※ズミさんのお話とズミさんのお話(ズミ視点)のお話を踏まえた続きです
※スタートのお話がちょっと生々しいせいで、生々しい描写がほんのり残ってます。ご注意ください
「風邪をひきました」
電話口、単刀直入にそう言われた。なので私も率直な反応を返した。
「それは珍しいですね」
「さん」
本当に風邪をひいているんだろうかと疑うほど、ぴしゃりとたしなめる声色だった。でも今日のズミさんはホロキャスターのホログラム映像も出さず、音声オンリーだ。ということは、相応にひどい有様なのではないだろうか。体調管理も含め自分自身にストイックなところがあるズミさんだ。風邪をひいたところを見るのも今日が初めてだった。
「まあ、お大事になさってください」
これ以上何を言えばいいのか。だけど沈黙しててもズミさんの苛立ちが伝わってくるのはすごい。ピシリと音を立てて、彼のまとう空気が変わる様子がまざまざ思い浮かぶ。
ややあって、ズミさんは辛抱しきれないというように声を絞り出した。
「……体が辛いとか、喉が痛いとか、そんなことよりもなによりも。寂しいんです」
わたしは声もなく驚愕した。沈黙によって圧をかけてくる時間も、普段に比べたら相当短い。どうやらズミさんは相当弱っているらしい。
「ええっと……。じゃあ5分待ってくれます? 行けそうか確認してから折り返し電話します」
「どうしてそこで今すぐ行くと言ってくれないんですか」
「ごめんなさい、またこっちからかけますので」
ズミさんは恨めしそうに声を低くしてきたけど、聞き流して通話を一旦終了させる。私の口から出てった息はくたびれていた。
こういうところで、私はズミさんと価値観の違いを感じる。ズミさんはわかってない。形のないものに全力になるなんて、普通はできないものなのだ。
体調不良の相手を案じて何もかもを投げ打って今すぐに駆けつける、なんて、見かけるのはドラマやエンタメ小説の中くらいなものだ。しかもただの風邪。事故に遭ったわけでも大病で倒れたわけでもない。
ズミさんの世界においては、自分の心が引っかかるものに全ての感情を注ぎ込むことに違和感はないのかもしれない。けれど、私からしたら現実離れした行為、ともしたら物語の中だけでしか受け入れられないような狂人の行動だ。私には真似できない。
スケジュールを確認すれば、やはり今日の後半は空いている。用事はなくもないが、メッセージをひとつ入れれば特に問題ない。ズミさんを断る理由はなさそうだ。
行くべきなんだろうな。ズミさんのお見舞い。寂しい、と嘆いていたズミさん声が耳の奥にこびりついている。
なんとなく、一度気持ちを入れ直さないと歩き出せなかった。
あの日以来。ズミさんの人生計画の中に、結婚の二文字があることを知って、何よりズミさんがそう願っていると知って以来。当然だけどズミさんを見る目が少し変わってしまった。誰かと暮らし生きていくことを現実的に考えている彼が眩しく思えた。そして彼の思考の行く先に、人生計画の中に、まだ実態をなしていない人影があることに気づいてしまったのだ。
ズミさんが、私でない誰かを探している。その影は全ての物事につきまとうようになっていた。
ズミさんはあの日以来、結婚どころか将来について、私の前では口にしない。言わないだけだと私は踏んでいる。
景色を見る傍ら、仕事の傍ら、結婚相手を探してるんだろう、運命と思える相手よ見つかれと期待を寄せているんだろう。私はどうしても、ズミさんのことをそういう目で見てしまうのだ。
訪問に際して、差し入れや見舞いの品は特に買わなかった。行きますと返事の電話を入れた際、ズミさん自身も手ぶらで構わないからとにかく来て欲しいと言っていたのを、敢えて鵜呑みにすることにしたのだ。調子の悪い時に彼が何が喜ぶのかも、正直よくわからなかった。
けれどいざ家に入れてもらうと、何か持ってくれば良かったと後悔した。いつもより肩の角度が溶けそうなくらいに下がったズミさんを前に、私は途方に暮れた。私に何ができるというのだろう。
ズミさんは燃えているような熱さの手で私の腕を掴むとスタスタと室内に連れ込み、自分はまたシーツの乱れた寝床へと戻っていった。
「具合はどうですか」
「存外、なんとかなりそうです」
「何か必要なものありますか。代わりに買ってきますけど。あとお掃除とか、洗い物とか今日くらいはお手伝いしますよ」
「いえ、結構です。さすがに辛くて、一度お店のスタッフに色々助けていただきました」
「そうですか……」
心が冷える。スタッフとはいえ、私の前に誰かに来てもらっていたらしい。なら私がやることなんて無いのではないか。ズミさんの一言で、すでに私は帰りたい気持ちになっている。
「じゃあ私はどうすれば?」
「どうぞお好きになさってください」
「………」
好きに、自由にしていて。一番困る指示だった。
「いいんですか、そんなこと言って。部屋を好き勝手漁られても知りませんよ」
冗談のつもりで言ったのだけど、ズミさんは「構いません」を一言、熱い息と共に吐き出すと体が辛いのか目を瞑ってしまった。
仕方がないのでカバンを椅子の上におろし、上着も脱いで楽にさせてもらう。
寂しいと、電話口でも言っていた。他スタッフは忙しいから、とりあえず私を呼んだということだろうか。弱った体に孤独が沁みて辛いのだろう。寂しさが身に沁みているから、誰か連れ添う相手を求めるようになったんだろうか。こんな時でも思考は繋がって行く、ズミさんの結婚願望について。
ズミさんの家をじっくりと見るのは初めてだった。家の前までは来たことがあって、中をドア越しに数分、覗いたことがあるくらいだ。
ズミさんの家の中を、私は嫌味なくらい完璧だと思った。シンプルながら美しい調度品。丁寧に掃除した後があるのが、ズミさんらしい。山ほどの資料があるものの、本棚にはポケモンと料理それぞれの本が混ざり合いながらも整理されている。キッチンは水を出すのが戸惑われるほど綺麗に物が仕舞われていて、私は結局カバンの中にわずか残っていたペットボトルの水を飲んだ。
隅の隅まで、触れ方に戸惑うような、崩し難いズミさんで溢れている。部屋の沈黙が抱え込んだ情報量に押しつぶされそうになる。けど決して、不快なものではなかった。土砂降りをいっそ気持ちいいと思うのと同じように、返って気持ちが静まり返っていくのを感じた。
何をすることもなく、部屋を見回す。同じ本を今度こっそり買って読んでみようかと本棚を見るも、タイトルが覚えきれなくなってすぐに投げ出す。時々、ズミさんが私の名を呼ぶので「はい、いますよ」と答える。そんな無意味な時間が過ぎていく。気持ちが凪いで、ここしばらく繰り返していた物思いさえ、忘れかかっていたのに。
私の気持ちが再び騒ついたのは、テーブルの上にあるもののせいだった。封を切った手紙とその中身が散らばっている。整理整頓された部屋では、読みっぱなしの手紙は悪目立ちしていた。
私の意識を強烈に引いたのは、手紙の内容や差出人ではない。便箋の下から角を覗いせていた写真だった。
「これ……」
写真には、馴染みのない風景を背にズミさんと複数人が映っていた。友人だろうか、同年代の男性が横に立っている。写真は複数枚あり、次の一枚を見ると季節が変わっていた。心なしか、今のズミさんよりもさらに細く、表情も青い。いつごろかは分からないが、過去のズミさんだろう。
3枚目は家族写真だ。10人前後が映っている中で、長身のズミさんは後列に立っている。先の一枚よりさらに古い写真なのだがあまり笑えていない印象的な眼差しで、どれがズミさんだかすぐ分かる。一切変わっていない眼差しに思わず笑いがこぼれた。
その他の写真にも、ズミさんが必ず映っている。手紙の差出人は親族か、古い友人といったところだろうか。手紙の内容からは意図的に目をそらしているが、筆致は高齢女性と言った風情があった。
ズミさんの顔立ちは早々に出来上がっていたようだ。どの写真でも慣れ親しんだブロンドが風に吹かれている。髪が短かったり、反対にえりあしが長い時期があったり。10代らしき頃から服装にほのかな美意識が感じられたり。写真の中には私の知らなかったズミさんが閉じ込められていて、思わず引き込まれていった。だけど、写真がより一層古くなって、ズミさんの幼い頃がかすかに視界に入った瞬間、私は目をそらした。
最近の私は、”魔が差す”という言葉がぴったりだ。毎日アラームとともに口に入れる避妊薬。それをうっかりゴミ箱へ、手を滑らせてしまおうかと考えているのだから。
ズミさんは誰かちゃんとした相手と家庭を作ることを夢見ている。いつかその誰かの元へと行ってしまう。けれど薬をやめたら、私ももらえるものがあるのではないかと、悪魔的な考えが思い浮かぶのだ。そして邪な空想が広がる。薬をやめたら、ズミさんに似た子供ができたりするんだろうか、と。
ブロンドで、目つきが鋭くて、鼻筋が綺麗で、唇は薄くて、頬も薄い。成長したら手足が長くなって声はほどよく低くなって、怒ってなくても眉を寄せる癖を自然と持つようになる。それで中身は理屈っぽいように見えても感情的で、自分に厳しいが故に他人が許せず、癇癪を起こしたり、するんだろうか。その想像に行き着くと、私はとんでもなく落ち込む。だって私が想像するのはズミさんそのままで、私の遺伝子は考慮されていないのだ。
きっと子を持ったって意味はない。私が欲しいのはズミさん、ただその人であって、ズミさんの遺伝子ではないのだから。
毎日のように、魔は差して私の肩を叩く。だけど空想の後はちゃんと、自分の浅はかさが嫌になる。おかげで私は服薬を欠かしたことはない。
シーツにくるまったズミさんは寝ていると思ったが、覗き込むと細く目を開けていた。額には少し汗をかいた後がある。
「熱はあるんですか?」
「寒気がもうないので、ほぼ微熱かと」
「そうですか。本当に何かお手伝いすることはないんですか?」
「今のところは」
「そうですか……」
来て欲しいとの電話が来た時、正直私は困っていた。急に言われたら誰でもそうだと思う。だけど、初めて頼られた気もしていた。必要とされる。その実感は私の人生に圧倒的に足りないものだ。
私はどうやら無意識に必要とされる経験に飢えているようだ。別れた後ズミさんに押しかけられても応じてしまった理由も、これだろう。何も持たなくていいという言葉を敢えて鵜呑みにした理由も、きっと同じ。
白いシーツの中からじっと見上げてくる瞳に、私は曖昧に笑った。
食事代だったり、こまめで小さなプレゼントだったり。私は今までズミさんにたくさんの対価を手渡されて来た。それはそれで私を安心させてくれた。
今回のこともズミさんは後日、何かを用意してくれるんだろうか。もし今日の対価があったら、私は嬉しくなるんだろうか、それとも。
「……ズミさん、私はそろそろ帰ります」
「いやだ」
なんだその子供っぽい言い方は。
「何もすることないのに」
「さんが、いてくれるだけでいい」
「………」
「何度もそう言っています」
私が困って笑うだけに留まっていると、ズミさんはシーツ越しにわがままですみません、と謝りの言葉を口にした。
ズミさんのわがまま。今まで彼のわがままに何度も付き合ってきたが、こんな可愛いわがままは始めてだ。
「……やっぱりズミさんには奥さんが必要なんですね」
「はい?」
「こういう時に、誰かと暮らしてれば実際助かりますよね。それは親でも兄弟でも良いんでしょうけど、もう自立したんだから、そこからの人生を一緒に歩んでくれる誰かを意識するのは、分かる気がしま」
「結婚なんてっ、どうでも良いんです」
ズミさんの声が私にかぶさる。まだ怠いだろうに、がばりと上半身を起こしたズミさん。目もしっかりと開いて私を捉えている。
だけどそれよりも気になったのは、以前と言っていることが違っていることだ。
「そうなんですか? あの時はあんまり、そういう風に見えませんでしたけど」
結婚を意識してしまう、とズミさんは言っていた。真剣味を帯びた独白だった。逃れられないと苦悩するようでもあった。
少し苦しそうで、だけど求めることをやめられない。そんなズミさんを何度も思い出すうちに、私はすでに自分の気持ちを見つけている。
私は、ズミさんに幸せになってほしいらしい。結婚を考えてしまうと言ったズミさんの熱の宿った表情。叶えて欲しいと思った。そんなに熱望するのなら、大丈夫だ、貴方なら辿り着くのだろう、とも思った。
なのにズミさんは無責任にかぶりを振る。
「いいんです。今の生活がきっと最高潮なんです」
「最高潮、ですか」
「ええ」
「なんだか寂しい言い方ですね」
最高潮と言われると、熱狂がこれから冷めていく印象を受ける。まばゆい朝陽を迎えれば、夜のことは無責任に葬り去れてしまう。そんな響きだ。
「今に満足するなんてらしくないですよ。ズミさんはもっとずっと、幸せになれます」
心からの言葉なのに、ズミさんは否定するように首を振る。
「ズミさんには幸せになって欲しいって私も思ってます」
やっぱりズミさんは首を横に振る。それから、はは、と笑っているような息を吐いた。笑い声なのか判別に困ったのは、彼の目が一切笑っていなかったからだ。
「さんは立派だ。私と違って、人の幸せを尊重できますから」
「ええと。どういう意味ですか?」
「貴女の幸せを多分私は願えていないので」
「ひどい……」
私は、珍しくまっすぐに、この人の幸せを願っている。彼が悲痛なまでに追い求める全てがその手にもたらされて欲しいと願っているのに、当の私はズミさんから幸せを願ってもらえないらしい。
地味にショックを受けたのが表情に出ていたと思うのだが、ズミさんはそれにすら、はは、という息を吐いた。
「ええ、酷いんですよ。でも、何度も考えているんですよね」
ベッドから伸びて来たズミさんの手が、私の手を救う。いつもは冷たいズミさんの手が、ほのかに熱を持っていて、確かに微熱気味だ、と頭のどこかで考えた。
「さん」
「はい」
「私と結婚してください、なんて、もう二度と言いませんから。ここにいて」
「……えっ、と……」
ズミさんが何を言っているのかよくわからなかった。今日はもうたっぷり、同じ部屋で過ごしたと思うのに、まだここにいなければいけないのだろうか。だけどそれが結婚の話とどうしても結びつかない。理解できないのだから、私はズミさんに疑問をぶつけるしかない。
「あの……。結婚は別に、したらいいんじゃないかと思いますけど」
「貴女は!!」
ズミさんのまとう雰囲気が怒涛の勢いで変わる。まるで、グラスから水が溢れるようだった。表面張力でふちを越えて膨らんでいたものが、決壊する。
「貴女は何もわかっていない! 私の願いは家庭を持つ事ではないんですよ! 相手が誰でもいいわけでは無い! 誤解しないでください、本当に貴女ってひとは!!」
なんで私、怒られているんだろうか。しかも私がひどく無知で、私に非があるみたいにズミさんは言う。
病人とは思えない剣幕だ。私の何が悪かったんだろうかと内心焦るものの、ズミさんが何に怒ってるのかも私は分かっていない。バカで申し訳ないけれど、本当に分からないのだ。
私がズミさんの怒りを何も理解してなくて、ズミさん一人が激昂してる。そのことに本人も気づいたらしい。
一度、忌々しげに顔を歪めるとぶるぶると震える息を吐いた。
「さん」
私の名を呼ぶために絞り出された声色は、随分怒りが抑えられていてズミさんの盛大な努力を感じた。
「本当に求めてるのは、あ、愛し合う事に決まってるでしょう……?」
「は、はあ」
「貴女を愛しています」
そうだったんですか? 声に出して疑問をぶつけなかったのは、目の前のズミさんがもういっぱいいっぱいなのが目に見えていたからだ。
貴女を愛しています。もう消えてしまった声を私は追いかけて何度も反芻する。
「あの。それって、最初からずっと、ですか? それとも最近の話……?」
「出会った時から、ずっとです」
かき消えそうな声で、ズミさんは「心外ですね」とも付け足した。
私たちの交際関係はズミさんから言われて始まった。最初のデートでとても無理だと感じて、私から気持ちを伝えて、別れた。そうして一度、関係は無くなった。その後私は、一緒に過ごす時間を増やしていくことで、ズミさんを好きになれた。だけどズミさんは、ずっと私を好きなままでいてくれたのか。
ズミさんが、私を愛している。信じられない気持ちはまだ半分以上ある。だけど今日、言葉にされたものを受け取って、なんだかんだ手放せないでいるのは、私もズミさんを通して、誰かを手も足も出なくなるくらい好きになる体験を得たからなのだろう。
徐々に鼓動を早くさせていく心臓が、飛び出ていかないよう気を配りながら私は、嬉しい、とズミさんに伝えた。私の返事は予想外だったようで、ズミさんはぽかん、と口を開けている。
「じゃ、じゃあ。今日から私たち、恋人ということですか」
「は……? 貴女は、な、何を言ってるんですか……?」
当然のことを確認したまでだったのだけど、ズミさんの返事は曖昧だ。やっぱり、病人なのに感情的になって無理をしたせいで、もう頭が回っていないようだ。
ズミさんが上体をぐらりと崩れさせる。目も、視点が合わなくなっている。熱が上がって来たのか、顔も赤い。
この人に今一番必要なのは休息だ。そう確信した私はうろたえているズミさんの肩を柔く押す。逆らえるはずのズミさんはそのまま倒れて、もう一度シーツの上、横になった。
「ズミさん。さっきのは、やっぱり撤回します」
「え!?」
「ズミさんがしっかり寝て、目が覚めたら、……恋人です」
オーバーヒートしてしまったのだろうか。ズミさんは何か言いたげに口を開け閉めしていたが、すぐに気力が尽きたように目を瞑った。
今日のズミさんはあまりまともじゃない。起きた時、話をどこまで覚えているか心配だ。だけどあまり不安はなかった。
そもそも、私なんかを好きになる時点でまともじゃない人だ。正気である事をズミさんという人物に期待したいと思わない。
最初からどこか可笑しかった彼相手だから、もう一度伝えられる。ずっと、と言ってくれたズミさんには敵わないけれど、私もいつからか貴方を愛しています。
(続きが読みたい、とのリクエストありがとうございました!)