※ややかわいそうなズミさんのお話のズミ視点になります。
出会いは古典的だった。見知らぬ男女が、同じタイミングで雨に降られて、同じところで雨宿りをしたから。自分は濡れても構わないが、その日私が抱えていた荷物は濡らしたくなかった。たまたま、そういうデリケートなものを運んでいたのだ。そうして雨を避けるように軒先に入ったところ、私は雨雲を見るばかりで先に来ていた女性に気づかず、小突いてしまったのだ。
「すみません!」
「いえ」
私はふりかえって、すぐにまた「ああ、申し訳ない」と嘆いた。私が入って来たことで彼女は押し出され、肩が濡れてしまったようなのだ。しかも不運なことに、彼女が私を避けた先は、雨樋を伝って来た水が落下してきているところだったようだ。雨の塊を受けた左肩は、服の色が変わっている。服の中まで染みていたかもしれなかった。
私は急いでハンカチを取り出し彼女の肩を拭おうとした。彼女が遠慮して「大丈夫です」と言うものの、私は聞かずにその肩にハンカチを押し当てる。彼女は私が聞かないと分かると、観念したようだ。「自分でやりますので、ハンカチをお借りしてもいいですか」。そう言うと、細い指がわたしの手からハンカチをするりと抜いていった。
雨から逃れるためとはいえ、私と彼女は見知らぬ他人にはしては近い距離感で立ち尽くしていた。
予報にはなかった割には本格的に降り出した雨。他の通行人も慌てたように足を早めて、次第に誰も通らなくなっていた。
未だ激しく降り続ける雨にお互い呆然としている中、私たちの目の前を通り過ぎて行ったのはひとりのトレーナーと、ビビヨンだった。ビビヨンはトレーナーの周りや横について回るのではなく、トレーナーの頭の上に止まっていた。思わず視線をやってしまったのは、羽で雨避けをしているその様が美しかったからだ。ビビヨンの鱗粉に覆われた羽に当たった大粒の雨は、精製糖を溶かし煮詰めたシロップのように姿を変え、ころころと雨の街を写して落ちていく。ビビヨンはトレーナーのために羽を傘のように広げながら、ときたま緩慢に揺らして雨粒を横へ、後方へと仕分けて落とす。まるで機械仕掛けの噴水が通り過ぎていくような、優雅な光景だった。
二人して同じものを見て、互いに美しさへの感動を抱いていたのは明白だった。彼女はため息交じりにこぼした。
「ポケモン、いいって言いますよね」
いいと聞く。伝聞だ。距離を感じる言葉遣いだった。
「貴女はポケモンは?」
「いつも見てるだけです。家族も友人も、何かポケモンを、って勧めて来ますけれど、私はいいかなって」
ポケモンを敬遠する人は珍しい。黙ってしまった私の反応は、彼女にとって慣れたものなのか、滑らかに彼女は言葉を続けた。
「ポケモンは、言葉がわからないじゃないですか」
「意思疎通に不安が?」
「なきごえとかボディランゲージとかが、あるのは分かってます。でも言葉じゃない意思疎通だからこそ、私は自分の都合よく勘違いしてしまいそうだなって。ポケモンと一緒に暮らしたりしたら、疲れた日には慰めてくれてるって勝手に思って、自分の調子がいい日には、この子も遊びたがってるとか思ってしまうかもしれない」
ポケモンを愛玩する人間は、カロスにも、その他の地方にもたくさんいる。ミアレでは様々なカットを施されたトリミアンが通りを行き交う。きちんと世話をし、ポケモンが幸せそうなら良いというのが世間一般の考え方だ。
だけど彼女が口にしたのはポケモンへの畏怖ではなく、自分への恐怖だった。
「ポケモンと一緒にいたら、私はそんな勘違いの塊になるじゃないかと思うと、どうしても、怖くて」
雨はひどくなった。轟音の中で、彼女は呟いた。私に宛てた言葉だったのか、定かではなかった。
「あんまり自分の都合よく考えてしまったら、それは罪の始まりですよ」
ぞくぞくと背筋を走るもの。神経の裏面を丁寧に、舐め上げるように走って行った、気持ち悪さ。無言でそれに感じ入っている間に雨は弱まっていった。彼女は小さな挨拶をして、先に屋根から抜けていった。まだ小雨の残る中、私は向けられた背中にさえ、ぞくぞくと感じ入った。その不快感とも快感とも言いづらい感覚を必死に拾い上げていた。
一目惚れではなかった。ただし出会いは古典的だった。私が運命を感じるには充分だった。
彼女のことが忘れられないまま1週間余りが経った頃。それは私のお店に宛てて、届いた。少し厚みのある小包。開けるとあの日私の手から引き抜かれていったハンカチが綺麗になって入っていた。数行の、短い手紙も付いていた。
手紙にはあの日のお礼が一行。その後に、”どこかで見たことがあると思ったら、あのズミさんだったんですね”。そう綴られていた。料理人としてか、ポケモントレーナーとしてかは知らないが、後から私の正体に気づいたらしい。そしてハンカチの返却もお店宛に送ってくれたらしい。
文末の、彼女の名を反芻する。そうか彼女はさんと言うのか。
はっ、と気づいて、私は先ほど机に放った包み、そこに貼り付けたる伝票に飛びついた。目を走らせると、ちゃんと彼女の名前と住所が書いてある。伝票だから、書かざるを得なかったのだろう。
ヤミラミの前を歩くメレシーみたいな人だと思った。住所がわかってしまったのだ。もう一度会うのは、難しいことではなかった。彼女の家の近く、道端で見つけて注視してると、視線を感じたのかさんも振り返って、二回目の邂逅となった。
「すごい。偶然ですね」
彼女は偶然と勘違いしたらしい。偶然などではない。私は狙ってここに来ている。けれどそれを丁寧に説明すると、空気が悪くなりそうだ。気まずくてとりあえず「ええ」と言うと、まるで偶然でしたと肯定しているみたくなってしまった。
いざ前にすると、このひとが私を好きになるわけがない、という思いが湧いた。失礼な決めつけかもしれないが、壁の高さを感じたのだ。
どうにかして関係を作らないと、一生会えない気さえした。三回目、もし彼女に会おうとしたら、かなり強引になるか、もしくはストーカーまがいの手段が思い浮かぶ。しかし彼女の意向を無視するように行動すれば怖がらせて、拒否反応を起こされてしまうのではないか。だったら、好機は今しかないのではないだろうか。
そんな状況が見えてしまったのだから、私はほとんど止むに止まれず行動した。会ったのは二回目だということも忘れて、私はその日のうちに気持ちを伝えた。
勢いに押された様子だったが、さんは頷いてくれた。
私が感じているようなずっとここにいたいと思ってしまうような、心地よさを気持ちの悪さ、二つを縫い合わせるような悪寒など、彼女が感じていないのは明白だった。それでも、恋人という枠にとりあえず割り入ることができた。
よそよそしいやりとりを幾日か重ねたのち、二人でどこかに行きましょう、と提案をしたのは私だった。コウジン水族館を持ち出したのはさんのほうだった。行ったことはないけれど、おすすめされたし興味があるといのことだった。私がトレーナーと知った上での提案とも思われた。
いざ行ってみるとさんは始終落ち着かない様子で、水槽の青色が彼女の顔にも差していて、顔色はかなり悪く見えた。館内がこんなに暗いと思っていなかったのだろう。少し怖がっている様子も見てとれた。
どうしたものかと迷っているうちに、さんは私に向き直ると頭を下げて、震える声で言った。「付き合えません」という響きは聞こえていて、やはり私に合わせてこの場を選んでくれたのだなと思った。
さんは暗がりを恐れてついに飛び出してしまった。自分勝手な彼女を追いかけるのは面倒なはずなのに、どちらかというと胸が詰まる。狂おしい疼痛に酔いながら、私はさんを追いかけた。
彼女の住む建物を見たのは二度目だった。一度目は付き合う前、彼女を待ち伏せのように探しに行った日のことだ。彼女との隔たりを痛感し、目の前の好機に焦燥したあの日の感覚がぞわぞわと蘇った。
彼女は一直線に自宅を目指しているようだった。今日の靴は歩きやすいのか、さんの歩調はなかなか速かった。声をかけようとしたが、その前にぱたん、と閉じてしまったドア。そのぱたん、というやけに軽い音を、私は一日中引き摺った。もう一生会えないのではないのではないか。ぱたん、ぱたん、という音が重なるごとにそんな、妄想まがいの予感が募った。
夜中になってもも焦燥感が止まない。顔色の悪かったさんが、体調を崩していないか見るだけ。そう言い訳をして、私はさんの家のドアをノックしたのだった。
ここにいたい、ここにいさせてほしい。貴女の横に、貴女の中に。そう願う頻度が、私が彼女に会いにいく頻度になった。
「お薬は飲んでますよ」
服も着ないままの、柔らかな伝え方だった。けれど話の流れからして飲んでいるのは、避妊薬に違いなかった。ポケモンを自分の都合よく扱ってしまう恐怖から関わろうとしないひとだ。自分の意志を弱さを知って、信頼していない、彼女らしいと思った。
「ズミさんとしてると、最中、ワケが分からなくなることがあって、色々と怖かったので」
確かにさんと回数を重ねるうちに、色んな事がどうでも良くなる一瞬、まあいいかと都合よく考えてしまう、気の迷いのような考え方の変化があるのは確かだった。さんもそんな一瞬を感じてくれていたのだろうかと思うと、その事ばかりは少し嬉しかった。
だけどさんはやはり、時々氷のようなことを言うのだ。
「ほんと、こんなに動物的な人とは思わなかったです」
笑ってそんなこと、言われるとは思わなかった。こんなことを薄い笑みと一緒にくれるのはきっとさんしかいない。そう思うと強烈に煽られる。
「動物的って、例えばこんなことですか?」
耳に噛み付くとぎゃ、とさんがいう。彼女の、そういう時々こちらが勝手に抱いた幻想や夢を壊してくれる仕草が大好きだった。
性交の最中は、何度か支配したり支配されたりと、そういう興奮が混じり合う。だからこそ溺れた。最高潮の瞬間は様々なことを忘れることができた。だけど過ぎ去った後にまた思い出す。決して主導権を渡してくれないさんの事も。
「さん。やっぱり薬、やめませんか?」
カバンの中を漁っていた背中が、ぴくりと反応して、動きを止めた。
「体への負担もありますよね」
「冗談言わないでくださいよ」
「では、もう少し会う頻度を増やしませんか?」
「今以上のペースで会うのは、正直無理です」
「何故です」
「それは、その……。ズミさんの体力と私の体力だと、差がありすぎて、ちょっと辛いかも、です……」
コウジン水族館での失敗以来、どこに誘っても、何を贈っても、さんはどこか冷静だ。喜びを見せながらも箍が外れた感情は見たことがない。
私が会いたいと願う回数は明らかに増えて過多となりつつある。でも彼女が応じてくれる時間、ペースは一定だ。加速してくれないのだ。
出会った頃から感情の温度差は明確だった。関係自体は前へ進めている。仕草を知って、考え方を知って、好みを知って、体温を知ってきた。少しずつ、埋まってきてるものも存在している。
でも焦れったさが幾度も、波のようにぶり返す。
求めてるのは、主導権なんてそんな俗っぽい支配欲に依るものじゃない。彼女から、信頼のもとに身を任せてもらいたいのだ。自分でも恐ろしさを感じるほどの愛を前に、体の力を抜いて溺れて欲しい。
自分の都合よく考えてしまったら、それは罪の始まり。いつか自分自身で口にしていたタブーさえも馬鹿になって忘れて欲しいのだ。
貴女と結婚をしたい。その言葉が飛び出てしまいそうになる。私はよっぽど焦燥しているようだ。
「決して深刻に考えなくていいのですが」
いいえ。真剣に考えてください。真剣に考えられないと言うのなら、むしろ何も考えずに受け入れてください。
裏腹な心の声を必死に抑えつけながらも口にする。
「私はいずれ、家庭を持ちたいというか」
ずっとシーツを見たいたのに、翻ってきたさんの瞳はやけに強い。数秒後、私は自分が焦ったこと、焦り続けてきたことの後悔を噛みしめることになる。だが、その時は初めて見たさんの感情の強さに、私は息を詰まらせて、ただ見入るばかりだった。
(「ズミさん側の感情を見せていただけないでしょうか」とのリクエストありがとうございました。他のリクでもあったこのお話の続きを近日中に仕上げて、一旦終わりという運びになると思います。よろしくお願いします)