廊下で、やはりあの電話機の留守番ボタンが点滅している。

 お母さんは買い物にでも言ったのだろうか。家には誰もいないようだ。静かな廊下に、わたしの深い息遣いだけが音を立てていた。

 目を閉じるとまずは暗さを感じる。だけどその後に、まぶたの中を走る血を見つける。

 ホムラが言っていた。オマエの中のマグマ。
 わたしの中にマグマのように熱いものは、あるのだろうか。自分の心は今だに怖がりで、凍えているように思える。燃えるようなものなんて感じない。だけど閉じた視界の中、彼の、ホムラの独特な笑い声がいまだにリフレインする。

 息を吐いて、吸って、また深く吐き切ってから。わたしは電話機の再生ボタンを押した。


『やあ


 流れ出すダイゴの声。わたしの名を呼んでいる。


『元気にしているかい?』


 うん、わたしは元気だよ。声に出さずに返事をする。


『カゲツが教えてくれたよ。君が無事にホウエンに戻ってきてくれて嬉しいな』


 ダイゴは元気? そんな気持ちが喉から出て行きそうになったけれど、続きのメッセージがわたしに被さった。


『一体何年ぶりだろうね、僕たちが同じ時、同じ土地を踏みしめているなんて』


 ざわりとやはり逃げ出したい気持ちが波立つけれど、今だけは見ないフリをする。ただここに立っていれば、そのメッセージは流れていくのだから。奥歯を噛みしめる。


は知っているかい?』
「……、……」


 多分、この辺りからだ。ダイゴの声色が変わった。彼の声を愛しくも懐かしんでいたわたしが、第六感で違和感を覚えた。


『今、僕はチャンピオンなんだよ。誰よりもつよくてすごいのが、この僕だ』


 なんだ? このメッセージは。にわかにピリリとした、静電気のような緊張がわたしを包む。


『……、どうやら待つのは僕の役回りのようだよ』
「ダイゴ……?」


 そのぼやきだけは、ぎゅっとわたしの胸を掴んで痛みをもたらす。呼んでも仕方がないのに、思わず彼を呼んでいた。
 だけど一瞬あった切なさを蹴飛ばすような声が、わたしの目を覚まさせた。


。君のポケモンがどこまで強くなったか、君の旅がどの程度のものだったのか、僕に見せてごらん』
「……っ」
『僕に会いにおいで』


 挑発されている。大人になった彼の口ぶりで柔らかく、スパイスのような意地悪さをのぞかせながら。受話器の向こうでダイゴが、余裕の笑みを浮かべている。


『チャンピオンの、この僕に』


 ぷつり、という音とともに、メッセージはそこで切れた。追加の録音はないことを、電話機の機械音声が知らせてくる。

 わたしは彼に何を期待していたのだろう。彼からのメッセージが何を言ってくれると思っていたのだろう。最初の懐かしむような声がまるで社交辞令みたく感じる。これは、挑戦状じゃないか。ポケモントレーナーから、ポケモントレーナーへ放たれた果たし状だ。


「ダイゴ……、わたし……」


 ふるふると、無意識のうちに握りしめていた拳が震える。


「っダイゴの! ために! 旅してたわけじゃないんだけど!!?」


 わたしはわたしが旅したいという思いから、ポケモンたちと修行の旅をしていただけだ。なのにそれをダイゴめ、僕に結果報告しろみたいな上から目線で言ってくるなんて。
 こらえ切れず、わたしは怒り出していた。


「あいつ、何様よ! チャンピオン様ってかー!!?」


 嫌味みたいに綺麗な顔が思い浮かぶ。わたしが顔を真っ赤にしたのは照れからじゃない、怒りからだ。

 ふつふつと燃え上がるこれは、なんだろう。名前がつけられない。だけど、この感情は、ダイゴからの宣戦布告を受けて、彼を叩きのめせと声を上げている。

 そうだよ。彼の声から逃げたくせに、私は、思っていたじゃないか。こんなんじゃダイゴを倒せない。逃げた夜道で、途方にくれた。こんなんじゃあいつを倒せない、と。
 勝ちたい、倒したい。どうやらわたしは無意識のうちにそんな気持ちを飼っていたらしい。ホウエン地方のチャンピオンになった男、いやこの世界で指折りのポケモントレーナーとなったダイゴに対して、勝とうだなんて思っている。

 マグマだ。そこにあると気づいた瞬間、私の血を沸騰させる。
 脳裏でホムラがあの独特の笑い声をあげている。


『気づいたときには大噴火さ、ウヒャヒャ!』


 待ってなさい、ダイゴ。わたしがあなたに勝ってやる。