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ダイゴさんと洞窟で出会った他地方のトレーナーの続きのお話。
朝目が覚めたら、急に体を伸ばしたりなど、してはいけない。指先やつま先、そういった体の末端からゆっくりと動かすことになっている。体に急な刺激を与えないように片手、片足ずつ立ててわたしはベッドから起き上がる。自分の体が違和感を訴えないことを確認しながら、常温の水を飲んで、そのあとは体温や血圧や脈拍を測定して、シートに記入する。
体温は平熱。血圧も脈拍も異常なし。朝食をとって、体の不調はなさそうなことを確認した。どうやら今日のはわたしは、外出することができそうだ。
つばの広い帽子を目深にかぶり、飲み物やモンスタボールをセットして外に出ると、目の眩むような日差しがわたしを襲った。
「
ちゃん」
「!」
ダイゴさん、今日も来てくれた。わたしは分かりやすく喜んででダイゴさんに走り寄った。こうやって家を出てするダイゴさんに会うことは不思議でもなんでもない。なぜなら今のわたしが滞在しているのはダイゴさんの家の隣だからだ。
洞窟で倒れたところをダイゴさんに助けられ、大事をとってなんと一ヶ月も入院したあと。結局旅を再開するほどの体力がつけられないと判断されたわたしは、しばらく静養する場所として、おそろしいことにダイゴさんに集合住宅の小さな一室を与えられていた。
これでも遠慮はしたのだ。ものすごくした。何度も恐縮して、そこまでしてもらうわけに行かないと懇願した。だけどダイゴさんはわたしが心配だから、と最初はトレーナー向けの宿泊施設に住まわせようとしてくれた。費用は気にしなくていいからと言われると、逆に血の気が引いた。顔を青くしてできないと訴えると、次は一軒家を見せてくれてそれに気を失いそうになったりもした。どうにか断るとダイゴさんはとても残念そうな顔をして、こう言った。
『お金のことを気にするなら、僕の家のとなりに空いている部屋がある。以前も遠くから来たトレーナーがしばらく滞在していてた。そこに入居してしまう方が安上がりだけど』
見せてもらった部屋は今までの提案の中では一番小さくて、そして住みやすそうだった。必要なものがちゃんと揃っていて、だけど自分の身に余るような不必要なものはひとつもなくて。部屋を見渡せば見渡すほど、自分がポケモンたちとここで生活する様子がすんなりと思い浮かんだ。平たくいうと、気に入ってしまったのだ。
『決まりだね』
ここにするだなんてまた一言も言っていないのに、ダイゴさんは手続きを進めようとする。
でも、やっぱりそこまでしてもらうわけにはいかないと、どうにかダイゴさんに納得してもらえる言葉を絞り出そうとした。したのだけれど。
『本心は、ここに住んでくれたら良いって思っていたんだ。心配になったらすぐに顔を見に来られるからね』
そう歯を見せてはにかんだダイゴさんの、嬉しそうとも楽しそうとも言える表情に気づけばわたしは頷いてしまっていた。そうしてわたしはトクサネシティに滞在することになってしまったのだ。
「おはようございます、ダイゴさん」
「おはよう」
挨拶もそこそこにダイゴさんはわたしと視線の高さを合わせると、その清らかの帯びたアイスブルーの瞳でじいっとわたしの顔色を観察してくる。うっと息が詰まって、暑さもあってわたしが汗を滲ませていると、ダイゴさんはさっとわたしのおでこに手を当てた。
「ダイゴさん、汗かいてるので、その……」
「汗をかいているなら逆に安心だね。うん、今のところは平気かな」
「平気ですよ。家から出たばかりですし」
出会ったときが命の危機に瀕しているところだったからか、それとも元々のこのひとの性質なのか、ダイゴさんはとても優しく、とても心配性だ。
でもダイゴさんの心配が的中することも少なくない。ここに滞在すればするほどに感じる。ホウエンの気候はわたしに全く合っていない。
元から体が強い方ではなかった。幼い頃はよく高熱を出しては両親を心配させていた。ヒュウたちと同じ遊びをしてもすぐ体調を崩すから、他人より体が弱いことは自覚していた。それでも自分なりに体を鍛えてトレーナー修行の旅に出て、旅に体の方も成長を重ねたつもりだった。けどホウエン地方に来てそれらは一気に悪化した。激しい運動をするとすぐに座り込んでしまうし、温かな気候のわりに風邪を引きがちだ。倦怠感を覚える日も多い。
わたしの体は十分、周りを心配させるに足る脆さになっていた。
「今日はこれからどこかに行くのかい?」
「いえ。そういう予定はないんですが……」
わたしはカバンに入れていたものをダイゴさんに見せた。
「イシズマイのたまごです。この子を孵化させるために、今日は歩こうかと」
「へえ。君のイワパレスのかい? もしかして、誰かに譲るのかな」
「そうなんですよ。この前急に声をかけられて、ホウエンじゃ見かけないポケモンで珍しい、って熱く語られまして」
気づけばダイゴさんが笑顔のまま、ぴくりと片眉を上げていた。
「へえ。大丈夫なのかい、そのトレーナー」
「もちろん大事にすると約束してくれました。それにきっと何かあったらわたしが、近くにいられるから、なんとかしてあげられると思うんです」
そっと、ダイゴさんの反応を伺いながら言葉を続ける。
ダイゴさん、どういう表情をするのだろう。心配をかけていて、住む場所をもらって、なのにまだしばらくここにいるつもりだと、暗に言ったようなものだった。
「育成に詰まったらアドバイスもしてあげられますし、もし彼が」
「彼?」
「彼、が、もしイシズマイを扱いきれなかったとしてもわたしがいてあげられる、から……」
言いながら、わたしはしどろもどろになっていく。目の前のダイゴさんの顔色が、笑っていない瞳が、わたしの胸を責め立てる。
「そういうのって、だめ、でしょうか……」
本当ならわたしはイッシュ地方に帰った方が良い人間だ。すぐ体調を崩して、周りに迷惑をかけてばかりいる。少し頑張っては寝込んでを繰り返して、ホウエンを巡る旅なんて夢のまた夢だ。もうトレーナー修行の旅は形をなくして、砂のように手からすり抜けていった。だから、わたしはイッシュに帰るべきなのだ。幼なじみや家族のいる場所へ。だけど、帰りたくないと思ってしまっている。その理由は目の前で、男のひとのかたちをしている。
この考え方は危険だ、とすぐに気がついた。わたしがここにいる理由の全てがダイゴさんでしかないなんて。もし今、ダイゴさんに嫌われてしまったら、失望されてしまったら。わたしの身に案じる価値などないと気づかれてしまったら……。
ホウエン地方がわたしを弱くさせた。それは何も身体だけの話じゃない。ぽたぽたとたまごの殻を濡らすのは、わたしのぬるい涙だった。
「どうして泣くのかな」
「……っ、ごめんなさい、急にこんな……。困りますよね、ごめんなさい……っ」
ダイゴさんに見捨てられたら。それは考えるだけで全てが凍りつくように恐ろしい出来事だった。だから想像だけで泣けてしまう。
「不安がることないよ。いつまでだってここにいて良いんだから」
「いつまでも……?」
「そうだよ。僕も君を手放す気は無いよ」
「………」
「でもごめん。
ちゃんがそうやって泣くのは僕のせいだね」
この人に責任を求めるつもりなんてない。けれど、ダイゴさんの言うことは間違っていなかった。全ての原因はダイゴさんだ。わたしをここにいさせたいと思わせたのもダイゴさんだ。ダイゴさんでしかないのだ。ここにいる理由の全部をダイゴさんが握っている。
「ホウエン地方のこと、君が嫌いにならなくてよかったよ」
「はい……」
嘘だ。ホウエン地方とわたしは相性が悪い。ここにいることはわたしにとって良いことではない。なのに頷く。ここにいたいから。体が辛くても苦しくても、ここにいたいと願っている。
だけど願いの裏側で、ダイゴさんがいなければと思っている。ダイゴさんさえいなければ、ホウエン地方にいる理由もなくなる。なのに、わたしの幸福や安心や胸の高鳴りのような、苦しくもきらめくもの、痛みを伴って輝くものたちはすべからく甘くて優しい彼の手のひらの中にもうおさめられていて、ダイゴさんにぎゅっと抱きしめられるとすぐに内側から満たされて、良く効く薬みたいに次第に様々な不安を忘れゆくのだった。