過去作「イニシエーションの中であったね/後編」のズミとヒロインの話です。





 私のヒノヤコマがファイアローに進化した。進化の光、それから自らを包む羽と炎に包まれたかと思うと、たくましさと高貴さを宿したファイアローの羽が現れた。命をそのまま射止めそうに鋭い鉤爪に漆黒の嘴。
 火の鳥が生まれ変わったその日。私の人生において最良の日が更新された。

 あの日のファイアローは本当に美しかった。
 勤め先のグランドホテル・シュールリッシュ。本日もランチの激戦と戦いを終え、休憩室で賄いを口に運んでいる。くたくたな体に栄養を入れている今も、気づけば光の中から姿を表したファイアローを思い出して、ぽーっとなってしまう。
 私にポケモントレーナーの才は無い。だけど地道に手をかけ続け、育てたポケモンが進化する神秘的な現象をいざ目の当たりにすると、私ですらポケモントレーナーが天職だと勘違いしてしまいそうだった。十分わかってることも書き換えられてしまいそうなほどの、壮絶な美しさがあった。
 本当ならこの場にファイアローを出してあげて愛でに愛でてあげたい気分なのだが、まだこの後厨房に入って片付けをしなければならい。厨房に立つ服でポケモンと触れ合うのは憚られるので我慢だ。

 幸せだった、と到底振り返ることのできない半生だった。だけど最愛のポケモンがファイアローに進化したことが何よりも嬉しくて、今までの不遇を鮮烈に塗り替えてしまいそうな勢いだ。
 嬉しくて、感動的で、最高で。こんなに素敵なことがあったなら、幸運の揺り戻しが来てしまいそうだ。そう想像し、へらりと独り笑いを浮かべていると、まさにその揺り戻しが向こうからやってくるのだった。

さん、お電話です。ズミさんて方から」

 ファイアローに恋したみたいにまどろんでいた気分が一掃され、眉間にぐぐっ、とシワが寄る。

「あの、さん?」
「ごめん、聞こえてる。出たくなくて。出るけど」

 なんで職場にかけてくるかな、と悪態をつきそうになったが、これが当たり前だったりする。
 数ヶ月前。ズミとここに書くのが戸惑われるなんやかんやがあった。私とズミは嫌い合っていた兄弟弟子だったが、望まぬ一悶着がありつつも、過去と比べればかなり穏やかな再会を果たした。
 私は結局、ズミに連絡先を教えなかったのだ。シュールリッシュで働いてることがもうバレてるんだから、奴に与える個人情報はそれで十分だと思ったのだ。ズミは何かいいたげだったので、週6でモーニングとランチを担当する9時間のシフトで働いていることを伝えて引き下がってもらった。

 個人的な連絡をもらっても非常に困るから、連絡先を教えなかった。でも、いざ職場に電話をかけてこられると何倍も嫌な気分になる。
 ほんと、連絡してこなければいいのに。
 至極素朴にそう思いながら席を立つと、電話を取り次ごうとしていた彼が好奇心に目を輝かせた。

さん。ズミさんって、あのズミさんですか?」

 そうだ。ランチ終わりで汗と油まみれの私を呼び出しているのは、あのズミだ。
 カロスでズミと言えばポケモンリーグ四天王に数えられるポケモントレーナーであり、同時に名の知れた伝説のシェフである。目の前の彼は確かポケモンバトル観戦が趣味だと言っていたし、そもそもカロスのシェフがズミを知らないわけがない。行間を読まずに職場にいる私を呼び出しているのは、まさに君の知るところのズミである。

「ううん、人違いだと思うよ?」

 あっさりと嘘をつき、私は電話口へと向かう。
 グランドホテル・シュールリッシュ。プライドをかけて働くこのキッチンで、私はズミと比べられる私でありたくない。

『………』
「………」
『………』
「……、だけど」

 受話器をとったもののなんだか私から喋り出すのも癪で、黙ってしまった。結果、数秒無為な沈黙が流れる。仕方なく一声出すと、ズミが嬉しげに息を飲んだ音が聞こえてしまった。

『っ! 私です、ズミです』
「うん、聞いた」
『お疲れ様です』
「あー……、どうも」

 勤務する曜日を話したのは私だから仕方がないけど、知ったような口を聞かれるとなんだかムッと来る。でも今日のやりとりは電話なので、私が顔をしかめたことに、ズミは気づいてくれない。
 喜色の滲んだ声が多分ずっと言いたかったであろうことを言う。

『今日のこと、お忘れじゃないですね』
「まぁ……」
『来てくれますよね……?』

 待ちきれない、という感情が声色に滲み出していて、私は盛大にため息をつきそうになった。

「……行くよ。料理人だからね」

 今日は、私がズミの店に季節のコースを食べに行く日である。
 断じてデートなどではない。ズミはその日シェフとしてキッチンに立ち、私は一人の料理人として、客としてズミのあつらえたコースを味わいに行くまでだ。
 数年先まで予約でいっぱいだというズミの店。私なんかが季節ごとに予約を取れているのは偏(ひとえ)にズミと私が同じ師に習った兄弟弟子だからである。完全な身内贔屓だ。

 師匠に潰れるまで叩かれるような同じへなちょこ料理人から始めたはずなのに、いつの間にか大成したズミ。彼への嫉妬心は大いにあるものの、私の料理人としての欲がそれを上まることは無かった。
 修行時代、恥なら散々かいてきた。料理に殉じたいと願う私が、自分のプライドのために伝説とまで呼ばれたズミの料理を食べないわけがないのだ。

 ズミは熱烈に私の来店を切望していて、こうして事前に駄目押しの連絡までしてきたわけだが、私の答えは決まっている。

『予約はいつも通り、”ヒノヤコマを連れた”でとってありますから』
「わかってる」

 本当はもうヒノヤコマではなく、ファイアローなのだけど、まあいいか。ファイアローはヒノヤコマの進化後だというのはフロントの人もわかるし、私の顔も割れてるでしょ。ズミにわざわざ報告するようなことじゃないと思い、口を噤む。

「とにかく忙しいから切るね」
『お待ちしています』

 最後の返事は電話を切ることで応えた。


 そのあとはズミに伝えた通り、とにかく忙しくなった。休憩を終えると調理器具の清掃に明日の仕込み。それをやっつけるなり、私はファイアローの力を借りて自宅へ。一直線に空を飛んだ。
 シャワールームに転がるように駆け込み、汗と油の匂いを落とす。そこから最大風量のドライヤーを当てながら髪にブラシを通し、また化粧のやり直しだ。まだ水気が取りきれていない足をストッキングに突っ込みつつ、頭から被るのはあの、なんやかんやあってズミから突き返されたワンピースだった。

 ズミの店は伝説という名がつくほどのシェフが腕をふるう、一流のレストランなのだ。当たり前にドレスコードが存在するし、食べる側の目線に立つためにも客として相応しくあらねばならない。
 良い靴ならば一足自前のものがある。だが、ドレスの方となるとズミからもらったのがなんだかんだ優勝してしまうのだ。
 生地もカットにも、綻びはひとつもない。人の肉体に沿ったときに最大限の美しさを発揮するよう服のラインは洗練されている。……あと、一応自分が選んだこともあって自分の趣味に合っている。選んだ時のことは何も覚えていないが。

 良いものを知り、新しい味に出会うため。私たちは常に研究心を失ってはならない。他の料理人をリスペクトし、レストランに足を運ばねばならない。だからこそ必要と分かって、ズミも私にこのワンピースを買い与えてくれた、のだと思っている。
 香水はつけない。ズミの料理を味わい切るために、香りなどの情報も大事にしたい。小さなパーティー用のバッグに最低限の荷物を詰め込み、事前に手入れの済ませたおなじみの靴に足をひっかければ、身支度がどうにか終わった。

 玄関から慌ただしく飛び出て、空を見上げると思わず声が出た。

「うわ……」

 空は今にも降り出しそうな重たい曇天が広がっている。必死で店にふさわしいおめかしをしたのだ。雨になるのは困る。中心街まで出ればタクシーがあるが、もっと効率的な手段が私にはあった。もはや自分自身より大切なモンスターボールを私は取り出した。
 ボールから放たれたファイアローはぶわりと熱とともに羽ばたき、私の元へと降り立つ。

「ファイアロー、今日は何回も飛ばせてごめん。でも力を貸して」

 雨が降る前にズミの店に着いてしまえば問題ない。ファイアローの力があれば、それが可能だ。ファイアローの能力を信じ、私は彼の体に掴まった。




 毎日私が作る最高のポフレを食べさせているおかげか、それとも単なる親バカか、私の美しい美しいファイアロー。彼の力には何も不足がなかった。的確に風をとらえ、私が着いてこられるスピードで悠々と彼は飛んだ。

 しかし、誤算があったのは私の方だ。シュールリッシュの厨房で戦う日々のおかげで、どうやら私は気づかない間に痩せていたらしい。料理人になりたての頃に買って、以来履き倒してきた細身のパーティーシューズ。長年愛用していたせいで、ストラップも緩んでいたようで、それがするりと空中で私の足を抜け、落ちてしまったのだ。

「ああっ!」

 伸ばした手が届くはずがなく、私の靴が真っ逆さま、落ちて行く。私のストッキングをまとった右足が虚しく空に浮き、背中での異変にファイアローはすぐに気づいたものの、スピードは急には落とせない。くるくると宙を舞い、みるみる小さくなって行く片割れの靴はあたり一帯を覆う深い森の中へと落ちて行った。









 絶望には強い方だ。料理人として修行する中、何度絶望したかわからない。それでも今日までやって来られたのだから、強い方だと、思っている。

 行かなければならないレストラン。予約の時刻が迫る中、靴を片方、森の中へ落としてしまった。スピードの出ていたファイアローの背中に乗っていた最中の出来事で、靴が果たしてどのあたりに落ちて行ったか、はっきりとは分からない。
 片足のストッキングを汚しながら降り立った深い森は、生憎と暗くなり始めている。そしてナイスタイミングで雨まで降り出したようだ。
 私の小さなバッグに傘の入るスペースは無い。帰り道のことを考えて、傘を持ってくるべきだったな。反省だ。
 はぁ、とため息をひとつ吐いて、私はモンスターボールを取り出した。

「……ファイアローは戻っていいわ」

 ファイアローはほのおタイプのポケモンだ。冷たい長雨に当てるわけには行かない。戻りたくない、と彼の瞳が訴えていることに気づき、私は彼のトレーナーとして毅然と言い聞かせた。

「靴を見つけたら、また貴方の力を借りなきゃ。そうじゃないとズミの店にはたどり着けないもの。それまでボールの中で羽を休めていて欲しいの」

 ファイアローはまだ何かを言いたげではあったが、強まってきた雨から庇うように私がボールを向けると大人しく戻ってくれた。
 さて。森を見やると、かなり暗くなり始めている。見つかれば万事問題ないのだから。そう自分に言い聞かせ、とにもかくにも私は歩き出した。



 一流のお店に入るために、靴は大事だ。ウェイター、場合によって扉の前に立つ警備員はまず、その人の靴を見る。足元を見るとはよく言ったもので、その人が履く靴のグレードで、客が店にふさわしい身分であるかをはかるのだ。そもそも片方裸足で行くなんて、友人の家でもありえない。当たり前のことだ。
 ヒールの高さが歩く邪魔になって、私は結局裸足で森をさまよっている。
 街に戻って、2万そこらの靴を買おうかとも悩んだ。そうなるとファイアローに雨の中を短く無い距離を往復させることになる。私自身もそうとう濡れるし、それに、それに……。
 とにかく、靴さえさっさと見つければ、どうにかなるはずなのだ。
 大丈夫、どうにかなる。そんな思考に絡めとられるようにして、私は悪い状況へと自ら飛び込んで行ってしまった。

 暗い森で、一足の靴なんて、見つかるはずがない。
 無茶だって、よくよく考えなくてもわかるくせに、その判断ができなかった私を自分でもバカだったなと思うし、ズミはきっと容赦ない目で見てくるだろう。
 想像はついていたのに気づけば私は、ズミの店にたどり着いていた。惨めな私のままで。

 ズミの店は閉店間際を迎えていた。次々と客が帰って行くのをウェイターが雨の中、丁寧に見送りをしている。
 私は自分がいつの間にやらかなりの時間、森をさまよっていたことに気がついた。
 客の退店ラッシュが途切れた頃に、私はそっと彼の店の前に立った。
 驚いた顔のウェイターに裏口を教えてもらい、回るとちょうどズミが飛び出してくるところだった。

「……こんな格好で来てごめんね」

 雨に全身濡れて、靴は片方なくて、みっともなくて、周りは暗くて、ファイアローは頼れるけれど同時に私が守らねばならない存在で。
 ずぶ濡れのせいで、自分が泣いていたかどうかは分からない。ただ珍しく、私にしては非常に珍しく、心が折れていた。ぽっきりと。

 笑ってるようにも怒っているようにも見える、混ざり物の多い表情でズミは言った。

「いえ、嬉しいです」



 意図しないトラブルがあったせいとはいえ、予約の時間も、多分緻密に考えられていたであろう調理のプロセスも、私は台無しにしてしまった。だからだろう。ズミは始め、ひどい顔をして私を出迎えた。抑えられない激情でこめかみにまで怒りが上がっているのが見えた。けれど目の当たりにした私が、あまりに惨めな姿だったので、怒りはしゅるしゅるとしぼんだようだった。

 知り合いだったよしみで、今は室内に通してもらい、タオルを貸してもらえた。冷え切っていた体をいたわるように紅茶を出してもらい、ありがたく温かさをもらっている。
 みっともないがストッキングは捨てさせてもらい、靴はスタッフの女性から借りて来たという柔らかなパンプスを履かせてもらっている。髪はまだ湿っているが暖かな部屋のおかげで、寒さはない。

 相手はズミだからと薄めにしたメイクも功を制して、顔はそこまで崩れていない。
 人に見せられる顔であることに内心息をついて、そっと横を見る。同じ室内に腰掛けるズミ。怒ってはいなさそうだ。ただズミの目に感情が荒々しく滲んでいる。

「どうしてそんな無茶をしたんです、……って言いたそう」
「ええ、まあ」

 私に言いたいことが山ほどあるという顔をしているのだから、そのうちのどれかにはまあ当たるだろうと思ったけど、見事的中したようだ。
 まあ、確かに無茶だった。森に落とした靴を探すだなんて。私でもなんでそんなことをしたのか、理由を探しながら素直に喋る。

「靴の値段ね、10万したの。初任給ほとんど突っ込んで買った。必要だとわかってたから」
「………」
「靴に10万円なんて馬鹿馬鹿しいと思った。けど、丈夫そうだったし、いつまでも履けるだろうと期待して、もうしばらく贅沢しないつもりで買った。まぁ思い出の品でもあったわけ」

 押し黙っていたズミは、意外なことに私に同意をくれた。

「……私も。レストランに行くために、オーダーメイドのスーツを買っていたので、初任給はその借金の返済に充てましたね」

 なるほど、男の身だしなみはあまりお金がかからないと思っていたが、オーダーメイドのスーツとなればそこそこの値段がしただろう。「スリーピース?」と聞けば「当たり前でしょう」と返って来た。

「……何故笑ってるんです」
「そりゃ笑うよ」

 借りた金を握りしめ、気合いを入れてテーラーへ入って行く若きズミを想像してみると、案外愛らしい。目の前の男は今日も眉間にシワが寄っていて、可愛いとは無縁に思えるのに。目前のズミとのギャップで、惨めさでからからに枯れていたはずの笑いが出てきてしまう。
 私がクスクス笑い通していると、ズミは何か喉元まで言葉の詰まった苦しげな表情をする。きっと私に何か言いたいことがあるのだろう。でも一言も反論や苦言は飛んで来なかった。

「あと。あとはね……」

 しゃべっているうちに見つけた、私が森で靴を探したもうひとつの理由を、私はズミに打ち明けた。

「私なりに、ちゃんと来たいって思ってたんだよ。ズミの店に」

 街に帰って、手持ちの2、3万円で新しい靴を買ってもよかった。だけどズミの店だから、私が持つ最高の靴で行きたいと思っていた。ズミの目の前に、ズミがくれたワンピースで現れるのはかなり恥ずかしいけれど、持っているなかで一番の服だから、着た。
 今夜を最高にしたかった。ズミが今夜もきっと最高の芸術を見せてくれる。それならそこで食事をする私も、最高の私でいたかったのだ。

 ぽろ、と目から落ちる水。久しぶりに泣いたはずなのに、そんな気がしない。むしろ、もともと緩んでいた涙腺から残っていたものがこぼれ出てしまった、という感覚だ。その一粒の涙で判明した。雨に濡れていた時は分からなかったけれど、私はやっぱり道中泣いていたらしい。

 新鮮な驚きだった。
 私は泣けるのか。憎き、ズミの前で。

 今まで、涙なんて見せられなかった。彼はライバルだから。隙も弱みも見せたくない。さらけ出せるのは強い自分だけだった。

 その時、私はおかしなことに気がついた。私はもう、ズミを嫌わなくていい。ズミの成功を妬まなくてもいい。人生の代わる代わる訪れる、良きこと、災いのような出来事をともに喜んだり、悲しんだりできるのだ。
 あの頃は、自分より優れたものを認めたら、自分自身がバラバラに壊れて、何も意味をなさなくなってしまうように思われた。師匠から雷のように下される厳しい教えを前にして、私たちは心折れそうな日々にいた。そこであなたのような才能が、自分には欠片も無いのだと認めてしまうのは、多分死ぬより怖かった。
 だけど今はもう違う。幼い何者でもない自分を脱ぎ捨て、同時に加護も失った私たちは大人なのだ。

 現に、ズミに涙を見られた。彼は目を見開いて、私がこぼすものを凝視しているが、私はバラバラに砕けてなどいない。
 すん、と鼻をすすりながらぼやく。

「こんなこともあるのね。ほんと、運が悪かったわ」
「ええ、とても」

 ズミも優しい声をしている。
 私はもうあなたの才能を憎まなくていいのだ。そう思うと涙の質が悲しさから安堵へと変わって、私は自然に泣き止むことができた。

「今日は面倒をかけてごめんなさい。感謝してる。今日はもう遅いから、後日何かお詫びをさせてね」
「……なら、貴女に靴を買わせてください」

 あまりに突然の提案はズミなりの下手な慰めか冗談か。相変わらず変なところで不器用だ。そう思い込んだ私は笑い混じりに言った。

「なんでよ。私からお詫びをさせてほしいって言ったの」
「ええ聞こえています。私は、靴を捧げさせてください、と言ってるんです」
「だからいらないってば。別にズミに買ってもらう義理はない。自分のミスだし、靴くらい自分で買えるよ」
「ええ、義理はありません。ただ私が許せないんです。貴女に他の女性から借りた靴を履かせるなんて、冒涜ですよ」
「はぁ?」

 急に過激な言い方をするので驚いてしまう。冒涜って、そんな風に言ってもらえるほど私は崇高な存在ではない。

「私は帰れたらそれでいいよ。借りてしまって申し訳ないくらい」
「いえ、冒涜というのは、もちろん今日のことを真剣に考えていてくれたに対してというのもありますが。……私が抱く貴女への想い、それに対する冒涜です」

 ぽかん、と口が開いた。

「貴女に、間に合わせの靴を履かせました」
「何言ってるの? 突然のトラブルに対するやむを得ない対処でしょ……?」
「それでも私は許せません」

 私の足を柔らかく包んでくれている借り物のパンプス。やむを得なかった事とはいえ、彼にとってこれはタブーに触れる出来事だったらしい。仕方がないことなのに、ズミはそれが自分で許せない。理由はわかっている。なぜって、ズミは私が好きだから。

 なんてしょうもない男だ。
 私のためじゃなく、ただ自分が納得したいがために私の靴を買いたいだなんて。それを馬鹿正直に白状してしまう辺りがまた、私に言葉を失わせる。
 ズミの言うことに理解がようやく及ぶと、私の口からは深い深い溜息の後、率直な感想が飛び出ていた。

「え、めんどくさ……」
「それでもお願いします。お詫びしてくれるんですよね?」

 ズミは照れたり臆する様子もなく、ただ私にまっすぐに懇願している。
 そうなのだ。彼は融通が利かない。そこがズミのダメなところで、でもズミをズミたらしめている。彼の才能を成す1ピースなのだ。

「……、しょうがないなぁ……」

 頷いたのは、なんだかんだ私とズミが戦友でもあるからだ。
 私も料理の道に殉じたい。そのために人生を、どんな苦労をも捧げたい。その辺はズミも同類だ。彼は私が殉じたいと思うのと同じくらいの激情を、料理とポケモンと向け、そして私にも注ごうとしている。
 彼から向けられる感情の中に、好意があると認めたとき、私は薄々そのことにも気づいていた。料理、ポケモン、その次ぐらいが多分、私なのだ。

「いいんですか……!?」
「今日は助けてもらったから、そのお礼にね。ズミに買わせてあげようじゃない、私の靴を」

 はたから見れば私はとんでもなく高慢な女だろう。でもズミになら通じる。私が靴を受け取るのは私じゃなく、ズミのためなのだ。

「なら、連絡先を」
「それは嫌」
「………」

 勘違いしないでもらいたい。別にほだされたわけじゃない。昔から彼を知っているが故によくよく分かっているズミの性質に報いてやろうと言ってるだけなのだ。

「……連絡先もわからなくて、待ち合わせはどうするんです?」
「お互い遅刻しなきゃ問題ないでしょ? なによ、遅刻するの?」
「しませんが……」

 あわよくば連絡先が知りたいなんて、気の抜けない男だ。忘れて困っては困る。別に、私の方はズミを好きではないのだ。顔を横に向けると、ズミは顔を悔しげに歪めていて、こっちの方が優しくされるよりずっと気分がよくなった。

 そう。今日も変わらず、私はズミが好きではない。でももう、私はズミを嫌わなくていい。ズミの成功を妬まなくてもいい。彼と比べられる自分を嫌うことだって、やめられる。人生で代わる代わる訪れる、良きこと、災いのような出来事をともに喜んだり、悲しんだりできる。
 その上、彼がその信条を貫き通す手伝いをもできるなんて。驚き以外の何物でもない。

 でも、過去から互いに変わりつつあることは分かっていた。だから今夜の私は泣いて自分の家に帰らず、ここに来たのだ。
 あなたに悲しみを半分渡すため。そしてその他の感情も今ならきっと、分かち合える。

 苛烈に嫌い合わなければならなかった日々なら、もう通り過ぎたのだ。

「あのね、ズミ」 

 窓の外、止まぬ雨の音を聞きながら、私は彼に語り出していた。今の私たちなら、あなたとなら分かち合えると思えたから。

 人生で最良の日。辛い記憶の濁流をも押し流した、美しさがあったこと。
 あのね、ズミ。私のヒノヤコマがファイアローに進化したんだよ。