10人が10人、口を揃えて美しいと評する異性が横にいたのにも関わらず、ときめきを覚えなかった理由は単純だ。その時私はすでに恋をしていたから。相手はミクリではない。年上の先輩トレーナーに、だ。
 ちょっと優しくされてすぐドキドキを覚えさせられた、典型的な初恋だった。憧れ混じりの、でも本気の恋をしていた。まさに恋は盲目。隣にどんな男がいようと、当時の私にはその先輩トレーナーしか見えていなかったのだ。

 私の初恋を奪った先輩トレーナーは、今から思えば酷い人だった。私が過ぎた憧れを寄せているのに気づくと、その気持ちを十二分に利用したのだから。例えば買い出しや調べ物、清掃なんかの雑用。例えばポケモンのお世話。例えば、狙っている女性の情報収集。最後には結婚式の手伝いまで。
 好きな人のためならばと身を粉にして働いた私の事を先輩が振り向いてくれたかというとそんなご都合主義はなかった。結局私は初恋の人の結婚式に出席までして、しかもその結婚式を成功させるためにもあちこち駆けずり回った。散々な恋だった、本当に。

 好きな人の結婚式のために働きまわる。それは想像を裏切らない悲惨な体験だった。絶頂状態の幸せを目の前にし、それを全肯定で祝福する集団の中に放り込まれるのだ。本音では未だに振り向いてほしいと叫んでいるのに、だ。少し気を緩めるれば惨めで泣きそうになる。けれど私の泣き顔なんかで、先輩の晴れ舞台を汚したくないから、余計に、馬鹿みたいに一生懸命になる。
 先輩への献身は愛などではなく、もはや自己防衛の手段と成り果てた。

 その自己防衛にも終わりの時がやってくる。結局3次会まで幹事を務め、解放された深夜。
 一人になった瞬間の自分自身がリアルタイムで決壊していった体験は今でも夢に見る。絶対に再起不能になると思ったし、実際にひどく引きずった。
 しばらくはもう誰も好きになりたくないと呪詛のように吐いていたのだが、私の立ち直りは思ったより早かった。泥のようにはまり込んだ失恋の痛みから、私を引き上げてくれたのは同期のポケモントレーナーであり友人であるミクリだった。

「あの日。彼は、喜んでいたね」

 先輩の結婚式にはミクリも出席していた。だから式の様子も、光の当たらない場所で私が何をやっていたのかもよくよく知っているのだろう。
 私の傷を掘り返したミクリの表情は珍しくツン、と顎の先をあげていた。いつもの彼なら思慮深さを示すように顎は引かれているのに、私への態度は穏やかではなかった。

「うん、幸せそうだったよね。新郎も新婦も」

 苦笑いをすれば、ミクリは少し温度を緩ませて続きの言葉を吐き出す。

は? 満足したんじゃないのかい?」
「そう、だね……。辛かったけど無事送り出せたことは、良かったってホッとしてるかな」
「やはり。嫌味の一つもきみは言わないのだな」
「嫌味なんて。考える余裕もなかったよ。式の間はとにかく必死で、記憶も曖昧なくらいだし」

 私は首を横に振る。あの人の幸せのためか、自分を守るためか。あの日、どちらの感情が勝っていたのか、私自身定かでないのだ。そうやって正気を失っていた私にはミクリの賞賛はまったくふさわしくない。

「……あの二人、上手く行ってるのかな。大丈夫なんだろうな」

 上手く行ってるからこそ音沙汰無いのだろうが、自分で言ってて虚しくなる。まあ早々に離婚されても、私が心身がボロボロになってまで祝ったのはなんだったんだという話になる。好きだった人がどこかで幸せにやっているのはきっといいことに違いない。そう言い聞かせないとまた、己が瓦解しそうで、私の眉は自然と寄っていた。

「恋は、しばらくいらないなって思うよ」
「そうなのかい?」
「こんなに心身ともに疲れ果ててしまう事、もう一度したいなんて思わないよ! このまま次もダメだったら、粉々どころか砂になっちゃう」

 茶化すように言ったけど、私とミクリの間は晴れないままだ。
 今日の私はずっと苦笑いだ。凪いだ様子の彼に対して、笑いきれないままの目でミクリと対峙している。

「何もかも幸福なエクスペリエンスとは行かないが。悪いことばかりじゃないさ」

 それがすぐに恋についての話だと、私は気づけなかった。ミクリが、私のような下手な笑顔じゃない、柔和な笑みで言い放ったからだ。気取った言い方をしてるのかと思えば、もっと、複雑な手触りの感じられるセリフだった。それこそエクスペリエンスこと経験が詰め込まれた、重みや凹みのある質感をした感情が、声色から組まれた足まで、全身に乗せられていた。
 生々しさを感じたと同時に、ひどい初恋を経た私にはミクリの言葉は飲み込むことができなかった。むしろ疑問に思った。悪いことばかりじゃないと、何でそうハッキリと言えるのだろう。
 眉を顰めて、そして私は気がついた。
 気づければ簡単な謎解きだった。この男はナルシストだ。自分に確かな自信があって、己を賛美することを一切戸惑わない。でもただ、それだけだ。ミクリは決して自分しか愛せない男じゃなくて、誰かを好きになれる、己の中に迸る感性のままに、愛情を抱ける男なのだ。

 そして衝撃を自宅へ持ち帰った私は、そこにふたつめの恋を見つけた。とても静かに、密やかなものだった。

 彼へ惚れてしまったことをすぐさま秘匿したのは、自分が恥ずかしかったからだ。恋はしばらくいいと言いながらアッサリと人を好きになってしまった。それに手の届かない人が相手なせいでもあった。

 今までの友人として気安く付き合ってきたミクリには、相手に尽くすという自己防衛手段も使えない。彼に対する最適な防衛手段は、今の関係を維持することだと早々に結論づけた私は、その後はなるべく今まで通りに振る舞った。
 時には「もう恋なんてしない」という真っ赤な嘘をつき、上手くやっていくつもりだった。
 しかしその恋はとても短命に終わった。

 以前からだ。ミクリは話す時とか、妙に顔が近い。それは彼が自分に自信を持っての行動だとは思うのだけど、意識してみると、私は結構恐ろしいものが身近に在ることに気付いたのだ。そして妙にどぎまぎしてしまう自分にも。そして私はその距離に耐えきれず、思わず後ずさってしまった。
 目を見開くミクリに、私はとっさに謝っていた。

「……ご、ごめん。ちょっと驚いて」

 ミクリが片眉をあげたのを見てすぐにわかった。私のその反応が彼の機嫌を損ねてしまったことは。

「気にしないで。改めて見るとミクリが綺麗だなって思っただけだから」

 挙動不審な自分を隠したくて、彼の目を見て言えなかった。ミクリが綺麗だと思う気持ちは嘘ではなかったけど、後ずさってしまった理由としては、後からとってつけた嘘でもあった。そう、私は嘘のためにミクリを褒めたのだ。

「こんなに喜べない賞賛があるとはね」
「え」
「今更だよ、

 冷たい声。顔を正面へ向ければミクリから向けられた、もっと冷たい視線。

「あの人の結婚式できみは、私のパフォーマンスを一秒でも見てくれたかい?」

 先輩の結婚式にはミクリも出席していた。話題になり始めた有望トレーナーとして、お祝いのパフォーマンスをするために。
 そしてそれを依頼したのは私自身だ。先輩の結婚式を成功させるためには見慣れた無難な前座より、ミクリがステージで自由にしている方が何倍もいい。そう熱弁して、私がミクリにパフォーマンスを頼んだのだ。
 なのに私はそんなミクリのパフォーマンスを一秒も覚えていない。忙しかったのと、壇上で新婦と見つめ合う先輩ばかりを見ていたせいである。

 ミクリのこと、全く見ていなかった。当時、先輩を盲目的に好きになってたからといって、一秒も見ずに、覚えてもいないなんて。
 当時から続くミクリが自身のポケモンの強さと美しさを磨き上げる真剣さを知っているからこそ、私の血の気はさぁっと引いた。

 ああ、終わったな。こんなやつ、ミクリが好きになるわけがない。
 以来、私はミクリに合わせる顔がない。彼とはもちろん、疎遠である。







「それじゃあ今日一日、ゴマゾウちゃんのことよろしくお願いします!」
「はい! ゴマゾウちゃん、お預かりいたしますね! いってらっしゃいませ!」

 ビジネススマイルを浮かべ、遠ざかっていくお客様に手を振る。
 二度目の失恋から数年。私はパッとしないポケモントレーナー業の傍ら、人様のポケモンを預かる副職をしている。一日面倒を見るだけでなく、爪や耳周りの掃除などのケアをしてあげたり、思いっきりストレス解消に付き合ってあげたり。栄養を計算した上で美味しいポロックを食べさせてあげたりするサービス付きだ。友人の育成をお手伝いする小遣い稼ぎに始めたら意外にリピーターが多く、口コミがじわじわと広がって、今は良い稼ぎになっている。

 今日のお客様はたっぷり甘やかされてるのが目に見る、首回りがぷにっとしたゴマゾウちゃんだ。

「ゴマゾウちゃん、今日はよろしくね」

 さてこの子をどう磨いてトレーナーの元に帰してあげようか。
 ゴマゾウちゃんと目を合わせながら私は思案する。

「お客様にお願いされた『たまには砂嵐吹く砂地で思いっきり遊ばせてあげてほしい』というオーダーもしっかり叶えてあげるからね」

 様々なポケモンと出会い、一匹一匹と向き合うこの仕事は私の性に合っていて、基本的には楽しい仕事だ。ひとつだけ引っかかってしまうのは、この仕事がミクリからの影響が大いにあって、成り立ってることだ。
 同期のポケモントレーナーとして、ミクリと物理的にも精神的にも近い距離で過ごしていた私は、ミクリから様々な変化をもらった。物の考え方や、見方に影響があったのはもみろん、ポケモンのケアのこと、それからポロック作りのコツなどを教えてくれたのもミクリだ。
 自信たっぷりな物言いで言われると、最初は鼻に着くこともあった。けれどミクリの言っている内容を追えばどれも興味深くて、結局今の私を大いに助けてくれている。
 ポケモンがいると、その精神や栄養の状態まで注意深く見るようになったのはミクリのおかげ。気になったら丁寧にケアしてあげることを教えてくれたのもミクリで、彼にもらった物のおかげで今の収入があると言っても過言ではない。
 私はふ、と乾いた息を吐いた。この仕事は合っている。だけど時々、自分の半身を染める、薄く伸びる彼の陰を思い出してしまうのが玉に瑕だ。

「あ……」

 ゴマゾウちゃんのことを観察し、色々と確認している最中に気がついた。自前のポロックケースを見れば、ストックがさっぱり無くなっている。ポケモンを帰してあげるときにその毛艶が良いと顧客の反応も良くなる。預けて良かったと言ってもらうために、ポロックは必須アイテムだ。
 今すぐポロックが作れる場所で、近いのはコンテスト会場だ。確認不足は痛いけれど、クライアントのポケモンに出来立てのポロックを食べさせてあげるのも、また良いサービスになるだろう。
 そう前向きに捉え直すと、私は意識の端に引っかかる顔(かんばせ)を振り切って、コンテスト会場へと足を向けた。