※ネズさんのお話の続き
街に蓋をするような曇り空が、今日は特に重くのしかかってくる。これから雪が降るかも。赤くなった鼻先で空気の匂いを嗅いだら、痛いくらいだった。
スパイクタウンはガラルの中でも寒冷な土地だ。滅多に晴れないのでそもそも空気があったまることが少ない。あったまったとしても北のキルクスから、氷塊の浮かぶ水面を越えて冷たいかぜが吹き抜ける。
雪でも降ったらキルクスみたいに愛されたかもしれないのに、実際のスパイクタウンは味気ない街だ。スタジアムもないし、街には下ろされたきり、上がらないシャッターが目立つ。それをいいキャンバスがあったとばかりに散りばめられた張り紙とグラフィティ。どうしようもない。
でも私は、まだこのスバマイクタウンで生きている。
はぁ、と吐き出した白い息が登っていく。足元にはジグザグマがピンクの舌を垂らして私を見つめている。口の端っこが上がっていて、人間にはジグザグマが笑っているように見え、愛らしい。
「帰ろっか」
きっとこれから帰る私の部屋は暗く冷えきってしまっているだろう。帰ったら一番に暖房をつけて、お湯を沸かす。それからコートを脱ぐのだ。カップスープと、パンに、ハムとチーズ乗せて適当に食べよう。ちょっと塩っ気の強いハムの味を思い出していたら、同時にアルコールの味を舌がみるみる思い出す。でも、先日の失敗でお酒は控えると決めたばかりだ。
体をあっためるのは別の方法にしよう。ジグザグマと一緒に毛布にくるまり、名作映画でも見ればいい。
ああ早く帰りたい。気を紛らわせながら、寒さに煙る道を急いだ。
「ジグザグマ〜、ほら家に着くばい。足冷たかったやろ」
ジグザグマは平気だというよに、ぴょんと跳ねる。そのぴょんのひと跳ねで私の腰より高く飛べる。しかも悠々と越せてしまうのだから感心だ。
「こげん寒かとに、ほんとポケモンはすごかね。うちら人間と違うて。うちはブーツ無かったら凍えて死んどったばい。早う足ん裏まであったまろうね」
そう話しているうちに見えてきた私が住む、アパートの窓が見えた。
早く冷たい風の当たらないところへ行きたいと高まっていた期待は、別の意味で裏切られた。
明かりが、ついている。
「あれ……?」
違和感というよりは、単純な驚きだった。この閉じたスパイクタウンの中で、私の家に誰かが勝手に入るとしたら、それはネズだからだ。
一人暮らしを始めて少ししてからだ。ネズに率直に鍵をくれるか何か家に入る方法を教えてくれ、と言われたのだった。もしもの時のため、とネズに言われたけれど、そのもしもがよく思い浮かばなかった私はこう言った。
『ああ、ネズが厄介なファンに絡まれた時とかに逃げて来ると? よかやなか?』
それなら納得だなぁと軽い気持ちでネズに了承したら、不愉快そうに言われたんだっけ。
『おまえにもしもがあった時の話をしています』
私とネズは頻繁に家に行き来して、お互いの家の冷蔵庫も勝手に開けてしまうような仲だった。ネズのことも実際信頼していたので、私はそのまま鍵を渡している。もしもの時のために。
ドアを開けると、ねっぷうが頬に当たって逆にぴりぴりとした。
「おかえりなさい」
ネズが、エプロンなんかしちゃって立っていた。そして悔しいかな、私より色気のある胸元をしたている。
本当に、ネズだった。鍵は渡したものの、滅多に使われなかったのに。とにかく、意外だった。
「どげんしたと? ……厄介なファンに絡まれた?」
「は? 何の話です?」
昔を懐かしんで話を振ってみたけど、さすがにネズの方は忘れてしまったらしい。なんでんなかばい、と言いながらジグザグマの足を拭いてやる。足の水気を払われると待ちきれないとばかりにジグザグマはネズに突っかかっていった。ジグザグマは知っているのだ、ネズが的確にジグザグマの気持ちいいところを撫でてくれるのを。
自分の上着も玄関にかけてからジグザグマを追うと、テーブルの上に視線を捕らわれた。
「うわ、すごか」
目に飛び込んで来たのは料理たち。一番目を引くのはパイだ。サラダもある。なんて目を奪われてると、前菜用のサラミとチーズの盛り合わせをネズがテーブルに追加した。
ナイフとフォークとナプキンと。テーブルセッティングまで済ませてある。空のボウルには、今火にかかっている温かなスープが私の着席とともに注がれるのだろう。
「美味しそう……。良か匂いしとぉ」
「見た目ほど凝った料理じゃありませんよ」
そうはいうもののパイの表面は綺麗に慣らされた狐色。知っている。マリィちゃんが以前”兄貴がよく作るパイ”の話をしてくれていた。話の通りだ。フォークの先でつけたような模様が、パイのふちをぐるりと飾っている。
「これでうちが食べて良かやろう?」
「人の家でここまでやっておいて、食べるななんて言わねーですよ」
「本当になして?何があったと?」
「おまえが、寂しいと言っていたので」
「え、言うたっけ」
「ええ。動画の中で」
ネズの言葉で一気に、思い出す。あの恥ずかしい動画。最高に頭が悪かった私。頭の中でまた再生しそうになったのを必死で追い出す。
「それもう、忘れて……。お願いやけん……」
「絶対に忘れてやりませんっておれ言いましたが。というか、おれは結構おまえのことは隅々まで覚えてますよ」
「え……」
隅々までって。それは忘れたくても忘れられないってことなんじゃないか。私の記憶を抱えなきゃいけないネズがなんだか可哀想な気がしてしまった。
「ちゅうかそげなと気にしてくれとったと?」
「そんなことじゃねえですよ」
「なんか、ごめん」
動画の中の発言なら、私が酔いに酔って口を滑らせただけどネズはわかっているはずだ。それを拾い上げて、彼の大事な時間を使って今晩のディナーに腕をふるってくれた。
私の言うつもりのなかった気持ちと、今日ネズが注いでくれたものは、なんだか釣り合っていない気がしている。
「うちなんかんこと良かったとに。嬉しかっちゃけど、疲れて、ネズがすり減っちゃわんか逆に心配かも」
「おれはおれの欲を満たしているんですよ」
良い加減食べますよ、と促された。何か手伝おうとしたけれど、今日のネズはサービスに生きているようで私を無言の圧で座らせた。
サラミとチーズが前菜で出て来たので、食事に一緒にワインか何か飲むのかなと思ったけれど、ネズは「もう少し後にしましょう」とボトルは取り出さなかった。代わりにティーバッグを放り込んだマグカップを渡される。少し蒸らしたあとのようで、熱すぎないそのお茶はすぐに口をつけることができた。
「このお茶、喉にいいやつ?」
「いいや? おまえが好きそうなやつです」
「………」
そうですね、すきですね、と言いたかった。けれどその「すき」の言葉すらなんだか意識してしまって言えなかった。
私は今夜、窓に明かりを見つけた時から、ずっとどきどきしている。そのせいだった。
ネズの料理は美味しかった。おそらくどれもがネズの得意料理というか、実際家でたまに食べる組み合わせなのだろう。何か張り切って大きな肉を焼いた、とかではない。それが、あたたかくて嬉しい。
うまか、うまか、と素直な感想でネズで褒めると、ネズもどこか満足げに食べていた。
「で、どうです。おれはおれ自身を全力でプレゼンしてるわけですが」
「……は?」
「家事は一通りできます」
知っている。ネズはマリィちゃんのためにどれだけの役割をこなしてきたか、どれだけの苦労を支払い続けているか、私はとっくのとうに知っている。
「喉が潰れてもポケモンバトルで食っていけます。逆も然りです」
「片方でも欠けたネズなんて想像できん」
「おれが言いたいのはそうじゃなくて。おれは堅実です、ってことですよ」
「うーん……」
堅実、ねえ。ネズの言葉に、私は肯けなかった。ほんとに堅実だったら地元を捨てて、もっと大きなスタジアムや会場で自分の実力で言わしめていたはずだ。
私が同意しないせいか、ネズは苛立っている。
「良い夫になると思いますが」
「はへっ?!」
おれ自身を全力でプレゼンって言われた時は、何の話がさっぱり見えなかった。そういう意味だったのか。
テーブル越しに迫ってくるネズ。距離が近づく。それとも私の目がネズ以外を認識しなくなっているのか? どっちだ?
でも本当は今日、帰ってきた瞬間に私は未来を感じていた。明るい家の中に、ネズがいた。オフの服装で、笑って、「おかえりなさい」を言ってくれた。彼の生活の中に、私がそっと帰ることが当然のように受け入れられた時、じわじんと滲み入るようだったあたたかさの名は、幸せなのだと思う。
「ね、ネズ……」
「はい」
「わ、わかった」
ああ、返事をしてしまう。顔がこれ以上ないってくらい赤くなっていく。本当に、私自身が爆発の準備しているみたいだ。
私は降伏するように顔を上げて、真っ赤な自分自身をネズの前に見せた。
「結婚ば前提に付き合うってことで、よかと?」
見られたくなかった赤い顔を見せた。それで確認のためにこっちは必死で言葉にしたというのに。ネズの反応は即、はあああ、とため息をつくものだった。あと舌打ちまでされた。あれ。なんで不機嫌になってるの。これは、付き合わない、ということだろうか。夫としてプレゼンとか言ってたよね? どういうことだ?
ネズのため息の理由がわからなすぎて、とりあえず私の早とちりだった、ということで片付けることにした。だって急に付き合うとか想像できなすぎるし、変だ。
「ネズ、ごめん。今んな聞かんかったことに……」
「はあ?」
「すみません……」
なんだか急にテーブルが暗くなった。そしてずいぶん遅れて、ネズは単純に自分の能力を褒めて欲しかったのかも、と思い至った。なのに「それ、私と付き合うってこと?」なんて聞くなんて。気持ち知られてるからって私、恥ずかしすぎる。
まさか今夜のこの戸惑い、早とちりが、まさかネズの何かに火をつけること。絶対私から告白させてやるなんてネズに決意させたこと。そして実際に大きな声で「ネズ! もうえー加減恋人ってことでよかやろ! 付き合おう!」と私から告白させられるだけではなく、「ネズはうちと結婚するんじゃなかったと!?」と泣きながら言わせられる羽目になるなんて、私は知る由もないのだった。
(「お酒で失敗したヒロインとネズさんのおはなしが大大大好きで…」とリクエストをくださった方、どうもありがとうございました!ネズさんの思いがちょっとでも表現できてたらいいな……!)